2009-06-01から1ヶ月間の記事一覧

外国人が国内の政治に参加するのは難しいと思うのですが、渡来系の人々はどのように台頭したのでしょう。

とにかく、中国や朝鮮半島の先進文化に基づく知識・技術、それが王権に重宝されました。なかでも、律令や国史の編纂事業に関わった人々は功績を認められ出世します。しかし、五位以上に到達するのは希で、実務官僚としては重視されても国政に参与することは…

僧を還俗させて政治に参加させることについて、当の僧侶の側には反発はなかったのでしょうか。

奈良時代は、僧侶になるためには国家に公認・証明してもらわなくてはならず、試験に合格して得度が認められたものは、国家鎮護の呪術を担う官僚の一種となります。僧侶には僧侶のすべき仕事があるわけです。還俗という措置は、彼が僧侶としてよりも別の特殊…

なぜ『藤氏家伝』には、房前や宇合、麻呂の伝はなく、武智麻呂だけなのでしょうか。

以前にも少し触れましたが、編纂者の藤原仲麻呂は淳仁天皇から「恵美押勝」の名前を賜り、藤原氏から独立して恵美家を興しました。それは、ちょうど不比等が鎌足の「藤原」姓を独占的に継承し、中臣氏から独立したことと相似形の方策です。つまり『家伝』は…

古い時代には、なぜ不比等の名前が「史」と書かれ、なぜまた「不比等」へ変更になったのでしょう。

田辺史に由来する命名だとすれば、やはり元来は「史」と書いたものでしょう。しかし、奈良時代を経過して藤原氏の力が伸張し、鎌足や不比等に対する崇拝が強くなってきた結果、「他に並ぶ者のない偉大な人物」の意味で、「不比等」の表記を使うようになった…

中臣氏全体が藤原姓を名乗った経緯を教えてください。

そのあたりのことを明確に語る記述はないのですが、中臣鎌足が臨終に際して藤原姓を賜った後、中臣大嶋や意美麻呂も藤原姓を名乗っているので、一時期は宗族全体が藤原姓を許されたものと考えられるのです。しかし、『続日本紀』文武2年(698)8月丙午条に…

草壁の早世について、大津の祟りによるものとの噂はなかったのでしょうか。

史料としてはまったく出てきません。大津皇子は、ほどなく二上山に改葬されますが、同山が常に藤原宮からみえることから、「鸕野皇后や草壁皇子にとって、大津皇子の怨霊というものがいまだ意識されず、恐怖の対象にならなかったことを示す」とする見解もあ…

天武の遺業を実現させて律令国家を建設した持統の手腕に驚きます。しかし、草壁から文武への皇位継承を強行させるあたり、女帝の独断的振る舞いに家臣が反発したりすることはなかったのでしょうか。

独断的にみえても、持統の行動は、朝廷を構成する豪族たちの意志をしっかり反映し、代弁していたのだと考えられます。天武や高市が草壁即位を承認し、葛野王が文武即位に協力したように、内乱を回避するためにも、父子嫡流相承が妥当とみなされたのかも知れ…

大津皇子を唆したとされる行心について、『懐風藻』と『日本書紀』で扱い方に差異があるのはどうしてでしょう?

『懐風藻』が、私的な観点から叙述した文献だからでしょう。ちなみに、当時の有力貴族たちは卜占に長けた僧侶を近くに置いていたようで、『藤氏家伝』によると、鎌足にも道賢という行心と同じような存在が付いています。改心政府の顧問となった僧旻も、天文…

当時の処刑法は斬首だったのでしょうか?

大津皇子の処刑法については史料がないのですが、養老律では謀叛は斬刑です。しかし、飛鳥浄御原令には律は付属していませんので、実際はどのような刑罰が採られたか分かりません。ちなみに、壬申の乱の折には自殺した大友皇子の家臣のうち、トップの者はや…

大津皇子に才能や人望があったとすると、天武が彼を後継者に選ばなかったのはなぜだろうか。

やはり後継者は天武単独の意志では決められず、皇后(正妃)の意向が反映したということでしょう。実は、天武のもともとの正妃は、鸕野讃良ではなく姉の大田であったと考えられています。大田が存命であれば大津が皇太子に立てられたのでしょうが、残念なが…

大津皇子はクーデターについてどのような計画を立てていたのか。また、皇子の処刑に対し臣下が異議申し立てをしなかったのはなぜか。

私見ですが、大津皇子が武力によるクーデターを企てていたことはなかったと思います。もしそうだとすれば、連座者はもっと多かったでしょうし、また2人のみを流刑に処す程度では済まなかったでしょう。大津自身に即位の野心があり、それを是とする群臣たち…

皇位継承とは、そもそも誰がどのように決めていたのですか。

当時は、継承者は天皇や皇后の一存で決められるわけではなく、王族や群臣の同意が必要でした。支配層の利害が一致しなければ、即位の実現は難しかったのです。それゆえに、7〜8世紀にかけては、しばしば有力な候補者とその支持者たる大豪族の間で、しばし…

樹木へのシンパシーが中国にはないとの話でしたが、日本ではいつごろ現れるのですか。

中国にまったくないというわけではありません。広い中国全土では地域的な差違もありますし、日本と同じようなアニミズムを伝えている人々も存在します。ただし歴代王朝が鎬を削った中原地帯では、厳しい環境のなかで文明を築きあげてきただけに、自然に対す…

日本文化は樹木の利用のうえに成り立っていると思うのですが、木を伐ったり素材として用いたりする大工や彫刻師などは、自分の行為が地獄で跳ね返ってくることを自覚していたのでしょうか?

仏教を信仰していれば、それに近い意識は持っていたかも知れません。日本では、古代から現代に至るまで、山の神や木霊に働きかけて「木を伐らせてもらう」祭儀が連綿と実践されています(もちろん、それは時代を経るにつれて希薄化していますが…)。それらは…

「等活地獄幅」に子供の姿が描かれていましたが、彼らも罪を犯したのでしょうか?

「等活地獄」は、責め呵んで骨と肉片だけになった亡者へ「活きよ活きよ」と呼びかけると、子供の姿になって再生するところから名づけられています。復活した亡者はすぐに大人へと成長し、同じ苦しみを受けてまた骨・肉片と化す。このサイクルがずっと繰り返…

地獄の絵図をみていて思ったのですが、地獄と鬼の概念は同時に生まれたのでしょうか。以前、鬼は鍛冶から生まれたとの話を聞いたことがあるのですが。

地獄の獄卒は、正確にはもともと鬼ではありません。中国の「鬼」という漢字は、もともと屍体そのものを指す象形文字で、転じて死霊もしくは祖先霊を指すようになりました。ヤマト言葉のオニの語源には様々な説がありますが、陰や隠の音=意味に由来するとい…

六道絵の「人道不浄相幅」で、遺棄葬には犬や鳥の働きが重要とのことでしたが、当時の犬はペットとしてより屍体処理の役割が大きかったのでしょうか?

屍体処理に活躍するのは、現在でいう野良犬ですね。犬は縄文時代から人間とパートナーシップを結んでいたようですが、平安貴族社会においては、ペットとして愛玩される存在ではなかったようです。以前講義でも話をしましたが、例えば犬を飼って屯倉や宮城の…

仏教の地獄の概念は、元来どのように成立したものでしょうか?

インドの時点で、すでに罪人の堕ちる地下の牢獄(ナラカ=奈落)、その支配者たる閻羅(閻魔)も存在していました。それが西域を経過して中国へ入ってくると、中国固有の冥界と習合することになります。中国では、五岳のうち泰山の内部に冥界があるものと考…

自己呪詛はどのような思考、精神で行われていたのですか?

法律的観念が共同体の成員を束縛するほどに発展していない社会においては、その代わりを神的存在が果たしていたわけです。神が誓約の保証者となることで、その約束事の拘束力が増す。現在でも、例えばアメリカ合衆国では、議会での発言の際に聖書に手を置き…

亀卜・骨卜の起源を聞いて、ギリシア・ローマ神話に出てくる供犠を思い出した。距離的にはかなり離れているが、こういった発想は伝播などではなく、人類共通の原意識だったのだろうか。

供犠は人類共通の宗教文化であるとともに、それぞれの地域・民族の歴史を反映するものでもあります。かつては普遍的な視野からの研究が盛んでしたが、最近ではその固有性を問うような方向性が示され始めています。確かに、隔絶した地域での類似は驚きを呼び…