宮崎駿が、アニメーションは体験に基づいて描くものとしていることについて。体験したものでないと描けないのであれば、死ぬシーンは死んでいない人間には描けないと思います。説得力のない表現に共感できないのには同意しますが、私は経験を超えた表現は必死になって想像するという愛情に基づくものであればよいと思うし、またそうでなければならないと思います。表現というものは。

基本的にはぼくもそう思います。人間にとって最も大事なのは想像力で、それによって経験を超えることも可能です。しかし自覚しておかなければならないのは、その想像力にも限界があり、またその可能性は経験によって培われるということです。質問では「死」について言及されていますが、例えば肉親の死を経験したことのある人間とない人間とでは、死に対する想像力は明らかに違います。戦争の惨禍を味わった人間とテレビやゲームでしかみたことのない人間とでは、戦争観自体にも大きな開きが出るでしょう(もちろん個人差はあるでしょうが)。宮崎駿のいいたいのはそこのところで、現実のリアルと切り離された想像力は浅薄で枯渇するのも早いということでしょう。現実の炎をみたことのない人間に、見た人の心を動かすような炎は描けません。これは、無痛文明が人間の感受性を鈍化させるという提言と同じ意味を持っています。