日本史概説 I(16春)
あれだけの規模のものですので、やはり縁辺部については、充分に開発されていなかったと思われます。条坊制が敷かれ、石敷道路が通っていたとしても、縁辺部については外部との連続性も高かったと思われます。外部にはそのまま農耕地が広がっており、日本の…
中国の都城形式=条坊制が碁盤目状なのは、条里制と同じく、土地の面積を計算しやすくするためです。京内の土地は、儒教の礼の秩序に応じて、原則的に身分の高い者ほど宮殿に近い場所へ広く、身分の低いものほど南側へ狭く班給されます。一区画の分割、班給…
藤原京には、縦横無尽に水路が走っていました。これは平城京や平安京なども同様で、貴族邸宅からの排水にも使用されていました。しかし、藤原京造営地はもともと低湿地で水はけが悪く、水路も詰まりやすかったと考えられます。当時の人々は、水路に牛や馬の…
すでに飛鳥寺造営の際に瓦は生産され、以降主に寺院に葺く目的で、各地に瓦窯や工房が作成されています。藤原京の場合も、奈良盆地周縁部の山際に複数の瓦窯があり、そこから常時供給されていました。
雄略大王以降次第に整備された中央集権体制のなかで、中央へ貢納される物品も次第に増加していたと思われます。また、壬申の乱が戸籍制度に基づく徴兵によって戦われたように、藤原京造営の役民も、戸籍に基づき差発されたと考えられます。藤原京は纒向など…
恐らく、歴代大王の埋葬された陵墓について、何らかの口承記録は存在したと思われます。大王の宮があった付近で、ある程度の規模を持つ前方後円墳を、順次設定していったものでしょう。しかし、大王の系譜自体が『古事記』『日本書紀』に至って述作されたも…
歌とは本来書かれるものではなく、詠まれるもの、歌われるもの、口承の世界の文芸であったわけです。ゆえに、識字率は大きく関係しません。偉人のことを○○ノミコトなどといいますが、このミコトは「御言」で、その人物から発せられる言葉を指すわけです。い…
古墳時代においても、祖先の宗教的権威に支えられた地域首長は、一種神的なものと捉えられていたはずので、我々が現在考えるほどの違和感はなかったかもしれません。ただし、それらは「亡くなったものを神と同義にみる」ことが主流だったと思われますので、…
やはり、強靱な中央集権体制を構築する必要があったということでしょう。また、それが直接的戦闘を最小限にして、諸地域の豪族たちを支配下に置く方法であったといえるかもしれません。少なくとも古墳時代以降、各地の首長は、古墳被葬者に代表される神的存…
恐らくは、弥生時代以来構築されてきた、政治的・社会的・文化的な、地域のまとまりが根底にあります。そのうえで、大小の国造の支配領域に応じ、大きなものを国として把握、小さなものは郡として把握し、さらにその幾つかを束ねて国としたのでしょう。里は…
氏族でいえば、百済王(クダラノコニキシ)氏です。これは、亡命王族である余禅広が持統天皇より与えられ、改姓したもので、奈良時代に大きく発展しました。749年、陸奥守在任時に大仏に鍍金するための黄金を奉った、百済王敬福などが有名です。中国皇帝も、…
やはり、隋、唐と続く統一王朝の成立が大きいでしょうね。朝鮮諸国も府官制に依拠しながら競合国との関係を少しでも優位にするよう腐心してきたわけで、南北朝期は主に南朝の制度に大きく依拠していた。また、北朝の諸国からも、文物や、ときには亡命者など…
統一事業の繰り返しのなかで、当然全勢力を傾けるには至らなかったし、また傾ける方針もなかったというのがひとつ。こうした戦闘は在地の側に土地に精通した利があり、多く侵略する側にとって不利になるという点がひとつでしょうか。前者について補説してお…
確かに、明治維新は古代への復古をスローガンに行われ、天皇の親政、そうして当初は律令太政官制をも復活させてゆきました。具体的な先例としては、時代や社会情況が違いすぎるので役に立たなかったでしょうが、明治維新自体が明らかなクーデターであったこ…
新羅は唐の勢力を排除して朝鮮半島を統一した後、クッションとなる高句麗や百済が滅亡した結果、直接唐と領土を接することになりました。そうした状態にあって、後輩に敵国を抱えているのは適切ではない。一方の倭も、大陸情報がまったく摂取できなければ、…
城の歴史のなかでは、安土城以降の天守閣をもつ形状こそが特殊で、本来は要塞的な施設です。平地に柵や土塁・濠を築いて防御の拠点としたり、天然の要害である山の上に築く場合もありました。
蘇我氏の勢力は非常に大きく、内政や外交をめぐるノウハウ、ネットワークも大きく、王権を支える力を持っていたことは間違いありません。乙巳の変のクーデターの際にも、中大兄や中臣鎌足が攻撃したのは本宗家のみであり、本宗家に次ぐ実力を持っていた蘇我…
非常に大きな損害があったと思います。とくに白村江の戦いのそれは大きかったでしょう。プリントには、倭軍が西日本各地で兵力を徴集しながら九州へ移動し、海を渡ったことが分かる表を付けておきましたが、造船も瀬戸内周辺で行っているはずなので、西日本…
日本の中華思想的方位観においては、西は中華王朝、さらには西域、天竺と規定付けられており、仏教をはじめとする高度な文化の起源でした。一方ヨーロッパの文化は、東シナ海の交易を通じて南方から入ってくるものであり、文明の一等的位置づけであった中華…
そうですね、しかしそのあたりのことは、『日本書紀』に明記されていません。同書の記述によると、大海人一行は6/24に吉野宮を脱出し、昼夜兼行で翌日には伊賀の東端、鈴鹿付近に到達しています。その途上、交通・伝達の施設である隠駅家、伊賀駅家を焼いて…
中華王朝と冊封関係にあった諸国も、基本的には政治的利害を重視して結びついていましたので、皇帝と王個人が信義に基づく人間的結びつきをなしていた事例は、ほとんどなかったと思われます。朝鮮三国も、新羅が典型的ですが、唐に随従しつつ、虎視眈々と半…
「評」については、高句麗や新羅で、同様の行政区画が存在したことが分かっています。コホリは古代朝鮮語で大きな村落を指す、との説もあります。以前に紹介した氏族制に基づく奉仕の仕組み「人制」も、朝鮮半島に起源を持つことが判明しており、6世紀にお…
事実です。例えば『日本書紀』には、朝鮮との外交関係記事の主要史料として、『百済記』『百済新撰』『百済本記』のいわゆる百済三書が引用されています。これは、もともと百済で編纂された原記録をもとに、亡命百済人が、『書紀』の史料として新たに編纂し…
確かに、細かな部分では社会慣習、文化のあり方の相違は存在したはずですが、それは日本列島における東側、西側の相違と同程度であったと思われます。古代の日本へ影響を与えたのは百済の文化だけではなく、高句麗や新羅からも多くの渡来人があって、さまざ…
「大夫」は、中国で政治に参与した貴族層を表すのに用いたのが始まりで、ヤマト王権の表記もそれに乗っ取っており、マエツギミと訓読みします。これは古代・中世を通じ、政治・社会・経済において高位に立つ人物の称号のようになってゆき、近世には、神道系…
このあたり、『日本書紀』に書かれていることを信用するなら、やはり大海人の人望と実力が支配層のなかで無視できず、彼のもとへ近江朝廷に対する反対勢力が結集するのを避けたいと考えたということでしょう。しかし、『日本書紀』の編纂を開始したそもそも…
講義でお話ししたとおりですが、キーワードは「小帝国」です。すなわち、隋や唐のような中華帝国の文明を小規模なレベルで実現した国家です。そのために中央集権を整備し、律令・都城・国史・貨幣などを整備したわけです。そうした文明のありようによって、…
『万葉集』や『懐風藻』には、大友が立太子していたという記述はありますが、即位していたという記録はありません。明治の追諡はその継承権を正統的と認め、現在の皇統の祖先に加えるために行われたものでしょう。『万葉集』や『懐風藻』という文芸は、近江…
全人民というより、公民が対象です。すなわち、蝦夷や隼人などは除かれます。これは中華王朝でもそうですが、基本的に夷狄とされた人々は課税の対象にはならず、ゆえに戸籍にも記録されませんでした。庚午年籍については、その作成期間、作成過程など、詳し…
NHKの歴史ドキュメンタリーは、根拠のない映像を流すこともよくありますので、やはり注意が必要ですね。白村江の戦いの際に唐がつぎ込んだ軍船は170艘ほどであったと、『日本書紀』にあります。このあたりの記録は、百済で作成されたものに依拠していますの…