2016-05-01から1ヶ月間の記事一覧

人が虎になる「山月記」なども、知らず知らずのうちに、仏教の考え方の影響を受けて作られたのでしょうか。

神と関係している猿と蛇とでは、仏教の扱い方に相違があるように思います。蛇は醜く、猿はそう批判されないのはなぜでしょうか。

仏教が在地の宗教を駆逐する、あるいは取り込んでゆく、とのことでしたが、取り込まれた側の、例えばシャーマンなどは、その後どうなってゆくのでしょうか。

廬山と近江を繋ぐ伝承は各地に残っているのでしょうか。仏教伝来ルートである百済など。

経典を講読するためには、それほど対価、準備が必要だったのでしょうか。

『日本霊異記』の神身離脱譚は、『梁高僧伝』等から影響を受けたものなのでしょうか。

悪神としての寿命が尽き、生まれ変わった姿が少年の姿というのは、どんな意味があるのでしょうか。 / 私は蛇というと女性のイメージが強いのですが、男系の意味があるのでしょうか?

蛇の性別については、中国では主に男性、日本でも古い時代ほど男性表象として現れてきます。蛇の身体は、そのまま男根の象徴なのです。例えば『古事記』のヤマタノヲロチでも、蛇身の三輪神=オホモノヌシも、『風土記』や『日本霊異記』の蛇神も、ほぼ男性…

僧侶が悪い行いをして神に「なってしまう」のと、修行に耐えて神に「なる」のとでは、動物としてか人間のままでかの相違だけで、崇められる対象という点では同じであると思う。何が違うのか。

仏教では、修行によって神になるという発想はありません。それは神仙思想、もしくは道教のものです。仏教にとってあらゆる神は邪な存在であり、しかし護法、奉仏に転じることによって、その地位は大きく転換することになります。

『梁高僧伝』において神の身に「堕ちる」と表現するのが、よく分かりません。神は高貴な存在ではないのでしょうか。

以前にもお話ししましたが、仏教は、在来の宗教を取り込むときに、民間で崇められる祠廟の神を「餓鬼道」に配分します。神仙は「天人道」にも配されますが、これは仏教に帰依し護法の神となったものがほとんどです。なぜ餓鬼道なのかというと、祠廟の神へは…

孫悟空が土着信仰と融合して生まれたのなら、猪八戒や沙悟浄も土着信仰と結びついて生まれた従者なのですか。また、豚に関する信仰が存在する地域はあるのでしょうか。

沙悟浄は、やはり『西遊記』の前段階に属する三蔵西天取経説話において、流沙河の主として登場し玄奘を守護する深沙大将がモデルです。同神は玄奘の翻訳した『大般若経』に登場する十六善神の筆頭で、法相宗の寺院などでも安置、奉祀されているところがあり…

朝鮮半島の前方後円墳が倭人官僚のものかもしれない、というのはどういうことでしょうか?

朝鮮半島の前方後円墳は、主に半島南西部の百済地域、伽耶諸国の地域からみつかっています。横穴式石室の構造、副葬品などは百済特有のものが多いですが、前方後円墳の外形、周濠、葺石、円筒埴輪などいずれも列島的性格を表しています。いずれにしろ、百済…

私の地元の北海道でも、新千歳空港に掲げられた日本ハム・ファイターズの広告に「北海道は開拓者の土地」とあったことから、多くの批判を受けたことがありました。

これは明らかに、広告会社、ファイターズが悪いですね。歴史に対する認識の浅さ、それが暴力に転じうる怖さを、まったく分かっていない。日本が中近世から次第に北海道へ進出し、北方交易の利益を求めてそのネットワークに介入し、アイヌの人々から搾取を行…

前方後円墳の前方部からは、結局何も出土していないのでしょうか。 / なぜ陸橋が、そこまで拡大することになったのでしょうか。

神人共食の祭祀の跡が出てこないというだけで、武器・武具などの副葬品は出土しています。陸橋の拡大は、すなわち円墳部が埋葬者の聖域として禁足地化され、陸橋部分で祭祀を行ったためだといわれているのですが、お話ししたとおり祭祀痕跡が出ていないので…

これだけの規模の古墳を造るには相当な時間がかかったと思うのですが、その間に被葬者の遺体が腐ってしまい、埋葬できなくなるといったことはなかったのでしょうか。

中期古墳のような巨大なものの場合、「寿陵」が多かったのではないかといわれています。すなわち、被葬者自身が生前に自分の墓を作っておく、という形式ですね。即位と同時に築造し始めて、竪穴式石室の閉塞のみ中途にしておけば、死亡時に埋葬場所がないと…

前期古墳で死者を忌むべきものと考えていたと聞き、縄文時代に屈葬から伸展葬への変化があったのにと不思議に思いました。死者を忌む考え方は、いつまで残っているのでしょうか。

人間の心性を構成する要素は、ある時間、ある時代を境に、完全に断絶するということはありません。死者を忌むべきものとする態度は、例えば現代にも残っています。霊柩車と遭遇したら親指を隠せという習俗は広く分布していますし、近年は浄土真宗などの批判…

死者が眠る墓の近くで飲食を共にするという習俗は、今でも沖縄などに残っていると聞いたことがあります。これは日本以外でも行われていたことなのでしょうか?

清明節ですね。中国における旧暦2〜3月の行事で、墓参し清掃を行います。すでに六朝の仏教説話集には、sの早い例をみつけることができます。親族揃っての墓参のあとは、まさに墓前での酒食、共食行事。現在も行われているところでは、墓前に穴を掘って簡…

「前方後円墳」という名前の由来は衝撃的でした。そもそも、なぜ墓に前や後ろが必要なのでしょうか。 / 古墳の立地の方位には、何か意味があるのでしょうか。

授業でも少し扱いましたが、どちらが前か後ろかが定まることで、儀礼のあり方が定まるのです。前方後円墳は、円部が埋葬施設、方部が祭祀場なので、そうした意味では方から円を眺める方向が前、逆が後背になります。中国思想に依拠した南北軸が確定すると、…

古墳築造のために木々を伐採したとすれば大変な量になったと思われるが、それは何に使用されたのだろうか。

薪炭材のほか、都市や村落の建物、農耕具、武器、治水・灌漑など土木事業へと多様に用いられました。古墳だけに限っても、木棺のほか、墳丘表面に鳥、蓋などを取り付けた杆状木製品を立て並べる例も存在しました。

人物埴輪には決まった形式があるとのことですが、全国各地で同じようなものが出ているということですか?

そうです。埴輪は埋葬されたものではなく、墳丘表面に立て並べられたものなので、王権・国家の規制が働いています。ある程度の形式が付与されて流布しつつ、在地で多少の変更を加えられたものと考えられます。

死者をあの世へ送るために躍起になっている印象を受けますが、なぜ死者が生者に影響を与えるという思想が生まれたのでしょうか。

これは大きな問題ですね。死者が生者に影響を与えうると考えるのは、恐らくは、死者の埋葬行為が始まることと軌一しているでしょう。埋葬が死者がもたらす災いを怖れてのことにしろ、あるいは冥福のようなものを祈願するにしろ、程度の差こそあれ死者の影響…

「首長の霊を継承する」という話があったが、弥生の頃、卑弥呼の頃にはなかった話が、なぜ古墳時代に突然出てきたのでしょうか。

次回の授業でもお話ししますが、まさに邪馬台国段階での課題であった首長の業績の継承が、後の王権に受け継がれ解決されていった結果と思います。実力主義で統治者が次々と入れ替わるのではなく、ある程度の連続性をもった支配権力が確立されてゆく。その根…

国家のシンボルとして前方後円墳を築造したとのことですが、ヤマト王権は全国を武力で平定し前方後円墳を造らせたのですか? また、蝦夷征討はまだ先のはずなのに、東北に前方後円墳があるのはなぜですか?

古墳などから出土する武器・武具の多量さをみていると、ヤマト王権が軍事政権としての性格を持っていたことは間違いありません。しかし、弥生時代のような大規模な戦乱の痕跡は、考古資料からも文献資料からも見当たりません。恐らくは弥生時代からの政治的…

邪馬台国がヤマト王権の先駆であったとすれば、ヒミコやイヨが優れた巫女王であったことは衆知であったはずなのに、なぜ以降の王は男性が圧倒的に多いのでしょうか。

それはやはり、中国的な父系原理の導入とも関わりがあるでしょうね。卑弥呼という女王のあり方も、すでに家父長的枠組みが機能していた中国王朝においては、よく思われてはいませんでした。古墳時代のヤマト王権は、中国王朝から現物・情報の威信財を得て、…

埴輪はなぜ造られるようになったのでしょうか。殉葬の代わりだと聞いたことがあるのですが。 / 埴輪は大量に造られたようですが、特定の職人などはいたのでしょうか。 / 円筒埴輪は、何を象ったものなのでしょうか。

『日本書紀』垂仁天皇紀には、陵墓への殉葬という習俗を抑止するため、古墳の築造や葬礼を掌る土師氏の祖 野見宿禰の提案によって、埴輪の製造が始まるという起源伝承が掲載されています。しかしこれは、どうやら土師氏が始祖を顕彰し自らの職掌を喧伝するた…

古墳時代の首長の霊能力とは、どのようなものとして表現されていたのでしょうか?

祭政の概念が未分離なので、いわゆる政治力も、軍事力も、霊力の表れとみなされたはずです。すなわち、巨大な軍事指揮権をもって兵卒を動かせること、古墳の築造や治水工事を完遂できること、それらすべてが、「王という存在の特別性」を表現するわけです。…

人物埴輪が使用されるようになってからは、武具などの形象埴輪は使用されなくなったのでしょうか?

いえ、円筒埴輪などは、人物埴輪配置区画の境界を画定したり、あるいは古墳の格段の縁取りをしたりなど、種々の目的で使用されました。

造り出しは、屋内にあるのですか、それとも石室のように、古墳のなかにあるのですか。

基本的に埴輪は埋納されず、外からみることができるよう、古墳の表面に配置されています。

古墳時代、庶民はどのように葬られていたのですか。

古墳時代の庶民の墓については、残念ながらよく分かっていませんが、幾つか庶民墓地の可能性が高いといわれている遺跡はあります。例えば、直径2〜3メートルの不整形土坑700基ほどを持つ古墳前〜中期の大阪府長曽根遺跡、長辺1.2メートルほどの方形土坑約1…

古墳には、首長の妻や子供たちも葬られたのですか。

追葬可能な横穴式石室が導入されると、妻以外にも、後に家長となる子供を除く庶子が葬られる事例が増えてゆきます。このあたりは、古墳時代の家族観の変化とも関係しています。実は、竪穴式石室の場合も、ひとつの墳丘に複数の縦穴が設けられる場合があった…

埴輪と古代中国の兵馬俑の間には、何か関係があるのでしょうか。

秦の始皇帝の兵馬俑から日本の人物埴輪までは、400年ほどの開きがありますが、漢代にも簡略化された兵馬俑は製作されていますので、まったく影響がなかったとはいいきれません。しかしそれは、中国の墓所に明器として人間を象ったものが置かれた、その程度の…