中国やヨーロッパの就業のあり方については明るくないのですが、利益を生む毛皮市場を選択している人々に、「屠殺を押しつけている」という言い方は言い過ぎではないでしょうか。

デリケートな問題ですが、まず講義の文脈を考えてください。中国やロシアの毛皮工場が環境保護団体から批判を受けている情況について、「一方的な非難は正しくない。グローバリズムの観点からいえば、中国やロシアの国内市場のためだけに、このような生産が行われているのではなく、世界的な需要の結果なのだ。いわば、未だに毛皮を防寒具としてではなく、他の目的で欲しがる人々が、中国やロシアの労働現場に動物素材化を押しつけているのだ」とお話をしたわけです。また、毛皮工場の労働環境は、人間にとっても動物と同様に過酷であり、また貧しい地域の安価な労働力を目的に、設置されていることが多いのです。人間のなかにも、グローバル企業/一般労働者の搾取関係があり、人間/動物の搾取関係とともに、二重三重の搾取構造を構築している。その点を考慮しなければならないわけです。そしてそのうえでですが、これまでの授業でお話ししてきたとおり、ぼくは現代の毛皮工場のあり方を認めていません。「それは職業の卑賤視ではないか」との批判もあるでしょうが、例えばぼくは、(宗教上のバイアスもありますが)売春を職業として肯定することができません。近年、高齢者や病者、障がい者の方々の性の問題など、セックスワークの重要性が指摘されています。たくさんの人びとが、性産業で働いていることももちろん承知しています。しかし、ある意味ではインターネットがカタルシスのツールと化してしまったように、性産業においては女性や性的マイノリティーの立場が圧倒的に弱く、心も体も抑圧的に消費されてしまう傾向がある。社会の歪みが弱者へ弱者へと働いて、性を「売る」方も「買う」方も、お互いに人間の尊厳を傷つける行為になってゆく。こうした環境下においても売春に携わる人々が生まれてしまうのは、やはり個人的なモチベーションに還元できない、社会的な、複雑な問題が横たわっていると思います。「需要があるからだ」ではなく、需要がなぜ生み出されるのか、どのように生み出されるのかが重要なのです。毛皮工場の件もそれと同様であり、まずは毛皮生産の残酷さを社会に訴えつつ、貧困地域に需要を担わせる当該国家、および世界的な経済情況の改善を主張してゆかなくてはならないと考えています。