2012-06-18から1日間の記事一覧

鉄剣などの金石文は、どのように書かれるのですか。この技術も、渡来人によってもたらされたものですか。

鉄剣などに記す金石文のありかたは、陰刻・陽刻の2つがあります。前者は金属器自体の完成したあとに文章を刻むもの、後者は金属器の型に文章を彫って鋳造を行うものです。刀剣の場合は鋼を打ち鍛えて製造しますので、多く陰刻によって銘文を作成します。弥…

仏教公伝の年代については、538年と552年のどちらが正しいとお考えですか。 / 継体没年・欽明即位年はどれが正しいとお考えですか。

仏教公伝の年代については、『書紀』に載せる欽明天皇13年(552)説、『元興寺伽藍縁起』『上宮聖徳法王帝説』などに載せる欽明天皇戊午年(538?)説があります。従来は、仏教関係史料に書かれた後者が有力でしたが、近年はその史料性を疑問視する見方も出…

倭国と百済との友好関係は、なぜ長きにわたって続いたのでしょうか。

朝鮮三国と倭国に通交が発生した四世紀後半、すでに百済・高句麗は敵対関係にあり、百済は高句麗との戦闘を有利に進めるため、海を挟んで隣接する倭国と同盟関係を結んだようです。高句麗の広開土王の時代には、百済と加羅地域が連合し新羅に敵対したのに対…

日本は奴国の朝貢の時代から、中国王朝と戦争をしたわけでもないのに従属の形を取っています。それはなぜでしょうか。

弥生時代を通じて、列島には様々なレベルでの渡来人が訪れています。とくに金属器の生産に関しては、朝鮮半島等々から原料や技術を輸入し、それをなしうる人物こそが支配的立場に就いていたものと考えられます。中国王朝の情報は、すでに多様な形で伝わって…

倭王武と雄略が同一人物ならば、允恭が済、安康が興と単純に考えてもいいと思います。なぜ諸説あるのでしょうか。 / 「讃」は日本の天皇の中国語読みなのだと思いますが、なぜ中国名が勝手に付けられているのですか?

『宋書』に載る上表文にみられる倭王の中国名は、同文章を作成した渡来人が、大王の名の一部を採って中国的に表現したものと考えられます。「武」はワカタケルのタケルに相当し、「讃」はホムタワケのホムに当たるのでしょうか。上表文を中国的形式に則って…

倭王武が、「七国諸軍事」を要求したにもかかわらず、宋の順帝が「六国諸軍事」と叙爵し、加羅への権利を与えなかったのはなぜでしょうか。 / 宋の順帝は、倭王武の身辺調査もせずに、上表文だけで叙爵したのでしょうか。

宋はこの除正を通じて、朝鮮半島の政治的情勢を自国に有利に展開しようと図っています。政治的パワーバランスを考えて、要請に応えて正式な除正を行うかどうかを決定していると考えられます。武は加羅への軍事的顕権限だけでなく、開府儀同三司への任命も認…

『宋書』も中国王朝の正史として、さまざまな政治性のなかで成立していると思います。『宋書』の記述自体は信用してよいのでしょうか。

もちろん、『宋書』にも政治性がありますので、記述が客観的に正しいものかいなか検討が必要です。しかし、上表文に関する部分は『宋書』の地の文ではなく、基本的に上表をそのまま引用しているとみられる箇所なので、省略こそあれ、意図的な改変はなされて…

『書紀』が、対外的に天皇のありようを誇張して描くことに、具体的にはどのような利点があったのでしょうか。

『書紀』は中国王朝や朝鮮三国を意識して書かれていることは確かですが、実際上その記述の視野に収められていたのは、むしろヤマト王権を構成する諸豪族、地方諸勢力、そして国家を支える官僚たちであったと考えられます。『書紀』は成立後間もなくして、官…

『古事記』は、書かれている神話の新しさから偽書説も唱えられていますが、先生はどのように考えていますか。 / 『古事記』『日本書紀』は、そもそも史料として利用できるのでしょうか。古代日本を考えるためには、何を史料とすればよいのでしょうか。 

現在は、『古事記』の序文を疑う見解はありますが、全体を偽書とみなす説は少なくなってきました。音韻や文章の詳細な分析も進み、8世紀前半のものとみて間違いないという評価が定着しています。神話については、これといって「新しい」という感覚はありま…

王位継承に関して、「大和王権とは違うグループ」云々がよく分かりません。他に幾つかあったという認識でよいのでしょうか。

これまでお話ししてきたように、ヤマト王権は、ヤマトのグループを中心とした幾つかの政治集団の連合体です。吉備や出雲、北九州、東海には、王権と同盟した強大な勢力の存在したことが分かっています。しかしヤマトのなかにも、血縁原理でまとまった幾つか…

王位継承は実力重視から血縁原理へ移行したとのことですが、なぜ『古事記』『日本書紀』は、すべてを血縁原理で創作したのでしょうか。実力重視の内容でもよかったと思うのですが。 / 権威付けを無理にするほど、万世一系に意味があったのでしょうか。

恐らく、『古事記』や『日本書紀』を生んだ7〜8世紀のヤマト王権が志向したのは、「革命のない王朝」であったと思われます。彼らが国家形成の手本とした中国王朝は、革命によって王権の健全さが保たれる(ことを名目としている)国家形態でした。版図が極…

5〜6世紀に導入された王位継承に関する血縁原理は、そのまま現代の天皇にも繋がっているのでしょうか。

中国的な父系直系原理を理想とする形に整備されてゆきますが、当初は母系要素(つまり双系制)、非直系的要素も強かったものと考えられます。7〜8世紀の女帝の出現はそのことを証していますが、男性の正統的後継者が未だ即位できない場合、その後見として…

天皇家の実際の家系について調べ、発表することは、あるリスクを伴うのではないでしょうか。現代日本でも天皇家は一種のタブーになっていると思います。古代についてであれば、いくらでも研究できるということでしょうか。

現在、天皇家に関する歴史研究は、現在の皇室のプライベートに関わる問題でない限り、ほとんどタブーはありません。まともな古代史研究者であれば、誰ひとり「万世一系」神話を信じてはいないでしょうし、系譜・系図関係の研究も活発になされています。唯一…