日本史概説 I(15春)
王権や政権に対して著しく被害を与えない限りは、容認し利用していたものと思われます。平安時代には、遣唐使が停止された後も、民間レベルでの交易が続き、平安貴族の間に高価な舶来の品々が愛好されたことは、近年よく知られるようになってきました。後に…
朝鮮半島と倭との関係は極めて深く、半島の南には前方後円墳も幾つか発見されていて、倭から渉ってきて帰国せず、朝鮮の王朝に奉仕した人々の墓であったとみられています。倭が東海(日本海)を渡った先にあるという認識は、ある程度共有されていたとみられ…
幾つかの氏族や村、あるいは戸に編成されて、各地に開墾農民として移住させられています。私たちの住む関東などは、6世紀後半から渡来人集団の移配が盛んに行われたところで、各地に朝鮮系の地名、その地域文化に依拠した神社などが建っています。高麗(コ…
異質、ということはありません。南北朝時代は、とにかく北朝の胡族政権と南朝の漢人政権の対立が激しく、小競り合いが頻繁に生じていました。それぞれの王朝の内部でも、部族同士や王位継承をめぐる内乱が相次ぎ、社会不安が倍増されていたのです。塢堡は、…
主に内政・外交の重要な機能を担っている氏族が、最終的に王権に密接に関与する8氏族をなしたのだ、といった方が事実に近いでしょう。いずれにしろ、合議のトップは大臣や大連ですので、その統括のもとで諸々の業務を分掌しているわけです。勢力の大きさに…
もちろん、日本列島には、現在に至るまで自然環境に神霊の働きをみるような心性が残っていますので、古代のこの時期に自然神への畏怖がまったく焼失してしまうということはありません。藤原京や平城京の工事に参加し、山を削り、森林を伐採し、河川を埋め立…
狭い国土である程度の一般化がなされている日本列島と、広大で56の民族が住む中国とを、単純に比較することはできません。お辞儀に関わらず、礼儀は儒教的秩序を前提とするものですので、主に王権や国家からの矯正が行き届いた地域で社会的に浸透してゆきま…
『ヒストリア』は何でもかんでも持統にしてしまっていましたは、正確には匍匐礼・跪礼が立礼に改められるのは天武朝です。また、その際に「難波朝庭の立礼に更たむ」と出てきますので、孝徳朝の改新政治の折には、一度実行されていたものと考えられます。そ…
当時の東アジアでは、中国王朝の政治・文化が価値の基準でした。文字どおりその文化は東アジアのなかで最高水準であり、それゆえに隣国はこれと冊封体制を結んで文物を輸入、消化しようとしてきたわけです。中国でも古代王朝の殷の頃には太陽信仰でしたが、…
その伝記にどのような意味でフォローしたと書いてあったのか分かりませんが、実は小野妹子は、煬帝が激怒した国書への返信と思われる国書を、帰国中に百済で盗まれ紛失してしまったと奏上しています。本当なら恐るべき大失態ですが、彼は罪に問われません。…
中国に仏教が伝来し、次第に浸透してゆくのは後漢以降、本格的に受容と消化が進むのは南北朝期となります。この間、梁や隋のように仏教治国策を採る王朝もありましたが、北魏や北周では大規模な廃仏があり、老子の子孫を標榜する唐でも国家的廃仏が企図され…
日本列島は、古代においては、おしなべて東アジアの後進国です。中国や、それと直結する朝鮮諸国から先進的文化を摂取することで、成長してきたといって間違いありません。この時期には、南北朝の動乱のなか、倭の五王以降は中国王朝と直接連携が図れず、中…
いずれも、日本古代の通史において、なぜそれが中心的テーマとして設定できるのか、きちんと説明できていれば大丈夫です。
いえ、古墳時代以降、女性が家長、首長となっている例は複数みつかっています。また、発見された人骨からは多く妊娠痕も発見されており、彼女たちが母親でもあったことを証しています。近年、戦国時代にも女性君主のあったことが注目されていますが、これま…
天皇制が本格的に起動する天武・持統朝に至るまで、ヤマト王権の大王は群臣の推戴を基本的な条件とします。授業でも扱った合議制は、王位継承においても意味を持つのです。よって継承の抗争は、有力後継者のもとに群臣勢力が分断することから生じます。次回…
古代日本に遷都が多いのは、歴代遷宮制の遺制です。すなわち、もともと大王が住む宮は一世一代のもので、嗣王は他に新たな居所を築くことになっていました。それが、宮自体の大規模化(大王の居所に、王権業務の複雑化による種々の施設・機関が付加されてい…
長子相続を重視するのは序列を第一とする儒教の発想で、社会の安定化を目指すものです。儒教が生まれた春秋時代は、周王朝の理想が崩れ諸侯が台頭した時代で、孔子はこれを「もとの理想」へ復帰させようとしたわけです。以降政治・社会思想としては、動乱期…
史書に暗殺という記録はありません。暴虐さを示す表現は、狩猟に関するもの、死刑に関するもの、酒池肉林的なものなど、ちょうど『史記』における夏の桀王や殷の紂王の記述によく似ています。『古事記』や『日本書紀』を編纂したのは継体王統の子孫であり、…
授業で掲げた系図では、茅渟王は舒明と同父(押坂彦人大兄)・同母(糠手姫)となっていますが、『本朝皇胤紹運録』という文献には母を漢王の娘である大俣王としており、どうも母親が異なっていたようです。『書紀』を検証してゆくと、舒明・皇極はほぼ同年…
倭の五王を誰に当てるかは、さまざまな見解があるということで、すべてが間違いというわけではありません。しかし中高の授業は、その性質上ひとつの答えに収斂せざるをえないので、あたかも五王のそれぞれが『書紀』や『古事記』の天皇に直接該当するかのよ…
舎人親王は、確かに、最終的に『日本書紀』を奉上した人物として『続日本紀』に名前が出てきます。しかし、それ以前の編纂の過程では関与していた痕跡がありません。『書紀』の区分論的な内容分析からすると、その編纂事業は7世紀末の段階から開始されてお…
稲荷山古墳出土鉄剣銘が示すとおり、もちろん鉄器文化は東日本へも伝わっていました。しかし、朝鮮半島との交渉は主に西日本や日本海側の首長たちが担っていましたので、それらに比べて鉄鋌などの出土量は少ないようです。しかし、7世紀になると王権の東北…
古代の王は、おしなべて祭政一致の存在であり、そのなかには、神として崇められたものもありました。例えば中国全土を統一した秦始皇帝など、もともと人間が登りうる最高の位は王であって、帝は神を意味したのです。すなわちあらゆる王を否定しそのうえに君…
一般に、大脳新皮質を拡充し抽象的志向が可能になったクロマニヨン人の頃から、自然を崇拝することが始まったようです。本能というわけではありません。
例えば造山古墳の場合、同時期に大阪に造営されている上石津ミサンザイ古墳と同規格で、一回り小さい規模の前方後円墳となっています。その巨大さからいって、当時の吉備の地域王権が強大な勢力を誇っていたことは確かでしょうが、古墳のあり方からすると、…
考古学が文献史料のない時代をどう考えるかですが、前後の時代との比較、隣接する地域で文献史料の残存しているものがあればそれとの比較、最終的には文化人類学の民族調査に基づく前近代社会・民族社会の発展段階分析に基づきます。とくにいちばん最後のも…
『日本書紀』の編纂は、あくまで天皇の命令を奉じた国家的事業ですので、その方針は個々の述作者のみによるものではありません。続守言・薩弘恪もその命令のしたで奉仕していますので、唐人の考え方で内容を決めたわけではありません。あくまで文章を作成す…
いずれも、古代史、日本史が中心に論じられていれば、構いません。
引用そのものはコリア語で構いませんが、レポートは日本史・日本語のそれですので、どのような内容が書いてあり、それが中国や日本の文献とどう異なるかなどは、しっかり日本語で説明してください。
大丈夫ですが、その際には、武器の発展が日本古代史においてどれほど重要なのかを、きちんと説明できていることが条件です。問題意識、視角、選択基準の正当性をきちんと説明できればokです。