もともとは祭器を載せる台であった特殊器台が、被葬者を守る埴輪に変化していったプロセスをもっと知りたいです。なぜ台が人になったのでしょうか?

授業でも説明しましたが、特殊器台が直接形象埴輪に展開したのではありません。特殊器台は、あくまで円筒埴輪の原型です。円筒埴輪が、やがて靫や蓋の儀仗・立て物を表現するように進化し、やがてそれらが差し掛けられる、あるいはそれらが守る人物をも描写するようになったのでしょう。

石室の内部に死後の世界の絵を描いたのは、魔除けの他にも、生きている人に死後の世界について教育する役割があったのでしょうか。 亡くなった人は本物の死後の世界に行くのに、わざわざ墓にその絵を描くのは不思議だと思いました。

いい質問ですねえ。洞窟に神話世界や他界を描くことは、クロマニヨン人の段階から行われていますが、人類学や宗教学では、やはり他界との境界を意味しているのではないかとの意見が強いようです。つまり、古墳の石室に他界を描くのは、それを入り口にして本当に他界が開けることを促す、一種の呪術であるということです。冥界へ旅立つ絵が多く描かれるのも、それを具体的に絵にすることで、被葬者が無事に冥界へ到達できるようにする、これも呪術であるわけです。最も新しい形式の四神図も含めて、石室内の絵画は、あくまでも死者のためのものです。

プリント6ページの高井田3-6号墳石室壁の絵には、どういう意味があるのでしょうか。 / 装飾古墳の壁画には、筆のようなものではなく、壁を彫るようにして描いた線画はないのでしょうか?

大坂柏原市高井田横穴墓群は、6世紀中頃〜7世紀前半に造営された、160基に及ぶ横穴墓群です。凝灰岩の壁面に多様な線刻画が刻まれていますが、プリントに紹介したのは、船に乗って去ってゆく男性を、女性が手を振って見送っている図です。やはり、死者との別れ、死者の旅立ちを描いたものと考えられています。

死者の世界に往くには水を渡ってゆくのだ、という発想はどこから生じたのでしょうか。

確かに、これは普遍的に存在しますね。ひとつには、やはり人類史において、海や川が彼岸と此岸を隔てる象徴的な存在だったからだ、ということができるでしょう。広く深く、また流れの速い水場であれば、やはり人力で渡ってゆくのは困難である。つまり、容易には行き来できないものとしてあの世/この世を区分する場合、間に水場を設定するのが最も用意だったのだと考えられます。この場合水は非常に両義的な存在で、死霊を招き寄せるとの意味付けもあれば、死者は走水を渡れないとする伝承も各地に残っています。また、列島の装飾古墳に特化して考えれば、それが半島に由来する形式であること、海岸部から発生してくることに注意してみると、海の彼方に神霊の世界が存在するという海上他界観や、海の向こうの故地に対する感覚が反映されていることも想定されます。

現実の世界の武器などから発展した辟邪紋様から、死後の世界のイメージを伝える壁画へと変化した理由は何でしょうか。

石棺や石障を辟邪文様で覆い尽くすメンタリティーは、前期・中期の遺体に対する呪術的態度の延長と考えられます。竪穴式石室の密閉を、石棺レベルで再構成したようなものでしょう。これは、生者が自分たちのためにしたものです。死後の世界の具体的なイメージが描かれるようになるのは、上にも回答したように、死者が安らかに死後の世界へ到達できるよう、願いを込めたものと考えられます。つまりこちらは、生者が死者のために施したものです。契機は朝鮮半島から新たな喪葬様式が導入されたことによりますが、死者や死後の世界に対する感覚が、大きく変わり始めていたことが背景にあるのでしょう。古墳時代を通じて政治的な色彩の強かった古墳が、喪葬というものの原点へ回帰しつつあったのかもしれません。

死後の世界と関わりのある月が、漢詩の世界などで望郷を象徴するようになってゆくのはなぜだろうか。

面白い質問です。月は、死者の世界のものであるとともに、やはり再生の象徴です。ヒキガエルも兔も、それを明示しています。インドでも、死者は一定期間月に止まって、再び再生するとみなされた。日本でも、極楽浄土は月にあると、感覚的には捉えられていたようです。いわば、月は諸生命の原郷なのだということができるでしょう。一方で、「望郷」の「望」は、満月のこと。満月をみながら故郷を思うことが、「望」の字に込められていったのかもしれません。

横穴式石室に追葬されてゆくのは同族の人間と思いますが、それは、一般庶民も含まれているのですか?

これも授業でお話ししていることですが、古墳はあくまで首長墓です。古墳時代の一般庶民の墓については、遺構も少なく、よく分かっていません。縄文時代とあまり変わらない土坑墓か、あるいは遺棄葬の形で処理されていたと考えられています。直径2〜3メートルの不整形土坑700基ほどを持つ古墳前〜中期の大阪府長曽根遺跡、長辺1.2メートルほどの方形土坑約1500基を持つ古墳中期の奈良県池田遺跡などは、古墳時代の一般墓地と推測される希な遺構です。集落とは区切られた場所に土坑が掘られ、遺体の収められたことが知られますが、これらはむしろ丁重な葬法であって、遺体を決められた場所へ遺棄する、あるいは放置する遺棄葬の慣習のほうが一般的であったのではないか。遺構自体が少ないのもそのためではないか、と推測されているわけです。

古墳時代の死生観や祭祀、アニミズムを扱った本で、先生のおすすめのものはありますか?

同志社大学で教鞭を執られていた、考古学者の辰巳和弘さんが、上記のテーマについて一般書も含め刺激的な論考を書かれています。専門書としてはより精密な研究がほかにもありますが、入門編としては、『「黄泉国」の考古学』『他界へ翔る船』『古代をみる眼』などが魅力的でしょう。

地獄という概念は生まれたのはいつからでしょうか? / 古代ギリシャには、死者の国へ渡る船の船賃を埋葬したり、エジプトではアヌビスが審判したりといったことが確認できますが、日本の冥界ではどうだったのでしょうか。

地獄自体は、インドの冥界の概念が仏教に取り込まれ、次第に整備されて、7〜8世紀に日本列島へもたらされます。経典として決定的な影響を与えたのは『正法念処経』で、極楽や地獄の描写が豊富かつ詳細であり、これが源信著『往生要集』の原拠となって、平安時代浄土教流行の引き金となってゆくわけです。またそれより恐らくは先行して、仏教説話に描かれる地獄が列島にもたらされました。唐代に編纂された説話集、『冥報記』などが主な典拠です。これに影響された日本現存最古の説話集、『日本霊異記』には、道を通じて現実世界と地続きに連なる地獄が描かれています。そのなかには、地獄を仮に体験した高僧が、「ヨモツヘグイをしてはならない」と警告される場面もあり、『古事記』にみる黄泉国神話との習合もうかがえます。閻魔王による審判などもこうしたなかで次第に受容されてゆくので、地獄以前の「黄泉国」段階では見出すことができません。ただ、『古事記』のオホクニヌシ神話には、再び黄泉国的冥界である根国が登場、そこにはギリシャ神話のハデスのようにスサノヲが君臨しており、地上から降りてきたオホナムチへさまざまな試練を与え、最終的に地上の支配者へ鍛え上げてゆく「成長神話」が語られます。

古墳時代に馬がもたらされますが、馬車が入ってこなかったのはなぜでしょうか。 / 古墳時代に入ってきた馬は、日本原産の馬とはどう違うのでしょうか。 / 馬が一般にも身近な動物になったのはいつからでしょうか。

「日本原産」とされる馬は、古墳時代以降に根付いたものなので、「古墳時代に入ってきた馬」と「日本原産の馬」とは同じものを指します。現在、一般に「馬」と認識されるサラブレッドなどより二回りほど小さな体格のものです。古墳時代においては未だ貴重で、首長層と結びつき、その権威を象徴する存在でした。古墳の副葬品として馬具が多く出土するのは、馬自体が身分の高い人びとの乗り物であったからです。以降、古代国家などは各地に牧を設けてその繁殖に努め、中世以降、次第に庶民層でも、馬を労働力として使用できるようになってゆきます。馬車が日本に入ってこなかったのは、まず、地形が起伏に富み道自体が狭隘なため、車を利用できる場が都市周辺に限定されていたこと。また、軍事的色彩を強く持っていたことから、平時の乗り物もしくは運搬用として、車を牽くような形式では使用されなかったものと考えられます。ちなみに、牛車はすでに7世紀の段階で運搬用に使われており、藤原京造営にも使用されたことが考古学的に確認されています。牛は気性が穏やかで年少者でも扱うことができ、歩くスピードは遅いものの持久力に優れています。車を運用可能な都市周辺においては、平時では牛車の使用で充分だったのでしょう。

関東の古代豪族は出雲系であると本で読みましたが、それはなぜですか? 出雲から製鉄技術が関東に伝わったことが影響しているのでしょうか?

東国の古代豪族が出雲系かどうかは、一部の研究者の推測と、かなりロマン溢れる憶測なので、未だ充分議論に値する材料は存在しません。のちの仏教文化の動きにおいて、山陰から北陸、北関東というルートが確認されるので、例えばやはり出雲から北陸へ展開する四隅突出型墳丘墓の問題から、古墳時代の政治や文化の動きも出雲から東国へ及んでいるのではないか、ヤマト王権への対立軸が出雲から東国の古代豪族に存在するのではないか、という想像へ発展しているのです。

この時期に渡来した氏族で有名な氏族はありますか?

ヤマト王権で大きく活躍する渡来系の人びとは、主に5世紀後半から6世紀初めにかけて渡来しています。南北朝の動乱期に際して、中国から周辺諸国への亡命・移動が生じ、さらにその周辺へと人の波が及んできたものと考えられます。授業で強調しておくのを忘れてしまいましたが、倭王武の上表文に登場する司馬の曹達や、江田船山古墳大刀銘を撰した張安などは、明らかに渡来人です。また、渡来系氏族を代表する東漢氏、西文氏、秦氏なども、多くこの時期に渡来し、文書行政や殖産興業の面でヤマト王権の基礎を支えてゆきます。

三角縁神獣鏡の銘文が稚拙であるとの見解があるそうですが、なぜそう考えられているのですか? / 銘文は、皇帝が書いたものとは限らないのではないでしょうか? / 中国王朝が、倭や朝鮮に国王号や官職を与えるのはなぜなのでしょう。メリットがよく分かりません。 / 「倭」や「卑弥呼」といった用字は、中華思想に基づくものと思います。こうした見方は、現在の学説からして妥当でしょうか?

中華皇帝は、「文明を持たない」周辺の夷狄に「文明をもたらす」ことを使命としています。「野蛮人」を「中華」化してゆくこと、それが中華思想の根本なのです。周辺諸民族にあえてノンヒューマンな文字を当てはめてゆくことは、単に相手を茂しているのではなく、文明をもたらすお膳立てのために必要なのです。また、官職付与などには個々の局面における政治判断が作用しますが(倭の場合は朝鮮経営が常に問題となります。この時期は、南朝北朝と相対してゆくうえで、朝鮮の位置が政治的に重要になるのです)、大枠は通底しているといえるでしょう。三角縁神獣鏡が魏や晋からの下賜物とすれば、それは、中華王朝の文化の力を反映するものです。とくに、皇帝が文学を奨励した魏であれば、下賜物にもその威厳が反映されなければなりません。皇帝が実際に書いたかどうかは、問題ではないのです。国語学者の森博達さんによると、邪馬台国にもたらされた魏明帝の詔書は全体が韻文として整備されている荘重なものであったにもかかわらず、神獣鏡の銘文は押韻もなく美文として整えられていない。重要な批判で、こうしたことがきちんと説明されない限りは、三角縁神獣鏡を魏の下賜鏡として無条件に肯定するわけにはゆかないのです。

ヤマト王権は、中国や朝鮮から威信財を独占的に入手したとのことですが、独占的に得るには、中国側に何らかのメリットがなければありえないと思います。なぜ、中国や朝鮮は、ヤマト王権と独占的に外交したのでしょうか?

上でも触れていますが、例えば劉宋にとって倭の利用価値は、北朝に近接する朝鮮の経営を自分にとって都合のよい方向へ運ぶ、ということです。そのためには、倭に統一的権力があったほうが都合がいい。例えば北部の高句麗北朝に組みしたときに、南部の百済伽耶諸国、そして倭の兵を動員することで、高句麗に圧力をかけられるからです。朝鮮諸国も、倭において最も大きな勢力と同盟した方が、半島内の競合関係において優位に立てることになる。よって、ヤマト王権が諸勢力を抑えて外交を掌握することは、中国や半島にもメリットがあったといえるでしょう。しかし半島内において、ヤマト王権は最終的に百済を援助する方針を立て、高句麗新羅と敵対してゆきます。これは、半島南西に位置する百済が中国南朝とのパイプを握っていたからです。これによって例えば新羅は、九州の豪族層に働きかけ、ヤマト王権へ反乱を起こさせるなどの介入をしてくることになります。

中国王朝の権威は、なぜ日本列島内でも通じるのだろうか。技術なら、朝鮮も先進的だったのではないだろうか? / ヤマト王権が古墳にある鉄素材やその他鉄製品の輸入を朝鮮に依存していたとのことですが、なぜ中国ではなく朝鮮なのでしょう。技術の最先端は中国だと思うのですが?

邪馬台国卑弥呼と魏との関係でもみたように、この時代、朝鮮半島の情勢如何によって、倭と中国王朝とは直接的交渉が持てません。距離的にも大きく離れていますので、倭は、資源的にも技術的にも、朝鮮半島の南部に大きく依存する結果になっています。なお、東アジアの盟主は中国王朝ですので、他の回答でも触れましたが、そのことは半島との外交・交易を通じて次第に列島諸豪族へ浸透していったと考えられます。とくに半島に権益を獲得・保持しようとするのなら、倭にとっては実力のほか、半島諸国のうえに立つ権力と接近する必要があったのです。

伽耶諸国とヤマト王権が鉄と青銅器とを取引していたとのことですが、青銅器にそれほどの需要があったのでしょうか?

巴型銅器や筒型銅器は、倭の豪族たちが、自分たちの宝器として半島にもたらしたものと考えられます。鉄素材に対する直接的な交換品というより、協力関係を結んだ証のようなものだったのでしょう。実際の交換品は、米や塩、人などと想定されてきましたが、近年、韓国の古墳から、クスノキコウヤマキの木棺が出土しており注目されています。植生としてはあまり豊かではなく、アカマツなどが多い朝鮮半島では、いずれも自生していない樹木でした。これらは、半島の需要を埋める貴重な交易品だったと考えられます。

この当時、東北地方の情勢はどうだったのでしょう。別の王権が存在したなどということはないのでしょうか?

地域王権という云い方がありますが、各地において中小の豪族を結集した王に近い存在がいたことは確かだと思います。ただし、それらは古墳時代において、一応はヤマト王権のもとに服属していました。前方後円墳が築かれていたのが、その証拠です。東北にも、比較的早くから前方後円墳が出現しており、突出した豪族が存在したことは間違いありません。しかし一方で、のちに蝦夷と呼ばれることになる、狩猟採集を生業とする共同体社会(縄文時代のそれを継承するような性格のもの)が、広汎に活動もしていました。トンデモ本のなかには、彼らを「東北王朝」のように表現するものもありますが、そもそもが「王を頂点とするような社会の仕組み」に抵抗していた人びとですので、「王朝」という規定の仕方自体がナンセンスです。縄文以来の平準化された共同体社会が展開し、そのなかで狩猟採集生活を営む集団があった一方、稲作を通じて王を生み出し、ヤマト王権の後ろ盾を得るような集団も存在し、それらがせめぎあっていたのが当時の東北であったと考えることができるでしょう。

古代の遺跡で「たて」を漢字で書くとき、なぜ「縦」ではなく「竪」を使用するのでしょうか。

「縦」は水平面において横と対交する向きを意味するのに対し、「竪」は立体的に垂直する向きを表します。竪穴、竪琴など、いずれも水平面に立体的に直交しています。

連続三角文の三角は、何を表しているのでしょうか? / 朱色が魔除けとすれば、青色は何を表しているのでしょうか?

辟邪の紋様が具体的に何を表すかについては、残念ながら解明されていません。そもそも意味自体がないとも考えられますし、書き方によって意味が異なる可能性も想定されます。個人的な憶測を書いてよければ、太陽の表象とみられる鏡の紋様化に、円の周辺を連続三角文が取り巻いているものがありますので、光線の記号化、すなわちエネルギーの放出されている状態を表している、と考えることは可能でしょう。同じ辟邪の紋様である蕨手文も、もし水の湧出状態の記号化と捉えてよければ、やはりエネルギーの放出を意味することになります。巨大なエネルギーのありようを示すことで、邪気を斥ける意図があったのではないか、と、とりあえずは推測しておきたいと思います。なお、青色顔料が何を意味するかは、やはりよく分かりません。珍敷塚古墳の石障壁画からすると、赤とデザイン的に対応させつつ空間を埋めるもののようですが、王塚古墳では夜の闇も朱色で表されていますので、必ずしも闇を意味するものではない。あくまで、赤や黄色との対応関係のなかで使用され、個別の意味を持たないものではないでしょうか。

倭の五王が、ひとつの血縁関係にあるとみせかけようとしたのはなぜでしょうか?

王位の継承に、中国的な父系原理を採用しているとみせることが、倭が文明国であると標榜することとイコールだったのでしょう。上表文が東アジアの外交文書の形式をしっかりと踏襲していることは、文中にも名前のある曹達ら、背後に渡来人の活躍があったことが想定されますが、この点も彼らの献策によるものかもしれません。ただし、『宋書』に珍と済の続柄が記されていない点からすると、宋は倭の内実をよく知っていたのではないかと思われます。

たびたび出てくる威信財ですが、これ以降の時代にも、威信財に相当するモノ・コトはあるのでしょうか?

威信財的なものは、モノでもコトでも通時代的に存在すると思います。古代では、例えば平安時代の唐物など、価値の高い舶来の物品が挙げられます。一般には、菅原道真の建議によって遣唐使が廃止され、前代の唐風文化に対して列島固有の国風文化が醸成されるといわれます。しかし実際は、遣唐使は途絶しただけで廃止の議論など行われておらず、そればかりか唐物の輸入は民間交易によって続けられ、朝廷は唐物使などを派遣して、北九州の豪族たちより早くにそれを獲得する制度を構築してゆきました。獲得された唐物は、天皇家摂関家を中心に権力者層で分有され、その結束維持や階層的卓越化に用いられたと考えられています。

どうして鳥が太陽と結びつけられたのでしょうか?

太陽が10個あり、それが代わる代わる天に昇るという考え方は、すでに中国殷王朝の時代に存在したことが、甲骨卜辞によって確認できます。どうやらそれを鳥が媒介したらしいことは、同時代の蜀の三星堆遺跡から出土している青銅神樹(扶桑のようなもの)に、10個の太陽を運ぶ鳥が造型されていることから、やはり紀元前から存在した考え方であったことが分かります。天空に飛翔する鳥が、天と人を媒介する存在と考えられたことから、太陽の運行に鳥が関わっていると想像されたのでしょう。太陽もエネルギーの塊ですから、これまで勉強した稲魂をもたらす穂落神、人間の霊魂を冥界へ運ぶ鳥と、基本的には同じ概念であると思われます。

九州の棺のない古墳は、なぜそのような構造をしているのでしょうか?

これも、なぜ、という問いに対する回答は、なかなかしづらい情況です。こうした構造の石室を中心的に研究してきた和田省吾さんは、遺体を載せる台を屍床と名付け、これを持つ北部九州型の石室を「開かれた棺」、木棺や石棺を持ち遺体を密閉する形式の畿内型の石室を「閉じられた棺」と呼んでいます。屍床を持つ北部九州型の石室は、やがて天井がドーム状に整備されてゆき、全体が死者の住居のように構築されてゆきます。もともとは、やはり地下墓室を死者の住居とする中国、朝鮮の形式に由来するものと考えられます。すると遺体が棺に入っていないのは、石室が死者の生活空間であるためで、そもそも遺体を納める密閉された函自体がナンセンスなのだ、ということなのでしょう。

威信財がモノからコトへ変化してゆくのは、中国の影響力の高まり、そしてその影響力への日本国内における共通認識が、もはや物的証拠を用いずとも充分であるほど浸透していたということでしょうか。

少なくとも、ヤマト王権に結集していた諸豪族の間ではそうであった、ということでしょう。弥生時代は、北九州や山陰地域が突出したグローバル・エリートでしたが、古墳時代を通じて鉄資源の追求と配付がなされ、武器や武具が前方後円墳体制を下支えしたことで、朝鮮半島や中華王朝への認識は極めて発展したと考えられます。倭王武の前後には、実際の倭の兵が半島へ渡り、戦闘を繰り広げていますので(「高句麗好太王碑」によっても確認できます)、その派兵に加わった諸豪族には、差し迫った危機感、緊張感も存在したと考えられます。

府官制について、官職は朝貢国の希望どおりに授けられたのでしょうか?

プリントに挙げた『宋書』の倭王武の上表文をみていただいても分かるのですが、必ずしも希望通りには授与されていません。宋の目的としては、倭と朝鮮三国を競合させることで、半島の経営を自国に有利に進めたいと考えていたと思われます。そうした政治的意図に基づいて、いかなる官職を与えるかを判断しているようです。

東西南北に四神が描かれている壁画ではキトラ古墳のそれが有名ですが、それ以前にこれらを描いた遺跡はあるのでしょうか。また、なぜ他の動物ではなく、これらの動物が描かれたのでしょうか。

四神は中国で作られた方角の守護神で、宅地や都城、墳墓などを造営する際に意識されます。もともとは天文に関わりのあるもので、天の赤道に沿って作られた星座「二十八宿」を、東西南北の四方で7つずつにグルーピングしたとき、それぞれを天の四方を守る神獣に喩えたものです。日本列島の古墳に直接影響を与えた中国東北部の魏晋墓、朝鮮半島北部の高句麗墓では、5〜6世紀に四神像が多く描かれるようになります。キトラ古墳の壁画の制作には、この高句麗の技術者が携わったと考えられています。