2016-05-23から1日間の記事一覧
朝鮮半島の前方後円墳は、主に半島南西部の百済地域、伽耶諸国の地域からみつかっています。横穴式石室の構造、副葬品などは百済特有のものが多いですが、前方後円墳の外形、周濠、葺石、円筒埴輪などいずれも列島的性格を表しています。いずれにしろ、百済…
これは明らかに、広告会社、ファイターズが悪いですね。歴史に対する認識の浅さ、それが暴力に転じうる怖さを、まったく分かっていない。日本が中近世から次第に北海道へ進出し、北方交易の利益を求めてそのネットワークに介入し、アイヌの人々から搾取を行…
神人共食の祭祀の跡が出てこないというだけで、武器・武具などの副葬品は出土しています。陸橋の拡大は、すなわち円墳部が埋葬者の聖域として禁足地化され、陸橋部分で祭祀を行ったためだといわれているのですが、お話ししたとおり祭祀痕跡が出ていないので…
中期古墳のような巨大なものの場合、「寿陵」が多かったのではないかといわれています。すなわち、被葬者自身が生前に自分の墓を作っておく、という形式ですね。即位と同時に築造し始めて、竪穴式石室の閉塞のみ中途にしておけば、死亡時に埋葬場所がないと…
人間の心性を構成する要素は、ある時間、ある時代を境に、完全に断絶するということはありません。死者を忌むべきものとする態度は、例えば現代にも残っています。霊柩車と遭遇したら親指を隠せという習俗は広く分布していますし、近年は浄土真宗などの批判…
清明節ですね。中国における旧暦2〜3月の行事で、墓参し清掃を行います。すでに六朝の仏教説話集には、sの早い例をみつけることができます。親族揃っての墓参のあとは、まさに墓前での酒食、共食行事。現在も行われているところでは、墓前に穴を掘って簡…
授業でも少し扱いましたが、どちらが前か後ろかが定まることで、儀礼のあり方が定まるのです。前方後円墳は、円部が埋葬施設、方部が祭祀場なので、そうした意味では方から円を眺める方向が前、逆が後背になります。中国思想に依拠した南北軸が確定すると、…
薪炭材のほか、都市や村落の建物、農耕具、武器、治水・灌漑など土木事業へと多様に用いられました。古墳だけに限っても、木棺のほか、墳丘表面に鳥、蓋などを取り付けた杆状木製品を立て並べる例も存在しました。
そうです。埴輪は埋葬されたものではなく、墳丘表面に立て並べられたものなので、王権・国家の規制が働いています。ある程度の形式が付与されて流布しつつ、在地で多少の変更を加えられたものと考えられます。
これは大きな問題ですね。死者が生者に影響を与えうると考えるのは、恐らくは、死者の埋葬行為が始まることと軌一しているでしょう。埋葬が死者がもたらす災いを怖れてのことにしろ、あるいは冥福のようなものを祈願するにしろ、程度の差こそあれ死者の影響…
次回の授業でもお話ししますが、まさに邪馬台国段階での課題であった首長の業績の継承が、後の王権に受け継がれ解決されていった結果と思います。実力主義で統治者が次々と入れ替わるのではなく、ある程度の連続性をもった支配権力が確立されてゆく。その根…
古墳などから出土する武器・武具の多量さをみていると、ヤマト王権が軍事政権としての性格を持っていたことは間違いありません。しかし、弥生時代のような大規模な戦乱の痕跡は、考古資料からも文献資料からも見当たりません。恐らくは弥生時代からの政治的…
それはやはり、中国的な父系原理の導入とも関わりがあるでしょうね。卑弥呼という女王のあり方も、すでに家父長的枠組みが機能していた中国王朝においては、よく思われてはいませんでした。古墳時代のヤマト王権は、中国王朝から現物・情報の威信財を得て、…
『日本書紀』垂仁天皇紀には、陵墓への殉葬という習俗を抑止するため、古墳の築造や葬礼を掌る土師氏の祖 野見宿禰の提案によって、埴輪の製造が始まるという起源伝承が掲載されています。しかしこれは、どうやら土師氏が始祖を顕彰し自らの職掌を喧伝するた…
祭政の概念が未分離なので、いわゆる政治力も、軍事力も、霊力の表れとみなされたはずです。すなわち、巨大な軍事指揮権をもって兵卒を動かせること、古墳の築造や治水工事を完遂できること、それらすべてが、「王という存在の特別性」を表現するわけです。…
いえ、円筒埴輪などは、人物埴輪配置区画の境界を画定したり、あるいは古墳の格段の縁取りをしたりなど、種々の目的で使用されました。
基本的に埴輪は埋納されず、外からみることができるよう、古墳の表面に配置されています。
古墳時代の庶民の墓については、残念ながらよく分かっていませんが、幾つか庶民墓地の可能性が高いといわれている遺跡はあります。例えば、直径2〜3メートルの不整形土坑700基ほどを持つ古墳前〜中期の大阪府長曽根遺跡、長辺1.2メートルほどの方形土坑約1…
追葬可能な横穴式石室が導入されると、妻以外にも、後に家長となる子供を除く庶子が葬られる事例が増えてゆきます。このあたりは、古墳時代の家族観の変化とも関係しています。実は、竪穴式石室の場合も、ひとつの墳丘に複数の縦穴が設けられる場合があった…
秦の始皇帝の兵馬俑から日本の人物埴輪までは、400年ほどの開きがありますが、漢代にも簡略化された兵馬俑は製作されていますので、まったく影響がなかったとはいいきれません。しかしそれは、中国の墓所に明器として人間を象ったものが置かれた、その程度の…
一般的に、「墳丘墓」は弥生期までの墳丘を造った埋葬施設、「古墳」は古墳時代以降の墳丘を持つ埋葬施設を意味しています。
古墳時代においては、それを奉じる地域共同体にとって重要性がある場合には、修繕・補完の措置がとられていたと考えられます。しかし意味がなくなると放置され、次第に草木に覆われて山のようになってしまう。それまでは、幾何学的形状のうえに葺石がなされ…
地面に正確な円を描くことは難しくありません。中央に棒を立てて紐を繋ぎ、そのもう一方にも棒を付けて地面と垂直に保ち、紐が緩まないよう引っ張りながら動かして、地面に傷を付けつつ一周させればよいのです。縄文時代から、そうした形で円形を描いていた…
恐らく、死者の国の概念は存在したのでしょうね。整合的な結論を出すのは難しいですが、死者の霊魂自体は遺体を離れ、何らかの死者の国へ行くと考えられたのでしょう。家型埴輪は、その国での住居を表しているのかもしれませんし、やはり遺体を安置する施設…