ヨーロッパでキリスト教、ユダヤ教、イスラム教などが発生し爆発的に広がったのに対し、東アジアではあまり一神教の概念自体が生じなかったのではないか、と思います。それはなぜだったのでしょうか?

身も蓋もない云い方になってしまうのですが、実は、現在の宗教学では、一神教多神教というカテゴライズの仕方自体に疑問が提示されています。例えば、日本古代国家の神話的世界観では、皇室の祖先神=アマテラスを中心とした天神のパンテオンが高天の原にあり、地上は統治者であるオオクニヌシを中心に、主に森羅万象を表象する地祇が活動しています。一応主神的ポジションの神格はいるものの、他に勢力の大きな神々が多数存在するので、多神教と呼称されているわけです。ギリシャ神話、北欧神話などに描かれる神々のパンテオンも同じでしょう。それでは、一神教の代表ともいうべきキリスト教はどうでしょうか。一応教学的にはGodは唯一、とされていますが、単に呼称の仕方が異なるだけで、天使その他の無数の神的存在が語られています。天使とギリシャ神話の神々、日本の八百万の神々とは、何か明確な区別が存在するのでしょうか。逆に、日本仏教の一派の浄土真宗では、多の神祇や仏を崇めず、偏に本尊の阿弥陀如来のみを信仰します。その他の仏教的神格も経論などには登場しますが、親鸞はこれを阿弥陀の力の表れと解釈しています。このような説明の仕方は、多神教でしょうか、それとも一神教でしょうか。以上のように、一/多の区別は非常に恣意的なものに過ぎず、生産的な議論は生み出さないのです。