現代の一般市民の感覚からすると、天皇家や藤原氏の激しい政争には違和感を覚えます。争いに勝つことで、人生を賭けるほどの利益が得られるのでしょうか。

何を求めてどのように生きるかは、時代によっても社会によっても、そしてどの階層に属するのか、どんな職業を持っているのか、究極的には個々においても異なりますね。古代の貴族層においては、氏族、もしくは家を存続させること、儒教的な考え方に沿っていえば、父祖から受け継いだものを損壊せず、可能であればさらに発展させて、未来の子孫へ残してゆくことが至上目的でした。宮廷社会の厳しい生存競争、政治的競合のなかで、原則としてはそうした思考が作用していたと考えられます。摂関家が隆盛期を迎えた藤原道長の晩年には、仏教の浄土思想が一定の役割を果たしたと考えられます。浄土思想は、一定の階層以下には厭世的な心性をあらに強化し、社会の状態を固定化すること、すなわちピラミッド状の階層構造を維持して、権力者側に有利に働きます。一方で上位階層においては、当時の考え方として、現世の権力構造がそのまま浄土へも引き継がれると考えられたようです。道長が世俗的な頂点を目指しつつ、併せて仏教的作善も行い、無量寿院九体阿弥陀堂を端緒に法成寺を整備していったのは、それらが九品往生義の頂点、上品上生の往生を可能にすると考えたためなのです。