天皇の中国皇帝化とありましたが、現人神であると考えられていた時代に、ある意味本国の神が他国に傾倒していると思われることはなかったのでしょうか(「西洋では異端を排斥しましたが、日本でも仏教を信仰せず、あまり一般的ではない宗教を信仰すると、同じような扱いを受けたのでは?」への回答も、ここに含むものとします)。
『日本書紀』欽明天皇13年(552)10月条から始まる仏教公伝、崇仏論争の記事には、神祇信仰を奉じる物部氏や中臣氏が、「我が国家の天下に王たるは、恒に天地社稷の百八十神を以て、春夏秋冬に祭り拝することを事と為す。方に今、改めて蕃神を拝さば、恐るらくは国神の怒を致さむ」と述べ、仏教の国家的崇拝に反対すたと語られます。しかしこの箇所は、吉田一彦氏らが指摘するように、慧皎撰『梁高僧伝』巻9 神異/竺仏図澄伝からの引き写しと考えられます。そこでは、後趙の石虎が国内での仏教崇拝について臣下に諮問したところ、中書著作郎の王度が、「夫れ王の天地を郊祀し、百神を祭り奉ること、載せて祀典に在り、礼は嘗饗に有り。仏は西域に出づ、外国の神なり。功を民に施さず。天子諸華の祠奉すべきところに非ず」と述べています。『書紀』の「百八十神」はこの「百神」、「蕃神」は「外国の神」を、倭・日本の文脈に合わせて改変したものでしょう。いずれにしろ、列島社会(政治?)が外国の神を拒否しようとしたことが語られているわけですが、実際はこのころすでに、中国や朝鮮半島に由来する神格が日本でも祀られていました。『日本書紀』では、新羅の王子アメノヒボコが倭を訪れ、神として祭祀されてゆく様子が描かれています。また、皇祖神アマテラスの弟スサノヲの子神イタケルは、新羅に降臨したと記されています。そもそも、古墳時代の三角縁神獣鏡も中国の神仙思想に基づき形象されており、同時代の王がカミとして崇拝されるのは、中国思想に基づいていたと考えられます。列島においては、神社の原型が成立する古墳時代の時点から、多くの外国の神を受け入れ祭祀してきたのであり、崇仏論争で語られるように、「外国の神だから」という理由で拒絶されるのは不自然です。平安初期における天皇の中国化は、一般社会においてはそれとは判断できないでしょうが、宮廷社会においても、それを現在のナショナリズムのように批判することはなかったでしょう。やはり弥生時代から、中国や朝鮮半島は優れた価値の源泉であり、王権から分配される海外将来の威信財を、誰もが欲求したわけです。その状態は、平安国風文化の唐物流通に至るまで変わらなかったのであり、中国皇帝化も同様に考えるべきだと思います。