2015-06-12から1日間の記事一覧

史料として挙げられている道教の経典には、仏教思想と思われるものが多い気がしました。また、「愛」「悟」といった、今の私たちにはよいイメージの言葉が鬼の名前として使用されているのは、なぜなのでしょうか。

六朝時代の道教は、仏教思想を採り入れつつ体系化され、教団としての発展を遂げました。最大の勢力である茅山道教、いわゆる上清派では、それまで道教にはなかった輪廻思想も採り入れられ、人間は生き死にを繰り返し善行を積むなかで浄化されてゆき、ついに…

医術と呪術がはっきりと分けられるのは、いつ頃なのでしょうか。西洋医学が中国に流入するのを待ってからなのですか。

中国医学の場合、宋代に大きな画期があるとされていますが、もちろん、完全に分離するわけではありません。呪術的な対応は、中国医学のどこかに残り続けてゆきます。また、科学/呪術の区別も相対的であり、西洋医学の側からは、気の流れや経絡などを重視す…

なぜ時間の経過によって、発熱を起こす鬼の種類が違ってくるのでしょうか。

中国では、森羅万象の意味付け、カテゴライズが、ほぼ陰陽五行説を用いて行われます。時間・空間を分節する十干十二支も、五行説で定義されることになるわけです。すると、その日時に力を持つ神霊、活動が活発になる神霊も、それぞれ五行説に応じて分別され…

「名前を知る」ということによってコントロールを試みるというお話が、『千と千尋の神隠し』にも似ていると思いました。このような考え方は、どこから発生したものなのでしょうか?

「名は体を表す」という諺がありますが、ラベルとしての名称がその存在の本質と密接に結びついているという発想は、いわゆる原始社会からみられるようです。呪術の系統でいえば、類感呪術の一種と位置づけられるでしょう。これは、類似したものどうしは互い…

食唐鬼木簡が、長屋王の怨念を前提にしているという根拠が、いまひとつ希薄な気がしました。そもそも、この木簡が天然痘流行を念頭に置いていたということが、内容からはあまり窺えない気がします。

そうですね、食唐鬼木簡が天然流行時に用いられたという推測は、まず二条大路側溝の出土場所から、その廃棄元が皇后宮もしくは藤原麻呂邸と考えられること、廃棄の時期が天平7〜9年と考えられることなどに基づいています。また呪符の用途が治病であり、形…

ヤマタノヲロチは、『古事記』では川の神だと思っていましたが、なぜ山の神の名前を持っているのでしょうか。

『古事記』ではヤマタノヲロチを、川の神だとは表現していません。その特徴を記述した部分には、「その目は鬼灯のように赤く、胴ひとつに頭と尾が八つずつある。また、体中に蘿(ヒカゲカズラ。シダの一種)や檜、杉が生えている。身体の長さは八つの谷、八…

婦人鬼の仕業の発熱の際に美しい鏡を持つのはどうしてなのでしょうか?

授業でも説明しましたが、「明鏡」すなわち美しい鏡とは、よく映る鏡という意味です。実像をありのままに映す鏡は女性に敬遠されるだろうという、二重のジェンダー・バイアスがかかった皮肉がみてとれます。鏡が邪なものを却けるという、これまた洋の東西を…

呪術と医術を並行して処方しているとき、何らかの事情で片方が欠けた時の情況を述べた史料はないのでしょうか。呪と医(薬)の分離の始まりになると思いますので。

呪術に対する信仰は、これほど科学技術が発達し、科学信仰が席巻している現代になってもなくならないので、それほど簡単にはゆかないようです。もちろん、時代時代のなかで、社会的常識や習俗と格闘していたひとのなかには、呪術や宗教的迷信に懐疑的な人も…

不老長寿の薬として水銀からつくられた丹ですが、司馬遷『史記』にも秦の始皇帝の墓には水銀の海がある…というような記述があったと思いますが、水銀は古代の人々にとって特別なものだったのでしょうか。

もともとはその防腐効果に端を発するのでしょうが、かなり早くから破邪の機能を持つとする発想があったようです。施朱の習俗自体は旧石器時代よりみることができますので、不老長寿云々も、そこから派生した考え方でしょう。また、液体状態の水銀は、金属で…

処刑されたものが病を引き起こすという考えは、西洋の悪魔祓いなどの呪術的なものにはみられないのでしょうか。道教思想の影響を受けていない文化で同じような例がみられれば、上記の考えは道教思想に基づくという考えは成り立たないと思いました。

道教思想に基づくものだ、とは説明していません。あくまで事例として挙げた経典が道教のものであり、そうした発想が道教に採り入れられ意味付けされたのだ、ということです。刑死者、とくに非業の死を遂げた者が災禍をなすという発想は、ヨーロッパにもみる…

『肘後備急方』の引用部に関して、石を水に投げたあと後ろを振り返ってはいけないというのは、例えばお盆に、迎え盆や送り盆で後ろを振り返ってはいけないということ、オルフェウス神話の禁忌などと同じ意味があるのでしょうか。

そうですね、いわゆる「みるなの禁」に関わる問題です。人間にとって「みる」という行為は、あるものとあるものとを完全に分節してしまう行為、境界線を設定する行為の象徴ともいえます。ゆえに、現実の世界と他界、生者の世界と死者の世界の境界が曖昧にな…

中国の古い医書を研究している日本の研究者はほとんどいない、とのお話がありましたが、しかしプリントには、『産経』その他の日本語研究文献が幾つか引かれているようです。そういった先行研究があるにもかかわらず、〈食唐鬼木簡〉のルーツを『千金翼方』のみに求める通説が一般化していたのでしょうか。

プリントに参考文献リストも載せましたが、もちろん研究している日本人はいます。講義でお話ししたのは、「日本史の研究者で中国の古い医書を研究しているひとがいない」ということです。すなわち、中国の医書に刻印されたさまざまの豊かな情報を、日本文化…

漢方を用いる際に呪術的に用いることによりプラシーボ効果で効き目が増すことがある、とのことでしたが、それならば現代では、科学のみを信頼しようとするあまりに薬が効きにくくなる、ということはありうるのでしょうか。

そうはならないでしょうねえ。なぜなら、科学のみを信頼するのも、一種の信仰であり、呪術になりうるからです。科学と呪術の相違とは、一体何でしょうか。現在のさまざまな科学技術を古代の人々がみたら、きっと魔法と同じにみえたことでしょう。それは、技…