マルクス主義の件ですが、なぜ歴史学において法則性が重視されるのでしょうか。〈繰り返す〉ことに何の意味があると考えられているのでしょう。 / 歴史における法則とはそもそも何でしょうか、どの程度まで許容されるものなのでしょうか。

詳しくは次回お話ししますが、マルクス主義歴史学唯物史観)の重要な点は、社会・経済が別の形式へ展開してゆく仕組みを、厖大な歴史資料から明らかにし理論にまで高めた点です。マルクスはまず、歴史を人間の自由な意志や観念の展開のうえに位置づけてきた見方を否定し、人間の意志や観念、それに基づいて行われる政治は、社会・経済の構造=生産様式に規定されると考えました。前者を上部構造、後者を下部構造と呼び、上部構造は下部構造に規定されるとみるのが、まず第一の法則性です。
次に生産様式を具体的に考えてみますと、人間=生産者は自然環境に働きかける(=労働)ことによって、さまざまな生産物を生み出します。知識や技術がある程度の水準に達すると、労働には種々の道具や場が必要なものとなりますが、これを生産手段といいます。農業の場合でいえば田畑を耕す農具、肥料や農薬、そして田畑そのものすなわち土地です。この生産手段は、古い時代には共同体で共有されており、やがて権力者が独占してゆくといったように、時代によって所有者が変転してゆきます。しかし現代に至るまで、その多くは大きな権力を持つ者によって所有されており、その点を通じ権力者は、生産者から種々の搾取を行っています。多くのものが生産者に私有されているようにみえる現代でも、例えばグローバル・バイオ企業のモンサントなどは、種子・農薬・肥料などの基本的な生産手段を生産者から独占すべく、「自殺する種子」や「モンサントの農薬でしか守れない作物」などを遺伝子組み換えで創り出しています。古い時代であればなおさらでしょう。また、搾取者は生産者を現在の状態に留め、可能な限り搾取を安定させるために、彼らの思考や心理を縛るイデオロギーを喧伝します。例えば、封建社会における「農民は君主に奉仕するべき」といった考え方、現代日本でも根強い「女性は男性に従うべき」といった考え方です。現代では、新自由主義の発想をよしとする言説が、代表的なイデオロギーでしょう。すなわちそれぞれの時代においては、搾取者を優位に立たせるイデオロギーが喧伝されているため、生産者が自由意思の行為と考えているものも、搾取者の思惑に束縛されている場合が多いのです。しかし、それでも次第に生産者に余力が蓄積され、イデオロギーを自覚的に拒絶できる状態が整うと、生産様式全体の構造が変革されて新たな形態へ移行します。これが俗に革命、といわれるものなのです。このような経済構造の仕組みが、第二の法則性です。
そして、マルクス自身は深く追究することをせず、また強く拘ってはいませんでしたが、世界史のあらゆる領域が第一・第二の法則に基づき、原始共産制から古代奴隷制、中世封建制、近代資本主義、そして未来の社会主義へと展開すると考えました。これが第三、世界史の基本原則(発展段階説)と呼ばれるものです。これは第一・第二の法則に比して極めて分かりやすかったためか、広く人口に膾炙し、世界の諸々の地域において、自国・自民族の歴史や現状がどの段階に該当するか、激しく議論されることになりました。アジア的生産様式論、時代区分論争などもその一環です。
しかし、現代的価値観からみて本当に重要なのは第一、第二の法則性でしょう。いずれんも、現在の社会科学的世界観の根底をなすものです。すなわち、マルクス主義歴史観の法則性とは、人間社会の仕組みとその時間的展開に関わるもので、単純な「歴史の繰り返し」を意味するわけではありません。