2007-01-01から1年間の記事一覧

大木の秘密にみる伐採の方法には、各国の伝承間で共通性がありますか。

ある程度は見受けられます。日本の場合、「中臣祭文」を核とする呪術的な伐採法から、単に木っ端を焼くだけという簡易な方法へ数百年かけて変化します。後者の内容を持つ伝承は、現在でも日本中に確認できます。このような変化は、列島に暮らしてきた人々の…

「こぶとりじいさん」なども、マージナルマンになるのでしょうか。

そうですね。こぶとりじいさんは村落共同体の成員ですが、頬に大きなこぶを持つという異形のため、神霊と交換できるマージナルな存在と考えられていたのでしょう。物語の筋からいっても、こぶを失って以降は鬼との関わりが断たれます。内的文脈では鬼を騙し…

マージナルマンは共同体の中へ入ることはないのでしょうか。共同体に入って、その外側との間を往来するような、トリックスター的な役割はないのでしょうか。

重要なのは、境界的であるということが、その人間の本質ではなく、シチュエーションによって付されるラベルに過ぎないということです。例えば旅行者などは、故郷へ帰れば共同体の成員となりますが、旅先では常にマージナルな位置づけをされます。典型である…

中国では、ざんばら髪や着物を左前に着ている人物などは、文明化のなされていない夷狄の表象でした。髪を振り乱した形が魔除けになるというは、このことと何か関係があるのでしょうか。

関係しますね。中国に限らず、文明/非文明という二項対立的な構図のなかでは、文明が開明的な権力を有する一方、非文明の側に文明では推し測ることのできない恐ろしさ、呪術的な威力が見いだされることが多いのです(これは一種の差別意識です)。古代日本…

「伐梓」が、異民族討伐から樹木伐採へ意図的に読み替えられたとするなら、それはどのような目論見からだったのでしょう。

どなたかの感想にもありましたが、やはり自然の征服を象徴する物語へ転換するためでしょう。六朝期の志怪小説には、英雄が神を殺して自然を克服する話が多くみられます。南北朝期、中原への遊牧民の侵入によって漢民族が南方へ移動し、その地で大規模な開発…

中国古代は、中原でもまだ気温が高く、亜熱帯のような気候だったと聞きます。寒冷化が始まったのはいつからなのでしょう。

環境史においては、秦が拡大して戦国諸国を滅ぼし、統一帝国を構築してゆく過程に寒冷化の影響をみます。このとき、南方の雄であった楚や、長江文明の象徴のように考えられている巴蜀が秦によって滅ぼされますが、その背景には華北の寒冷化に伴う人々の南進…

『捜神記』に水神としての牛が出てきましたが、日本では、地獄の牛頭や牛鬼など恐ろしい存在がある一方、八坂神社の牛頭天王のように祭られる存在もあるようです。これは日本人の心性とどのような関係があるのでしょうか。

地獄の獄卒としての牛頭は、やはり中国から伝わったものです。現実世界では人間に酷使されていた牛馬が、逆に人間を責め立てるという逆転の構図が孕まれています。牛鬼は、水神としての牛の災禍をなす面が強調された姿でしょう。牛頭天王は、元来はインドの…

 全学共通科目:日本史(12/12分)

※講義で取り上げた『捜神記』の〈大木の秘密〉について、なぜ水神は牛の姿をしているのか、なぜ青色なのかといった質問が多数ありました。また、「伐梓」が異民族の討伐から樹木伐採へ読み替えられた点について、『史記』『捜神記』『史記正義』の関係を問う…

街でみかける易者も、今日のような方法で占っているのでしょうか?

基本的にはそうでしょう。ただし、近世以降易の方法も多様化していますので、現在の易の一般的な方法が何であるのかは知りません。私は、術者が人間として信頼がおけない限り、その人の実践も信用することができないので、商売としての占いからはどうしても…

大学で易が教授されたとのことですが、当時の官僚たちも占いをしていたのでしょうか?

吉備真備が子孫に家訓として残した『私教類聚』には、占いに耽溺してはならないとの戒めがあります。この書物は多く『顔氏家訓』を引き写したものですが、日本の社会に意味のないことを引き写しても仕方がないので、貴族の間でも易の流行があったと思われま…

最初の一本は何のために抜くのでしょう。

これは、あらゆるものの根源である太極を象っているのですね。つまり、易のプロセスは単に数字を導き出す動作ではなく、手の中に太極・天・地・人、すなわち宇宙そのものを再現し、その理法を見極めようとする宗教的実践なのです。ゆえに、本当は、ぜい竹を…

百済が日本へ博士を派遣していることには驚きました。日本と百済は対等な関係だったのでしょうか?

六世紀末の飛鳥寺建設において、仏教建築のエキスパートとして瓦博士等が渡来してきていたことは確かです。『書紀』はそれ以前の五経博士等についても、倭の要請(命令?)に従うような形で百済が技術者・知識人を送ってきたように書いていますが、百済側と…

占いをするときには、占う内容について考えるのでしょうか。それとも無心でするべきですか?/占いをしているとき、邪念が入ってしまった気がします。実際にある程度重要性の高い事項に関して占った際、占いをした人の意思や思惑が介在することはあったのでしょうか。

『周易』繋辞伝や『正義』『本義』に書かれたぜい法では、心身を清浄にして易に臨むべきことが求められています。しかし、願った内容を実現してもらうわけではないので、問う内容を常に頭に思い浮かべておく必要はないでしょう。自分を天地人と一体化させ、…

スサノオが朝鮮半島に船を造っていこうとしたのは、金銀資源を狙った侵略目的なのでしょうか。

あの『書紀』の異伝では、スサノオは朝鮮半島に天降ったことになっていて、御子神たちも朝鮮から日本へ渡ってくる印象です。よって半島の征服云々というより、木材の貿易も含めた半島との交流を前提とした神話と考えることができるでしょう。金銀の話は、木…

いざなぎ流の太夫が被っていたものは何ですか。/いざなぎ流の太夫はどんな人たちがなったのでしょう。世襲制でしょうか。

昨年の秋期日本史特講(古代史)でも、このビデオの全編を上映しました。その際の質問への回答がありますので参照してください。

忌部氏は「擬制的同族集団」とのことですが、地方における忌部氏の選定基準は何ですか。

こうした品部、雑戸の同族関係は、ヤマト王権が地方豪族を従属下に入れてゆく過程で成立してくるものと思われます。出雲の玉造の忌部などは有名ですが、近年発掘された大和国高市の曽我玉造遺跡の調査によると、五世紀末頃までの玉生産は、この中央の遺跡で…

ビデオのなかで鹿の心臓の一部を神に捧げていましたが、なぜすべてではないのでしょう。また銃を突き付ける鎮めなど、なぜ銃があのような役割を担っているのでしょう。/神を鎮めるのに、神の住む山の動物を殺して行うというのがよく分からなかったです。

ビデオでみてもらった狩猟儀礼は、生業と結びついたもので、わざわざ山の神を祀るために鹿を殺すわけではなく、山の神の管轄下にある鹿を人間がもらったのでその返礼をしているのです。同じものを神と人とで分け合うことが重要で、一種の神人共食でもあるわ…

韓国の国旗に卦が使われていることには、何か意味があるのですか。

易が中国の民衆にまで広がったのはいつごろでしょう。

例えば、戦国末の「包山楚簡」「望山楚簡」からは、亀トや易など数種の占いを使い分けるト占集団が、貴族に奉仕して病気治療等に当たっていたことが分かっています。また、前漢の『史記』日者列伝には、都市のなかに易者が店を開く場所のあったことが確認さ…

小指と薬指の間にぜい竹を挟むことには、何か理由があるのでしょうか。

中国では、奇数やアンシンメトリーなものが好まれるように思うのですが、易との関連性はありますか。

易を行う際、なぜ竹を材質とした道具を使うのですか。竹に特別な精霊が宿っているのでしょうか。

竹は、中国では、植物のなかでも特別な存在と考えられていました。類書『芸文類聚』では、「樹木」というカテゴリーのなかには入れられず、「竹」として独立して立項されています。形態的にも根を伸ばすことで個体を増やしてゆくという特殊性があり、100年ほ…

日本人が〈大きな存在〉に寛容さを求め依存するのは、やはり恵まれた自然環境に根差す甘えと関係があるのでしょうか。厳しい環境で生じたキリスト教などには、やはり厳しい戒律が存在するのでしょうか。

『豊後国風土記』逸文では、なぜ田主は稲の精霊とではなく、鹿と契約を結んだのでしょうか。

まず、日本では稲の精霊(稲魂といいます)を擬人化してあつかっている(書きかけ)

生きものが生きるために他の生きものを食べるというのは自然なことですが、人間はひたすら他の生きものを食べるばかりで、その後ろめたさを祭祀によって正当化しているようにも捉えられるのだと思うと、少し悲しくなります。現代においては、食物となる生きものへの感謝や敬いの心さえ薄れてしまい、毎日たくさんの食物が廃棄物になっている現状が、さらに悲しいことだと思いました。

本当にそうですね。

〈一元的な存在〉とは、基本的に人間の延長なのでしょうか。

人間であるかないかということは、さほど意識されていないのかも知れません。しかし、先日お話したような〈彼岸性〉は希薄ですね。神的存在であっても、それ自体が人間を相対化してしまうような存在ではない。やはり人間の価値観の延長上にある、極めて現世…

日本人が多神教だというところに疑問が出てくる、というくだりがよく分かりませんでした。

確かに、日本人は多くの神仏を崇めていますが、本当に各々の個性を認識しているかどうかが問題です。ここは病に霊験がある、ここは縁結び、といった機能的な区別はしていますが、それら神仏の来歴や個性には注意を払っていません。毎年正月に、最も多くの初…

「山羊と狩人」の神話のなかで、精霊の世界においてなぜ山羊は人間の姿をしているのでしょう。精霊なら精霊でいいのではないでしょうか。

精霊の恰好が、人間と同じであるというわけです。この点、人間が神の似姿を持つというキリスト教の発想にも近いかもしれません。精霊が人間の姿を持つということ自体、やはり人間的価値観に基づくものということでしょう。

精霊に対する考え方、アニミズムなどにも地域によって相違が出るのは、気候などによるものでしょうか。

むしろまったく同じになるという方がおかしいので、気候条件はもちろん、相違に至る要因はさまざまに考えられます。

高校の日本史にも出てきた『延喜式』が、神話的内容を含んでいるのに驚きました。他の法律関係資料も、そうした内容を含んでいるものなのですか。

古代国家は神祇を祀る制度を持っていましたので、とうぜん、根本の行政法である律令にも「神祇令」が定められ、祭祀の基本的なありようが定められていました。律令の補足修正法を類聚集成した『類聚三代格』にも、神祇や祭祀に関する法令が収録されています…