自国の文化を純粋なものと誤認しがちな日本人の国民性は、いつ・なぜ生まれ、今なお目立って存在するのでしょうか。

古代からエスノセントリズム的なものは、必ず何らかの形で存在はしたのですが、その表現形式は、多く外来のものから成り立っていました。例えば、朝鮮半島を諸蕃、東北の辺境民を蝦夷、南方のそれを隼人と位置づけるような日本的中華思想は、もちろん中国王朝からの借り物です。日本を世界の中心に位置づけるがごとき須弥山像の設置、大仏の造立も、仏教の様式を援用したものに過ぎません。中世にかけて、仏教文化の受容度において朝鮮などと競合しようとした三国史観は、天竺→震旦→日本という「仏教発祥地からの伝来形式」で正統性を証そうとしたものでした。同時期に強まる神国思想などは、最も「純粋性」に近いものでしょうが、やはり三国史観などに影響を受けている点は否めません。やはり、現代に連なる「純粋さの幻想」は、近世の国学に起源するものと思います。ただし近世以前は、このような考え方が社会のあらゆる階層で一般的であったわけではありませんでした。それが社会の底辺に近いところまで浸透し、現在まで残存しているのは、まさにいまお話ししている近代の歴史過程が主要な原因です。戦後にその誤謬を充分精算しなかったために、いまでもその残り火が燃え続けている、あるいはそこへ薪をくべようとする人々がいるのです。