殺生功徳論は、単なる人間のエゴにしか思えません。人間は、一度肉のおいしさ、毛皮の温かさを知ったら後戻りできないと思うのですが、いかがでしょうか。 / 仏教的価値観の広まっていた当時の狩猟者たちには、殺生功徳論は生きてゆくために必要だったのではないでしょうか。 / 殺生功徳論について、生きているうちには自殺・他殺・随喜同業のどれかによって殺生をしてしまうので、彼らを殺してしまったからには自分が功徳を積み、報われるようにしなさいという思想ではないのでしょうか?

まず最初に、ぼくは、人間が反省と改善が可能な存在だと思っています。ぼく自身も、まったくの無知、傲慢な状態から、猛烈な反省を繰り返しながら、少しずつ前に進んできたと考えています。それを信じていなければ、学問も研究もできませんし、教育の現場に立つ意味もありません(しかし残念ながら、同時に一定の絶望感を持っていることも確かです。自分のことも含め、そのせめぎあいのなかにいます)。殺生功徳論が生きるために必要だったのではないか、というのは優しい意見ですね。確かにこの思想は、不殺生戒を支配の道具にしていた顕密体制下、狩猟を神事として継承してきた阿蘇や諏訪、それを取り巻く武士層のなかで生まれてきました。彼らにとって、体制的権力と戦いながら主体形成を行うためには、この思想が必要であったのだと思います。しかしそれ以降、殺生功徳の言説が形式化するに従って、例えば諏訪神文などは、自分を守るためだけの免罪符に堕してゆきます。生命を奪うことに対する葛藤が抜け落ちてしまい、単に祟りや堕地獄を回避する手段になってしまうのです。それについてはやはり、厳しく批判してゆく必要があるでしょう。現在は、狩猟の現場でも、「生活のために殺すのは当たり前」との考え方が主流になりつつあり、大きな危惧を抱いています。最後に仏教学的な位置づけですが、殺生功徳論は、悪人正機的な自己反省ではありません。むしろ殺生を積極的に肯定してゆく思想であり、かつてオウム真理教で話題になったポアに等しいものです。それに近い論理は、すでに『瑜伽師地論』などのなかに、生きていることで他者にも自分にも悪業を拡大してゆく存在については、その未来を見通すことのできる菩薩が殺生を行うことも許される、という発想として出てきます。これも議論の余地があるでしょうが、「菩薩にのみ許されている」ことに注意すべきです。業縁から逃れられない凡夫が、「業尽有情、雖放不生、故宿人天、同証仏果」などと宣言して他の生命の可能性を奪うのは、仏教学的にも許容されません。