2012-05-28から1日間の記事一覧

死者の国へは船で行くという発想があったようですが、それは「三途の川」みたいなものでしょうか。

「三途の川」は、生者の世界/死者の世界の間に流れる大河で、生前の行いの善悪によって、渡り方に3つの方途があるといわれるもの。仏教と道教、もしくは民間信仰が習合して中国で作られてくる観念なので、日本の古墳時代の「船」とは直結はしません。もち…

中国の思想は、どのように日本にもたらされたのでしょう。渡来人によるものですか。

やはり、いちばん大きな情報源は渡来人でしょうね。古墳時代には、朝鮮半島から戦乱を避けて列島へ渡ってきた人々や、朝鮮に留まっていた漢人遺民がさらに列島へ移動してくるといった事例があったようです。有名な渡来氏族である秦氏などは、中国的知識・技…

「鬼」や「龍」なども中国思想に由来するのですか。

そうですね。「鬼」は、講義でもお話ししたようにもとは死体の意味ですが、次第に意味が拡大し、死霊・神霊を指示するようになってきました。日本へ入ってくると、形の不明瞭なマイナスの神霊に「陰」「隠」(オン)などの言葉が当てられ、すなわち鬼=オニ…

桃が神聖なものとするなら、逆に忌み嫌われた果物、植物などもあったのでしょうか。

そうですね、やはり毒のあるものや臭いの強いものでしょうか。しかし、神聖視/忌避というのもどこに視点を置くかで違ってくる、相対的なものではあります。例えば、講義で例に挙げた桃ですが、邪霊や悪霊の側からすると、これは「忌避すべきもの」となりま…

3月は桃の節句があり、桃は邪を祓うといわれていますが、これは神仙の力を持つことと関わりがあるのでしょうか。 / 中国では庭先に李を植えるといいますが、これも神仙思想との関わりからですか。 / 仏教でも桃の花のモチーフがよくみられますが、やはり桃源郷の思想でしょうか。

季節に適合的な収穫物(いわゆる旬のもの)は、生命エネルギーが漲っている状態ですので、辟邪の能力を持つと考えられました。3月の節句は、桃の力を借りることで、子供の力強い成長を祈願する意味があるわけです。ところで、生殖器象徴でもある桃は、生命…

他界の食べ物を食べると帰れなくなるというモチーフはよく耳にしますが、普遍性のある理由が何かあるのでしょうか。また、3人の人間が冒険に出て一番最後の者のみ成功するという話もよくありますが、3という数字には世界共通の意味があるのでしょうか。

食物は捕食主体の身体を構築するものですから、生命は食物によってその土地に生かされている、別の言い方をすれば束縛されているという発想が、古くからあったようです。これが社会的に複雑化してきますと、ある社会なり共同体なりに新しい成員が加わるとき…

古墳時代の壁画からは、現在と同じような家族意識を感じるのですが、それにしては黄泉国神話が冷たすぎるような気もします。このギャップはどう理解すればよいのでしょうか。 / 黄泉国神話は、横穴式石室で死体をみる経験が増えたことが背景と仰っていましたが、現代よりみなれている死体のことをあらためて神話にする必要があるのですか。

神話は、必ずしもすべてがその時代の現実、大多数の考え方・感じ方を反映しているとは限りません。神話を分析する際には、その主題は何なのかを考える必要があります。黄泉国神話の場合、桃が神聖視される理由、生き物は必ず死ぬが生命自体が全滅はしない理…

装飾古墳に使われる鮮やかな色彩は、どのように作られたのでしょうか。また、その顔料の作成や描画を行ったのは、専門の職人だったのですか。 / 被葬者への施朱は、いつ頃まで行われていたのでしょうか。 / 壁画に用いられている他の色にも、朱のように特別な意味があったのでしょうか。

多くは、岩石を砕いて製作した顔料によるものですね。その作成と描画に関しては、専門的知識・技術を持つ氏族集団が存在したと考えられます。例えば、喪葬儀礼全体を統括していた土師氏。彼らの配下では、恐らく施朱に従事していた赤染氏・常世氏などが活躍…

秦の始皇帝陵にもジオラマが存在していますが、日本の古墳の事例、直会などと関係があるでしょうか(日本へは中国から将来された発想なのですか?)。また、なぜジオラマを作るのですか。

兵馬俑ですね。あれは直会というより、生前と同じような配下を揃えて、陵墓=死者の国でも奉仕させようとしたのだと考えられています。日中の事例に直接的な繋がりがあったかどうかは実証できませんが、墳墓に人物像を配するという発想は同じであり、やはり…

装飾古墳が増えるにしたがって、埴輪の果たしていた役割が壁画へ移行してゆくのでしょうか。

一部にはそうした情況も認められますが、あらゆる古墳が装飾古墳になってゆくわけではないので、両者の表現形式が併存していたと理解すべきでしょう。ただし、埴輪自体は後期古墳の段階で中央では作成されなくなってゆきます。やはり、祭祀・儀礼のあり方が…

人物埴輪には女性が少ないような気がしますが、このときすでに男女の職業差、社会的性差別などは存在していたのでしょうか。

今日の講義でも言及しましたが、すでに社会的・文化的性差はある程度存在し、性的役割分担もなされていました。しかし、例えば古墳への家族の喪葬形式からみても6世紀初め頃までは双系制で、女性の子供しかいない場合には女性首長もありうる状態が続いてい…

人物埴輪が中期古墳以降に多様化するというのは、家や武器の方が複雑な技術を用いずに作成できるからですか。

やはり「焼き物」ですので、複雑な形状のものであればあるほど造型・焼成が難しいということはあるでしょう。しかし、最も大きな原因は、死者観の変化ではないかと思います。前期古墳の被葬者は、封じ込めるような埋葬の仕方や祭儀のありようからみて、極め…

後期古墳になって死生観が複雑化してゆくことと、前方後円墳の墳形が減少してゆくこととは、何か関係があるのですか。

直接的に結びつくかどうかはまだまだ分析が必要ですが、各地の死生観や宗教的・政治的価値観の多様化のなかで、「壺型」のモチーフが象徴性を失ってゆく、政治的拘束力を弱めてゆくといったことはあったでしょう。また、古墳によって王権との連合関係や首長…

古代の首長や王の埋葬では、多くの祭器や宝器が副葬されていますが、なぜどのような地域でもこの種のことが行われたのですか。また、今そうしたことが行われていないのはなぜですか。

一口に副葬品の埋納といっても、時代によって意味づけが異なる場合があります。例えば、祭器・宝器自体に神聖な力、呪術力が認められているような時代では、その埋納は死者を呪的に防御するためといえるでしょう。また、古墳のなかが死者の住居と考えられる…

横穴式石室の門部や道部の名称に、「羨」字が用いられているのはなぜですか。どういう意味で使われているのでしょう。

どうなんでしょう。字義からすれば、恐らくは「墓室から溢れ出たような狭い余りの道」という程度だと思いますが。

造り出しは、築造完了後どのような状態だったのでしょうか。そのままにしておかれたのですか。

墳頂の家形埴輪、人形埴輪がそのまま設置されていたことからすると、造り出しのジオラマも文字どおり「展示」されていたのだと推測されています。それは、祭祀者でもある首長が生前執り行った祭儀を復原し、その活躍ぶりと権威を喧伝する目的があったのでし…

前方後円墳において、なぜ方形のほうが祭祀の場だと考えられたのですか。

円形部分が埋葬遺構であり、歴史的な形状の変化からすると、溝にかかる陸橋が方形部分へと発展してゆく。陸橋は、円形部分へ至る道であるわけですが、なぜ円形部分へ向かわねばならないかというと、それはやはり祭祀の斎行が目的であったと推定されます。さ…

巣山古墳の造り出しの写真は面白かったです。しかし、発掘調査というのはどのように行っているのでしょうか。場所全体が遺跡だとすると、足跡など絶対付けられないと思うのですが。

まあそうですね。ただし、遺跡の埋没している地層には幾重にも新しい土砂の層が堆積していますので、まず小規模の穴で試掘をしてから、だんだんと目的の層へ向かって地面を削り取ってゆく形になります。全面遺跡といっても、その面のすべてに重要な遺物・遺…

纒向遺跡から出土した土器が、日本各地からのものだと分かったのはなぜですか。

ひとつは形状・形式で、同時代の各地から出土している特徴的な土器と同種のものが発掘されていること。もうひとつは胎土(土器の材料となった土)で、その化学組成を調べることで、どの地方で作成されたものなのかが突き止められます。纒向遺跡から出土した…