全学共通日本史(11秋)
寒冷化が進むと概ね農業の収穫は落ち込みますし、山林から採集できる食用植物・果実・堅果類も減少します。温暖期と同様の人口を保持しようとすれば、技術開発や労働力の集中を行い、収穫力を高めてゆくしかありませんが、そのためには複数の共同体を統率・…
例えば各時代の地層の土壌構成から、当時の気候を類推することができます。大阪府、福井県、三重県などの古墳時代の地層からは、「黒色有機質粘土層」という土の層がみつかっているのですが、これは多雨の気候下で形成されることが知られています。つまり、…
それはそうでしょう。しかし自然環境は、文化構築の基底に位置するものです。言葉も環境の影響をまともに受けます。衣食住すべてが環境に依存しており、環境が変わればまったく違う姿へ変貌してしまうものなのです。人間の心理も同様です。ちなみに、「民族…
そのとおりです。なかなか、1年を通じての気温の変化などを、細かく割り出すことはできません。
授業でもお話しするつおりですが、それは王権や国家が稲を税として定め、庶民に納入することを義務づけてきた結果です。それがなければ、日本にはより環境に即した農業が展開していたでしょう。だいたい棚田など、山の斜面を段々にして水田を構築するなど、…
そのあたりは、ある程度考えられています。例えば世界遺産でいうと、白神山地や知床半島、屋久島などの原生林は自然遺産とされています。「古都京都の文化財」は文化遺産ですが、建築物等のほか、「景観」という概念が含まれています。これは自然と文化が交…
うーん、これも深いですね。「自然環境が豊かである」という言説も近代のものでしょうから、上のように表現してしまうと、これも近代的構成になってしまうのでしょうね。より前近代の心性に即していえば、「神仏への甘え」ということになるでしょう。すなわ…
高畑監督は、里山のありようを自然/人間の共同作業として賛美する、という立場です。それに対して宮崎監督は、それは人間の傲慢であって、里山は人間の自然に対する耐えざる暴力の結果なのだという考え方ですね。こんど、授業でも時間を作って説明しましょ…
上記の質問の回答にも通じますが、ないでしょうねえ。屋久島や白神山地といった原生林も、温暖化や放射能、オゾンホール、酸性雨等々の影響を受けていると思えば、地球上で人間の関与しない自然環境は、もはや存在しないといってもいいでしょう。
なかなか深い意見です。そのとおりですね。授業でもお話しするつもりですが、人間は生活してゆこうとすれば、必ず周辺の自然環境に変質を及ぼしてしまうものなのです。例えば、ある森林地域に人間が居を定めたとして、彼は周辺から利用できる/食べられる植…
最終的な価値判断は、個人の自由で構わないと思います。私が講義で伝えたいのは、里山が自然/人間の共生の理想的な形だと無批判に思い込み、その構築されてくる過程をまったく知らずに、「他国より日本の文化が優れている」と空虚に主張することの馬鹿馬鹿…
当然ですね。例えば、草山・芝山が大規模に展開したために、森林地域の入り口付近に設けられていた狼の巣穴が露わになり、人間と争闘することが多くなりました。『遠野物語』は近代の採録ですが、開発の進展によって荒らされた土地に巣穴を作る狼が、村の大…
アオヒトクサについては、恐らく「人間は樹木から生まれた」、あるいは「人間は草だった」との神話が存在したのだと思います。「民草」は13世紀前後には使われていた言葉ですが、起源はアオヒトクサにあるものの、「草」に込められた意味は多少変質していま…
漢籍や仏典では、馬自体は高貴な動物と扱うものの、「驢馬」を賤しい家畜と位置づける例が早くからみられました。『成実論』などには、前世で負債を償わぬまま死んだものが、牛や馬に生まれ変わり、駆使されることで返済するとの思想が語られています。これ…
授業でもお話ししましたが、『捜神記』の馬娘婚姻譚は、世界でも最も広く分布する狩猟採集時代の神話に基づいていると思われます。その神話の形式を、私は「異類互酬譚」と呼んでいますが、人間と異類(人間以外の動物)が、相互にポジションを交換する物語…
授業でもお話しましたが、例えば日本最古の仏教道場といわれる豊浦寺では、蘇我氏系と秦氏系の瓦が確認されています。上宮王家の斑鳩寺(法隆寺の前身)では上宮王家系と蘇我氏系、秦氏の氏寺北野廃寺(広隆寺の前身)では秦氏系と蘇我氏系の瓦が確認されて…
これは時と場合によりますね。もちろん、古い時代で文献資料がまったくない、あるいは極めて少ない場合には、考古資料が大活躍することとなります。しかし、考古資料の大部分は歴史の細部を伝えてはくれませんので、具体的な歴史像を構築してゆくためにはど…
法隆寺の創建を考えれば、やはりその業績は屹立しているとみなければなりません。王族で法隆寺に匹敵するような寺院を造営してゆくのは田村皇子、後の舒明天皇ですが、熊凝道場→百済大寺→大官大寺と発展してゆくこの寺院も、そもそもの起源は聖徳太子からの…
そのとおり、東アジア文化圏における日本列島の位置は、中国王朝と地続きの朝鮮半島などとは異なります。しかし実は、国風文化も背景に中国文化の影響を濃厚に持ち、その憧れのもとに形成されたことは自明です。当時の貴族たちの邸宅には「唐物」と呼ばれる…
残念ながら、研究が日進月歩の状態である『日本書紀』は、あまりよい概説書がない状態です。内容的なことでなく、いかに叙述されているかを知りたいなら、必読書はやはり森博達『日本書紀の謎を解く』(中公新書、1999年)ですね。最近その補足版、『日本書…
前回講義でお話ししたように、「聖徳太子」という名称の初出は、8世紀半ばに成立した『懐風藻』の序文です。「聖徳王」の名は、それより少し前の史料(大宝令の注釈書である「古記」、天平10年(738)頃成立)にもあり、『日本書紀』の記述を通して「皇太子…
これは普通にありました。一世代のなかで年長者に即位が進んでゆきますが、同一世代の大兄がいなくなると、次世代へ継承権が移動するのですね。ゆえに、群臣の支持勢力がそれぞれが養育した、もしくは血族関係にあるような大兄を擁立し、どちらが先に即位す…
「必ずいるかどうか」というより、そうした配置を設定するのが、中国的な歴史叙述の常套手段だということですね。例えば、殷王朝における湯王と伊尹、周王朝における文王・武王親子と太公望呂尚、統一秦における始皇帝と呂不韋、漢帝国における劉邦と張良な…
皆さんがよく知っているものでいうと、京都の祇園社こと八坂神社でしょうか。これは本来「牛頭天王」という神仏習合的神格を祀っており、釈迦の生誕地である祇園精舎の守護神であることから、「祇園社」との名称も生まれました。なお、牛頭天王はスサノオと…
もちろん、『日本書紀』の各所に認められます。例えば、乙巳の変を成し遂げる中大兄皇子と中臣鎌足の出会いの場面。飛鳥寺の西の槻の広場で、打毬をしていた中大兄の沓が脱げ落ち、これを鎌足が拾って捧げるという有名なシーンがあります。これは、『史記』…
実はあの記述は、『法苑珠林』の撰者である道世か、彼に決定的な影響を及ぼした道宣という僧侶が、現実の歴史を仏教に都合の良いようにねじ曲げた記述なのです。史実の寇謙之は老衰によって死亡しており、死刑になどなっていません。あの書かれ方には、大規…
もちろん仏罰、あるいは、廃仏がよくない未来を呼び寄せる予兆として描かれています。崇仏論争を述作した人々が、仏を祟り神のような存在と認識していたことが窺われます。
倭王武=雄略天皇の時点で、倭王が中国の「天下」から独立した「天下」概念を持とうとしていたことは、稲荷山古墳出土鉄剣銘や江田船山古墳出土大刀銘に「治天下」の言葉があることからも分かります。しかし、中華思想が明確になるのは7世紀後半の斉明朝に…
どうでしょう。当時は朝鮮半島の政治情勢が活発化し、隋王朝の脅威が東アジア諸国に緊張を強いた時期ですから、朝鮮半島との関係において求心力を得ていたヤマト王権中心部、その同盟勢力となる人々は、「倭」という繋がりを意識していたでしょう。しかし一…
以前もここに書いたかも知れませんが、まずひとつには、乙巳の変というクーデターにおいて、王権が蘇我氏から政治の実権と仏法の興隆権を奪取したことを正当化するため、蘇我氏の全盛期に政治と仏教に関係する立場にあった「王族」が必要だったということで…