石や岩は生命を生み出す象徴になっていると、よく分かりました。なのになぜ、子供を産めない女性のことを「石女」というのでしょうか? かつて一体であった両義性が、二極分化したとみていいのでしょうか?
そうですね、授業でも紹介したジン・ワン氏などは、そうした見方をしています。現代からみると異なる要素が一体になっている論理について、かつてレヴィ=ブリュールは〈融即の論理〉と呼称し、それが作用している心性を〈原始心性〉と名付けました。すなわち、プリミティヴな状態であるということです。その根底には、近代へ向かって融即は崩れ二極分化に至る、という一種の進歩史観がみられます。現代のぼくらは、その「進歩」という点にまず、疑問を持つことが大切でしょう。同時に、これらの原始心性とその崩壊過程を、あらゆる地域に普遍的なものとしてみてしまってよいか。石をどう考えるかという発想も、例えば広大な中国において、どの地域にも、どの民族にも共通して存在する、とまではいえないでしょう。また、これは憶測に過ぎないのですが、石=生命を生み出すという心性が前提としてあるのならば、「石女」には「やがて出産するという希望」が託されているのではないか、とも思われます。もちろん、注意しなければならないのは、その場合も、男性優位社会は女性を「産む性」と規定しているということです。「希望」自体が重い、暴力にほかならない場合もあります。しかし、単なる誹謗中傷よりは、少しでも救いがみえるかもしれません。