東北の屠殺調査についての質問です。オーラル・ヒストリーの内容はすべて真実であるとして、今後も調査を進められるのですか?

授業をよく聞いてください。まず、今回の調査について、ぼくはすべてを肯定して語った覚えは一度もありません。以前に4月の調査について少しお話をして、前回は、11月の調査でそのときの情報がかなり修正された、とお話をしました。すなわち、文献を読むときと同じ史料批判を行いつつ、過去の実態を復原しようとしているということです。それは、ぼくひとりの力ではなく、現地の人々との共同研究によって行われます。

歴史学を専攻している人間がよく陥ってしまうのは、文字で書かれた記録は正しく、口頭で話された情報は曖昧で不確かだ、という固定観念です。まったくそんなことはありません。文字情報と口頭情報の事実性あるいは蓋然性は、書かれた/話された情況、書き手/話し手のスタンス、想定読者や目前の聞き手との関係性などによって決まりますが、同じように信頼が置け、同じように虚偽の危険を含みます。前近代の史料などは検証困難な場合も多く、口頭での聞き取りのほうが、何度も足を運び、お互いに確認してゆくことによって、より蓋然性のある情報に到達しうる可能性が大きいともいえます。

社会学者の岸政彦さんが著書『マンゴーと手榴弾』のなかで書いていますが、聞き取り調査は、お互いの信頼関係を構築してゆくなかで行われます。こちらも礼儀をもって調査の依頼をし、先方もそれなりの態度をもって応えてくださいます。そのなかには、もちろん記憶違いやさまざまの誤りが含まれますが、よほどの悪意や作為がない限りは、あえて大きな嘘をつく、あえて大きな誤りを話すということはありません。関連する文書や記録をお互いに確認し合ったり、複数の人と聞き取りの場を共有したり、またおひとりおひとり個別に丁寧に話を聞いてゆくことによって、ひとつの共同作業として事実性へ、蓋然性のある情況へ近づけてゆくことができます。その際、まず第一に必要なのは、相手に対する敬意です。冒頭に述べたように、「すべてを肯定している」わけではありませんが、相手を肯定する姿勢をもってともに作業をしてゆかなければ、やはり事実性には辿り着けないのです。

下記、岸さんの文章を引用しておきます〔『マンゴーと手榴弾』、pp.12-13.〕。「約束としての存在論」、という言葉を、胸に留めておいて下さい。

……この時間を、小さな言葉をやり取りしながら、私たちは共に過ごすのだが、そのとき交わされる言葉たちは、ひとつひとつは小さく軽いものであっても、どんどん積み重なって、数十年分の重みを持つ。語り手が語る言葉のひとつひとつが、私たちに対する呼びかけなのだ。先にあげた聞き取りのように岸さんという固有名を呼ばれなくても、すべての聞き取りでの語りは、何かを呼びかけている。何かを主張して、何かを聞いてもらいたがっている。いま語られていることは本当のことだと、実際にあったことだと、世界と何らかの形で関係しているのだということが主張されているのだ。聞き手も何か適当なお話をしてくださいとお願いしているわけではないし、語り手も何か適当なお話をしているつもりで喋っているわけではない。あなたの生い立ちや人生を教えてください、とお願いして、語り手もそれを受けて、自分の生い立ちや人生について語っているのである。そのなかには、にわかに信じがたいもの、思い込みや勘違い、虚偽や誇張が含まれるかもしれないのだが、そういうものが含まれていてもなお、そこで語られている人生の物語は「全体的には真」である。語りは、切れば血が出る。
 そのような主張を持つ言葉たちを受け止め、こちらも言葉を差し出すことを繰り返していくうちに、私たちは何かに引きずり込まれていく。私たちは徐々に、語りの「内容」にコミットしていくのである。そのとき私たち聞き手には、「ある責任」が生じる。あの語り手は、岸さん、岸さんと何度も私の名を呼びながら、日本人は加害者であると言った。私はそうですと答えた。私はたまたまその信念を共有していたのだが、この文章を書いているいまでもそのことを事実であると、実際にそうであると思っている。それは単なるそういう話法、ストーリー、ナラティヴ、リアリティではない。聞き取りの現場で「そうです」と頷いた後に、ひとりで研究室に戻って、あれは語りだった。ストーリーだったと述べることはできないのだ。これは倫理的であると同時に論理的なことでもある。
 語られたエピソードが「実際にあったこと」であると述べるからといって、それがそのまま、道端に転がっている小石のようなものと同じ意味で実在していると言っているのではない。そうではなく、私たちは会話を重ねることで何らかの規範的な関係性のなかに組み込まれていくのであり、そしてそうすることで、語りをそのように「扱わざるをえない状態」へ引き入れられるのである。これは素朴な実在論ではなく、「約束としての実在論」である。