当時は土葬や火葬はどの程度行われていたのですか。
礼に即した中国的葬法が伝わることによって、奈良時代初期には、貴族たちの間で仮葬の風習が広まり始めました(なお渡来人の間では、もっと早く古墳時代末期から、例えば須恵器窯において人間を火葬することが行われていたようです)。中国風の墓誌を伴った骨蔵器などが幾つか発見されていますし、道昭や持統天皇、行基など、火葬の実施が書物に記録されている例もあります。しかし、『六道絵』の表象する平安時代には多少様相が変化したようです。一般庶民の遺棄葬と違い、貴族の場合はやはり火葬が一般的でしたが、火葬/土葬の別については、葬儀のスケジュールなどとともに陰陽師が勘申したり、死亡者の遺言や遺族の注文によって選択されたりしていました。例えば、清少納言の仕えた中宮定子などは土葬になっています。ただし、当時の上級貴族の土葬は直接土中へ埋納するのではなく、築地塀と檜皮葺の屋根を持つ「霊屋」という小屋が用いられました。遺体は、車輪を外した車箱に乗せられたままそのなかへ留め置かれ、骨化の後に改めて処置されたと考えられています。火葬の場合には、葬地で荼毘にふされた後、固有の墓所(藤原氏は木幡)へ運ばれ埋葬されました。しかし埋葬地は明確に記憶されなかったようで、墓参に訪れたものの目的の墓が分からない、ということも頻繁にあったようです。