縄文→稲作のテクニカル・ジャンプが、あまりに大きすぎるのではないでしょうか。より生育の容易な陸稲より先に、水稲が猛烈なスピードで広がったのはなぜでしょうか。

注意しておきますが、授業で何度もお話ししているように、現在、灌漑稲作は急激に列島中に伝播したのではなく、数100年というそれなりに長い時間をかけて、次第に普及をしていったことが分かっています。そのうえでですが、一般には、日本列島の土壌は、火山活動により黒ボク土という低リン酸肥沃度土壌が広がっており、植物の生育する栄養素が少なく、農耕に適さないと考えられています。しかし水田の場合は、水流が絶えずミネラル成分を補給し、水を蓄えた土壌が中性に近くなってリン酸成分が溶け出してくるため、黒ボク土においても稲が生育しやすいといわれているのです。事実、弥生時代の遺跡から発掘されている穀物を綿密に調査してゆくと、やはり雑穀よりも稲のほうが圧倒的に多い。そのうちには陸稲によるものも含まれていたと思われますが、一定の規模での労働力編成、初期の設備投資が共同体においては、水田のほうが必要な収量を得やすかったのかもしれません。ただしそれらは、社会の突出した政治化を意味したわけで、その点においても普及が滞ることになったもでしょう。