2016-05-01から1ヶ月間の記事一覧

「古墳」と「墳丘墓」の相違は何ですか。

一般的に、「墳丘墓」は弥生期までの墳丘を造った埋葬施設、「古墳」は古墳時代以降の墳丘を持つ埋葬施設を意味しています。

古墳は戦乱に巻き込まれることなく、今の今まで維持されてきたのでしょうか。 / 古墳が修築されなくなるのはいつ頃からですか。 / 蒲生君平は、なぜ天皇と古墳を一致させることができたのですか。何が規準でしょうか。

古墳時代においては、それを奉じる地域共同体にとって重要性がある場合には、修繕・補完の措置がとられていたと考えられます。しかし意味がなくなると放置され、次第に草木に覆われて山のようになってしまう。それまでは、幾何学的形状のうえに葺石がなされ…

当時、あのような幾何学的な形をどのように作ったのでしょう。ヘリコプターもないのに、どうしてきれいな円が描けたのでしょう。

地面に正確な円を描くことは難しくありません。中央に棒を立てて紐を繋ぎ、そのもう一方にも棒を付けて地面と垂直に保ち、紐が緩まないよう引っ張りながら動かして、地面に傷を付けつつ一周させればよいのです。縄文時代から、そうした形で円形を描いていた…

前期古墳は死者の住居ではないのに、なぜ中心に家型埴輪が置かれたのでしょうか。

恐らく、死者の国の概念は存在したのでしょうね。整合的な結論を出すのは難しいですが、死者の霊魂自体は遺体を離れ、何らかの死者の国へ行くと考えられたのでしょう。家型埴輪は、その国での住居を表しているのかもしれませんし、やはり遺体を安置する施設…

少数民族のクランと、動物の生息域は一致するのでしょうか。民族の移動により、クランの対象動物がみられなくなっても?

これは本当に重要な問題ですが、例えば、少数民族のトーテムのうちで最も広汎に分布しているのは、虎トーテムなのです。これは、東南山地を中心に棲息してたアモイトラ(華南虎)のためで、ほぼ、民族集団の分布範囲、生活領域と一致しています。しかしこの…

十二支と十二獣の動物がほとんど同じなのは、どちらがどちらかに影響を受けているからですか?

それはそうですね。十二獣が仮にインド由来だとすれば、それが漢訳されるとき、中国の十二支が参考にされたのだと思います。最も大きな相違は師子/虎ですが、中国では獅子は想像上の動物、麒麟や龍に近いものでした。それでも、虎と対応する位置に置かれて…

『遠野物語』から平地の人たちによる山に住む人々への差別がみられたが、山に住む人たちは、平地に住む人々のことをどのように考えていたのだろうか。

これは重要な視点ですね。例えば、近世に山中を移動しつつ、樹木を伐って器などを作成していた木地師集団は、その生業を歴代の権力者が保障したお墨付きを持ち、平地の人々との通婚を厳しく規制していました。これとよく似た文書を持ち、やはり移動と焼畑に…

山の民は、いつから偏見を持ってみられるようになったのですか。

こういうことは、関係論的に捉えなければなりません。すなわち、平地の道徳、倫理、価値観が確立していったことと関係があるのです。日本列島の場合は、やはり、稲作文化の一般化に対応します。例えば、かつて標高300メートルを超える山々には、縄文時代の人…

十二神将にしろ十二誓願にしろ、なぜ12という数字が仏教においては重視されているのでしょうか。また、十二獣と十二支は、方角に準えられることが多いのでしょうか。

12は、仏教だけではなく、種々の宗教で整数として用いられるスタンダードのひとつですね。例えば、キリスト教でも「十二使徒」などがあります。これは、12が月や方位など、世界を分割する、あるいは表現する基本的な数字であるからです。ネリー・ナウマンら…

山と里・平地の対立が東アジアを中心に各地でみられたという話だが、それは里に住む人々にとって、山が神秘的な存在であったからこそ、そこに住む人々も人間離れした存在と考えたのだろうか? / 山で修行もするのに、なぜ差別的な四川でみるのでしょうか。 / 西洋の聖書的自然観において、自然と人間など、二項対立的な事例はあるだろうか。

ひとつにはそのとおりです。山は恐ろしい獣のほか精霊なども跋扈する世界と捉えられていたので、そこに生きる人々は常人ではない、あるいは魑魅魍魎の仲間であると考えられていたわけです。しかしそうした神秘化は、ある意味では差別なのです。これは、ヨー…

動物に関する伝承で、人と動物の混血が人間的な姿になることが多いのはなぜですか。

いわゆるアニミズム信仰においては、信仰の対象は森羅万象に宿る生命=精霊ですが、これは人間と同じ姿をしていると考えられることが多かったのです。熊や虎、狼などの獣も、その毛皮を脱げば、人間と同じ姿をしている。逆に人間が毛皮を着れば、熊や虎、狼…

纏向遺跡で出土した桃核は、貝塚のように消費した桃を集めておかれた遺構なのでしょうか、それとも遺跡内に点在していたのでしょうか。

纒向遺跡の桃核は、土坑からまとまってみつかっていますが(2000個以上に上ります)、詳しく分析したところ食べられた痕跡がなく、恐らくは付近に桃の栽培地があって、一括して廃棄されたものだろうと考えられています。桃核は、纒向以前の弥生時代から吉備…

結局、魏が援軍を送らなかったのはなぜでしょうか。

直接魏の領土に関わらない他国内の内乱ですから、普通は援軍など送らないでしょう。そもそも魏は、朝鮮半島の安定と呉への対処の目的で倭を必要としたのであり、そこで軍を邪馬台のために割いてしまえば、本国の防衛が危うくなります。本末転倒となります。

神仙思想は日本の御伽草子にも取り入れられているそうですが、どうして川が桃源郷に繋がっているのでしょうか? 私なら空をイメージします。 / 上流から高貴な人が流れてくる話は世界中にあると思いますが、日本のように急な川ばかりある国では少ないのでしょうか?

あらゆる地域で、川は生命の源です。灌漑農耕にしても都市生活にしても、川や井戸がなければ成り立ちませんし、交易・流通の面でも極めて重要な意味を持っていました。洪水による被害も恐ろしいものでしたが、平時の恩恵には計り知れないものだったのです。…

箸墓古墳を造営するのに、延べ135万人も労働力を動員したとありましたが、仮にヤマト王権が畿内であった場合、現在のどの市、県の規模があったのでしょうか。また、そのような多人数をまとめるシステムは、何を例としたのですか。 / 当時のヤマト王権の王たちは、どのような手段を用いて、治水工事などの人員を確保していたのでしょうか。

ヤマト王権の勢力基盤は畿内で、その核となる部分は畿内豪族の結集体とでもいえるでしょう。これからお話ししてゆきますが、大王家には幾つかのグループがあり、箸墓を生み出した奈良盆地のグループ、大仙陵古墳を生み出した河内平野のグループが主要なもの…

銅鏡が山梨県から出土したとありましたが、誰かが九州から持ち出したものとは考えられないのですか? また、九州からは1枚も出土していないのですか?

呉の年号、赤烏元年(238)銘を持つものが山梨県の鳥居原狐塚古墳から、同じく赤烏7年(245)銘のものが、兵庫県の安倉高塚古墳から出土しています。呉の年号を持つ銅鏡の話で、銅鏡全般のことではありません。銅鏡自体は、九州からもたくさん出ています。

邪馬台国は魏の属国といえるでしょうか。

一応、「王」として冊封されていますので、朝貢国という位置づけだと思います。しかし遠方の夷狄に等しい存在ですので、実質的には、友好勢力程度にみられていたのではないでしょうか。

ある本で、日本に処女信仰が始まったのは明治維新で西欧の価値観が流入してからだと書いてあったのですが、そもそも神に仕えるのは清らかな処女であるべきという考え方が定着したのはなぜでしょうか。

かつては、古代においては神に仕える女性は未婚でなければならない、それが太古の昔からの伝統なのだ、と信じられていました。しかし近年の、とくに義江明子さんらの研究によって、古代に遡るほどそうした処女性は重視されておらず、既婚者や子供もいる女性…

陶邑の樹種分析などから分かる環境破壊は、日本の歴史にどう影響を与えてゆくのでしょうか。建築や水軍力のあり方にも影響してゆくのですか。

古墳時代の頃ですから、環境改変が進んでゆくといっても、即座に社会にマイナスの影響が出るほど、環境が悪化してしまうわけではありません。しかし7世紀にまで至ると、藤原京建設に至る時点で、すでに飛鳥周辺の森林における建築用大径木は底を尽き、近江…

卑弥呼の死で魏との外交が失われてしまったことに驚きました。難升米などの卑弥呼の近くにいた人々は、その後どうなってしまったのでしょうか。 / 『魏書』にはなぜ台与に関する記述が少ないのでしょうか。

『魏書』の記述に従うと、狗奴国との軋轢に対応すべく張政が邪馬台国へ渡ったようで、後継者が台与に落ち着くまで滞在し事態の収拾に当たったようです。どのくらいの期間か分かりませんが、一度男王が立って政権が混乱し、誅殺の嵐が吹き荒れ、そののちに台…

卑弥呼の夫の話が出てきましたが、彼女の世話をしていたのは「男弟」ではないのでしょうか。

とりあえず、『魏書』東夷伝倭人条には、このように出ています(原漢文)。「倭国乱れ、相攻伐して年を歴たり。乃ち共に一女子を立てて王と為す。名を卑弥呼と曰ふ。鬼道を事とし、能く衆を惑はす。年已に長大なるも、夫壻なし。男弟あり、佐けて国を治む。…

神仙思想は、古墳時代の日本に広く知られていたのでしょうか。あるいは、一部のみに伝わっていたのですか。

銅鏡など神仙思想を表すモノは、王権のトップから地域のトップへ伝来していたでしょうし、前方後円墳が神仙思想に基づくものなら、その意味するところは教示されていたはずです。7〜8世紀にみられる神祇関係の記録、祭祀の祝詞や次第をみていると、古代の…

陶邑の木炭の樹種分析について、5〜6世紀は減っているが、6〜7世紀は急に増えている。これはアカマツが増えたからと理解してよいのでしょうか。

授業でも少しお話ししましたが、グラフに現れている木炭の量が、周辺の森林量を直接的に示すわけではありません。例えば、盛んに操業していればそれだけ木炭量は増え、活動が弱まっていれば減る。全体の木炭量が減少傾向にあるのは、森林資源が減少している…

樹木を大量に伐採して環境改変を行うことは、当時の人々の心性と矛盾しないのでしょうか。 / 古墳時代には、アニミズムなどの観点から森林伐採に反対する人々はいたのでしょうか。 / 森林伐採は国家的事業として行われたのですか?

未だヤマト王権下においては、各地域の土地を公有にするような中央集権体制は実現できていません。よって、ヤマト王権の勢力基盤である近畿地方と、地域首長との関係において設定した直轄地以外で、大々的な国家事業を展開することはできなかったでしょう。…

寒冷多雨の環境下で、各地の王はどのようにクニを作りあげ、それを安定化させる水稲耕作を続けてゆくことができたのだろうか。

やはり、まだ分からないことが多いですね。授業でお話ししたとおり、品種改良などの対応が未だできない技術段階にあって、気候の悪化するなかで稲の収穫を確保するためには、治水を行いできるだけ多くの水田を確保することです。河川の流路変更や溜め池の造…

大仙陵古墳のような大型の古墳を築造するためには、非常に多くの労働力を必要としたと思いますが、人々は支配階級の指図に黙って従っていたのでしょうか。古墳の造営作業に対する不満とそれによる人々の反抗、あるいはそれが起こらないほど恩恵が与えられた記録があるのでしょうか。

古墳時代の社会に対する記録は、中国にもほとんど残っていません。『日本書紀』や『古事記』の内容も限られたものですので、民衆レベルの動向復原は、なかなか難しい状態です。弥生時代に灌漑稲作が導入され、それを契機に社会の大きな変動が生じてから、地…

洞窟の問題と、僧侶が洞窟に籠もって仏像を彫ったりすることとは、何か関係があるのでしょうか。

個々の文脈によるでしょうが、洞窟が修行の場になっていたのは、中国へ仏教がもたらされた後漢から六朝にかけて、西域などでも流行した現象でした。そのため壁画には、現実世界のしがらみを逃れるための九相図、浄土をイメージするための変相図など、さまざ…

飛来峰の伝説では、飛来を示す地形的な特徴はあるのですか。 / 「飛ぶ」ということには、何か特別な意味があるのでしょうか。

授業でもみましたが、周辺の山林に比して奇巌が露出している特異な印象の場所であり、それゆえに聖地化されたのでしょう。上に答えた、磐座の論理と同じです。「飛来する」という現象については、やはり天空が未知の流域であることと関連するのでしょうね。…

山が移動するのが面白いと思いました。それは山自体が移動したのですか、それとも山の霊が移動したのですか。 / そもそも、なぜ三国伝来の文脈で山が移動する必要があるのでしょうか。

山自体が移動する、ということですね。とにかく、『法華経』の説かれた場、いうなれば法華信仰のオリジンたる聖地が霊鷲山なのであって、それが中国、日本に現れたということは、同地が法華宣揚の場としてインドに劣らない神聖性を獲得したことを明らかにし…

『古事記』の黄泉国神話にも、黄泉/地上を分けるものとして巨岩が出てきますが、これも仏教から取り入れられたものなのでしょうか?

ちょっと誤解があったかもしれませんが、巨岩信仰、磐座信仰は仏教以前から列島に存在しました。後に宗像大社を備える沖ノ島、大神神社を持つ三輪山など、古墳時代から歴史時代の神社に直結する祭祀遺跡には、いずれも巨岩の屹立する景観をみることができま…