全学共通日本史(07秋)

私の地元では、家を建てる際に、屋根ができたら、家主がそこに登って餅や小銭を投げる行事があります。これも一種の木鎮めでしょうか?

建前(棟上げ)の行事ですね。列島では最も広く分布する建築儀礼のひとつです。しかし、高い場所からの餅まきは、必ずしも建築中の建物のみから行うとは限りません。初午の節句などの際に、櫓を組んでそのうえからまく場合もあります。現在の建前の場合は、…

山口祭儀以外で、山口神社が設けられるのはどういう場合でしょう?/山口神社は複数あるとのことですが、山ごとに祭儀を行っていたのでしょうか?

山自体が神聖視され禁足地となっている場合、入り口に神社が設けられ一般の出入りを阻んでいることがあります。入山できるのは神職など限られた人々、もしくは限られた日時のみ。こうした場合も、山神に入山の許可を乞う場所として設置されたとみるべきでし…

「木鎮め祭儀」のような祭儀は、日本以外にもあるものなのでしょうか。ヨーロッパなどではどうなのでしょうか?

後のケルト的な色彩を持つヨーロッパの基層的宗教文化(ドルイド教)は、オークを神聖視して、人間を含めた供犠を行っていたことが分かっています。神聖な樹木を伐る必要が生じたときにも、その種の祭儀を行ったのでしょう。ちなみに、今年の初めに東京国立…

「ふりむかないで」というハクのセリフには、どんなメッセージが込められているのでしょう。

昔話のモチーフには「見るなの禁」と呼ばれるものがあって、主人公の目的の達成と釣り合うタブーなんですね。それを破ると、これまでの努力の積み重ねが台無しになってしまう。ギリシア神話で、オルフェウスが冥界から助け出した妻エウリュディケーを振り向…

湯婆婆はなぜハクを操ったりするのでしょう。神は本来お客さんではないでしょうか。

魔法使い、呪術師というものは、本来神霊的存在と契約を結んで彼らを〈使う〉ことができるものです。陰陽師の使う式神だって、〈神〉なのですから。

この講義の読み解きは、先生独自のものですか。それとも、宮崎駿が本当に意図していたことでしょうか。

大事な点ですね。『もののけ』の方は宮崎の意図を正確に復原しようと努めましたが、『千尋』の後半はかなり評論的で、「私ならこう読む」という展開になってしまっているかも知れません。しかし、当然インタビューなどは参考にしていますので、かなり宮崎駿…

千尋の両親がどうやって豚から人間に戻れたのかがよく分かりませんでした。

ぼくもよく分かりませんが、『ハウル』のように、勢いで物語を終わらせようとする宮崎駿らしさ?が出ている気がします。とにかく、千尋の内なる力の発現ですべてを済ませて、表面的にはハッピーエンドに。ま、その強引な展開がある分だけ、背景にある哀切さ…

「この世界で生きてゆくためには、仕事を持たなければいけない」というセリフがありますが、これは主体性や生きる力を放棄していないと思えるのですが。また、ハクが、「この世界の食べ物を食べないと消えてしまう」といったことにも、何か意味があるのでしょうか。

あの世界では、労働=世界に奉仕することが主体性の代替物になりうる、ということではないでしょうか。湯屋で働くことを、アイデンティティーの代用にしている。おそらく、そういう人間は現実にも多いことでしょう。「北條勝貴」がいかなる人間かより、「上…

ラストで、大して時間も経っていないように振る舞っているのに、車に落ち葉が積もっているというシーンがありました。あれはどういうことなのでしょう。

異界訪問譚によく見受けられる、異界と現実とでは時間の進み方が違うことを意味しているのでしょう。おまけに、彼らには異界での記憶がありませんから、たった数分が数日、数週間になっていて驚くことでしょう。そこまでみせないのは、「物語は続いてゆくの…

作中で声を得たカオナシが「さみしい」と主張するシーンがありますが、電車の影のような人々もさみしい存在なのでしょうか。

「さみしい」というセリフは、カオナシの過度の喪失感と依存性から発せられるのでしょうね。他の乗客たちは確かにさみしいでしょうが、それを埋めるために何かを求めよう、というアクティブささえも失ってしまっている様子です。生の猥雑さより、死の安らか…

「銀河鉄道の夜」がモチーフなら、列車が海の上を走っているのも何か関係があるのでしょうか。

「銀河鉄道の夜」、海の上走ってましたっけ。ま、天の川(ミルキー・ウェイ)を走っているという意味では、ずっと水のなかではありますが。水と関係ある要素としては、タイタニック号に乗っていた姉弟と家庭教師風の青年が、氷の海からふいに列車のなかへ出…

行った列車が戻ってくるというのはどういうことなのでしょう。

終着駅を冥界とすれば……ということですね。これはもう想像の領域ですが、アニミズム世界では神霊はあらゆる世界を移動できるので、例えば仏教・バラモン教の輪廻の概念のように、現実界との重なりのなかに蘇生してくる神霊があったとは考えられないでしょう…

多くの物語のなかで、肉体と影の分離という現象がみられます。分離した影は主体性を失い、肉体を求めてさまようわけですが、影のない肉体には意識がちゃんとある。つまり人間は、肉体と意識だけでなく、肉体と意識と影という三要素によって構成されているのではないでしょうか。

哲学的ですねえ。確か、最近の『ワンピース』もそんな展開でしたね。物語が〈影〉を題材にすることが多いのは、それが人間の歴史のなかで、変わらぬ興味の対象であり続けたからでしょう。ところでご存知のように、人類最初の絵画は洞窟絵画が多いわけですが…

日本の仏教は、どうして仏性を持つものの範囲を植物まで広げえたのでしょう。

(書きかけ)

宮崎駿がインタビューのなかで答えている、「とにかくなんとかうまくやっていけるもんだ、うまくいくんだよって話」とは、具体的にどんなものを指すのでしょうか。

『千と千尋』のラストシーンで「振り向かないで」というセリフがありますが、後ろを顧みてはいけないという物語のパターンはよくあると思います。何か原型があるのでしょうか。

怨霊は供養されることを望むものなのですか。

『道賢上人冥途記』では天皇が地獄に堕ちているとのことですが、当時政治的な圧力などかけられなかったのでしょうか。

日本における霊界訪問譚にはどのような事例があるのでしょうか。イザナミ・イザナキの黄泉国神話などもその一例でしょうか。

もちろん、黄泉国神話は、文献で知りうる最も古い事例のひとつでしょうね。神話でいえば、他に、オホクニヌシの根国訪問、ホホデミの海神宮訪問も該当します。もうひとつ最初期のものとしては、『書紀』雄略天皇紀に一部が載り、『万葉集』、『丹後国風土記…

サンとはどういう存在なのでしょう。彼女は自然の代弁者ではないと思うのですが……/サンは完全に二者択一の一方、自然的価値観(神々との一体化)を選んでいるといえるのでしょうか。

(書きかけ)

猪神の長老乙事主は、海を渡ってきたように描かれていたかと思います。昔の日本には、外来の神々をも受け入れる素地があったのでしょうか。

それは明らかに存在しました。いわゆる神道的な神のなかにも、古代に大陸や半島から渡ってきて日本で祀られるようになった神がたくさんいます。神仏習合が前提となっている中世・近世世界では、その傾向はさらに顕著で、西域やインドを出自とする神様も多く…

生命を循環させるシシ神自身の生命はどのように捉えたらいいのでしょう。/「シシ神は死なないよ、命そのものだから」というラストのアシタカのセリフは、講義の趣旨からするとどのように捉えられるでしょう。

宮崎駿の設定では、シシ神は下級の神格であるということです。そのためか、植物や動物の生命を循環させる役割は担っていても、気象を操るとか、自然界全体を象徴する存在としては造形されていません。例えば日本の縄文時代には、人々は自然を死/再生の循環…

祟り神になるのは猪神だけなのだろうか。また、なぜあれほど人間に憎悪をたぎらせていた普通の猪たちは、祟り神にならなかったのだろうか。

論理的には、猪神だけでなく、同じ階層に属する犬神や猩々たち、そして人間も祟り神化しうるはずです。物語のなかで猪神が多く祟り神化するのは、〈猪突猛進〉という言葉どおり、彼らが直情径行の生き物として設定されているからでしょう。つまり、憤怒や憎…

『もののけ姫』のラストシーンをハッピーエンドと捉えてしまうのは、アニミズム的心性に規制されているからだというお話でしたが、それでは海外ではどのような評価があったのでしょうか。

ご存知のように、『もののけ姫』はディズニーの配給によって海外でも公開されました。残念ながら、その詳細な情況はちゃんと把握していないのですが、自然と人間との戦いの構図は、ヨーロッパなどでの方がすんなりと受け入れられたと語るインタビューを観た…