藤原京の造営時に、墳墓を破壊していたというのは意外だった。いくら都を造るためとはいえ、抵抗はなかったのだろうか。当時の人々は、どのような理屈でそれを乗り越えたのだろうか。
『日本書紀』持統7年(693)2月己巳条に、「造京司衣縫王等に詔して、掘るところの尸を収めしむ」との記載があります。造営工事に際して暴かれてしまった遺体を収容し、いずれかへ埋葬したとの内容でしょう。藤原京域には、例えば畝傍山北東の京域に、古墳中〜後期の四条古墳群が発見されていますが、地上の墳丘部分は藤原京造営時に削平されてしまったものとみられています。都城造営ににはこうしたことは少なくなく、続く平城京においても、『続日本紀』和銅2年(709)10月癸巳条に、「造平城京司に勅してのたまはく、若し彼の墳隴、発堀さるれば、随に即ち埋め斂め、露棄せしむること勿かれ。普く祭酹を加へ、以て幽魂を慰めよ」と出てきます。やはり、京域内の工事で墳墓を破壊せざるをえなかった場合は、遺体をそのまま放置せず、酒を注いで祭祀を行い、改葬して亡魂を慰撫せよとのことでしょう。平城宮域では、推定全長253メートルの前方後円墳・市庭古墳が、後円部のみを残して破壊され、同じく推定全長114メートルの神明野古墳も、墳丘部は一切削平されてしまっています。死者の祟咎を怖れながらも、天皇のための工事であり、きちんと祭祀をすれば問題はないと考えられたのでしょう。