ランケの実証主義における神のあり方が、いまひとつ具体的に想像できません。 / 日本では、ランケ実証主義における神が天皇制イデオロギーによって代替されたとのことですが、もう少し具体的に説明して下さい。

ランケの実証主義における神の存在は、その前近代的痕跡であるといえます。前近代は、(人間の認識において)神が支配する世界であり、その克服によって、神から独立した近代的個が誕生してゆきます。ゆえに近代において、誰がみても同一の事実となる客観性の根拠は、自分自身あるいは社会との関係性に基づき実証できますが、前近代においては神に支持されていなければなりませんでした。客観性は神に裏付けられているからこそ客観的になりうる、というわけです。ランケの実証主義にも、そうした痕跡がみられるのです。キリスト教では、この世の歴史は神の計画の発現であると把握しますが、国家を神の理想の体現とみるランケの発想は、やはりキリスト教的であるといえるでしょう。一方日本でも、『日本書紀』から『神皇正統記』や『大日本史』に至るような、歴史を天皇統治の展開として記述する史書・史観が存在していました。重野や久米の近代実証主義歴史学は、それらを排したところに成立するはずですが、社会に強固に浸透するそれらイデオロギーが顕在的に、あるいは無意識的に作用し、ランケ実証主義における神に天皇主義を代替してゆくのだと思われます。