日本史概説 I(16春)

現代ではカラスによい印象を持っているとは思えないが、奈良時代にやたらとカラスが出てくるのは、水田の形態が変わったなどの意味があったのだろうか。

カラスは古代において、必ずしもマイナスの印象のみを持つ存在ではありませんでした。熊野社や厳島社をはじめ、烏を神使と定めている神社もあります。『古事記』や『日本書紀』では、熊野で遭難した神武天皇を導く存在として、八咫烏が登場します。しかしこ…

稗田阿礼の性別が、男性説だったり女性説だったりするのはなぜですか。舎人は男性ではないのですか。

稗田阿礼については、偽作説のある『古事記』序文しか史料がなく、その詳細は判明していません。しかし序文に則していうならば男性であり、女性説は、稗田氏を輩出した猿女君の性格に基づく推測、ということになります。猿女君は、中臣や忌部らとともに王権…

『古事記』は本文のみであるのに対し、なぜ『日本書紀』は一書、一書に分けて書かれたのですか。また、なぜ卑弥呼は両方の歴史書に登場しないのですか。

授業でもお話ししましたが、『古事記』は内廷的な書物であり、『日本書紀』は国家の正式な歴史書です。前者は宮廷社会においてのみ読まれていたと思われ、平安時代に至るまで記録は存在せず、その当初も『書紀』を読むための参考書と位置づけられていました…

律令国家が誕生し、中国などの隣国に宣言する際に、なぜ「小帝国」で踏みとどまったのか。また、唐の長安城を模倣して宮都を造営したことは、冊封/被冊封には当たらないのか?

まず誤解のないよう正確にいうと、「小帝国」は、当時の律令国家が使用した言葉ではなく、研究者がそのあり方を規定して述べたものです。当時の日本には、目の前に唐と新羅という大国があり、現実に数十年前には、この二国によって存亡の危機に瀕している。…

当時施行した条里制について、まだ理解できないので、詳しく説明してください。

大地を碁盤目状に均等に区画し、水田を配置してゆく制度です。東西区画が条、南北区画が里で、都市における条坊制(碁盤目状の区画に宅地を配置するもの)と同じ構造を持っています。それまでの列島には、地形に合わせて不定型に配置された水田しか存在しま…

アンチモンですが、伊予より原材料を中央へ納めるより、地方で加工して銭にして納めた方が楽だったのではないかと思うのですが? / 当時はどのようにして金属鉱を見分けていたのでしょうか。

貨幣鋳造においては、実は未だ不明の点が多いのですが、和同開珎の生産に関しては、中央の催鋳銭司と河内などに置かれた鋳銭司の連携のなかで行われたようです。貨幣は権力の象徴でもあり、直接経済に関係してくるものであったため、偽金=私鋳銭は厳しく取…

大宝遣唐使は刀を授けられたそうですが、これは「日本」の軍国的立場からの国際社会への主張と考えてよいのでしょうか。

確かに、将軍にも節刀が授けられます。しかしここは軍国的というより、天皇の権限の分有を粟田真人に許した、すなわち遠国に赴き重要な外交交渉をせねばならない彼に全面的信頼を置き、天皇の代理として外交権を委託したのだと考えた方がいいでしょう。

最初の遣唐使は、中国皇帝からどのような待遇を受けたのでしょうか。

大宝の遣唐使ですね。唐の正史『旧唐書』列伝/東夷/日本国に、「長安三年、其の大臣朝臣真人来りて方物を貢ず。朝臣真人は、猶ほ中国の戸部尚書のごとし。冠を徳冠に進め、其の頂に花を為し、分けて四散せしむ。身に紫袍を服し、帛を以て腰帯と為す。真人…

チョウヨウノジョとは、どのような漢字で書くのですか?

「長幼の序」ですね。年齢の高いものほど尊いという順序です。

行基らは、何によって生計を立てていたのでしょう。当時から、すでにお布施などは存在していたのでしょうか。

布施は、現在は僧侶の宗教行為に対する料金のように考えられていますが、本来は修行のひとつで、モノへの執着を断つ行為です。ゆえに、仏教の始まりから存在しました。行基集団は、その活動を展開してゆくために、集団に帰属する僧侶たちの出身氏族による援…

仏教の僧侶は、なぜ治水や灌漑の知識・技術を持っていたのですか。

当時、仏教は総合科学でした。仏教の思想は、まず世界をどのように捉えるか、世界を把握する人間の仕組みをどのように捉えるか深く考察してゆきますので、経典の内容は、哲学的なもの、論理学的なもの、化学や物理学、地学や生物学に属するもの、認識論や心…

仏教が伝来して間もない蘇我馬子の頃などには、民間へ布教する僧侶はいなかったのでしょうか。

行基のような活動の先達として位置づけられるのは、彼の師であるともいわれる道昭です。彼は唐に渡り、『西遊記』で有名な玄奘三蔵の教えを受け、玄奘が天竺から持ち帰り新訳した経典を、日本へ初めて持ち帰りました。『続日本紀』にその卒伝(死亡記事に付…

皇后は皇族からしか出ないと思っていたのですが、一臣下でしかない不比等が、娘の宮子や光明子を天皇に嫁がせることができたのはなぜですか。 / 不比等が権力を持ちえたのは、文武に宮子を嫁がせることができたからですか?

不比等が権力を掌握する過程については、実は分かっていないことが多いのです。奈良時代中期に藤原仲麻呂が編纂した『藤氏家伝』には、大織冠伝(鎌足伝)・貞慧伝・武智麻呂伝が収録されているのですが、不比等伝は欠けています。本来は存在したのか、いや…

友情、愛情などの感性、心性の変質は、どのような史料から分かるのでしょうか。 / 現在のような「友」のいない人間関係が想像できません。

『万葉集』や『懐風藻』などから読み解くことができます。例えば『懐風藻』には、漢詩を収める人物の簡単な伝記が収められていますが、友情が成立する当時の重要な記録がみてとれます。それは、天智の皇子であった川島皇子に関する記事で、彼は大津皇子の親…

王の力が衰えたのはいつ頃からでしょうか。

平安時代、摂関政治が展開してゆく過程は、天皇親政のさまざまな大権を、貴族側が掣肘し、奪い取ってゆく過程であったともいえます。藤原良房や基経の太政大臣就任時、その実質的な職務が確認され、摂政や関白が成立してゆきますが、それなどはまさに、王権…

なぜ人間は、血筋や血統を重視するのでしょうか。

大きな問題です。まず生物学的にいえば、大脳新皮質の拡大によって高度な抽象能力を手に入れ、過去と未来を想像する時間概念を発展させたからでしょうね。そのなかで、自分に繋がる人々=祖先、自分が繋がってゆく人々=未来を構想することができるようにな…

草壁と元明が婚姻してのち、天武系/天智系の婚姻はありませんが、両者の合体は意図的に避けられていたのですか。

天智系・天武系の合体者を、というより、合体者である草壁の子孫を据える、というのが既定路線だったのです。しかもこの路線を構築する上で功績のあったのが藤原不比等でしたので、聖武天皇以降は藤原氏の妃から生まれた皇子が、後継者として重視されるよう…

近親婚は、古代では世界でも一般的だったのですか。

普遍的にみられることも確かですが、タブー視されていたことも確かです。タブー視されていたのは、別段劣性遺伝を経験的に知っていたということではなく、女性を交換するためだったというのが人類学の定説です。すなわち、かつて移動生活にあった人類は、そ…

儒教や仏教が日本人の精神を規定していたのは確かでしょうが、私はもっと根本的なところでは、神道に根ざしているのではないかと思いました。

そういう気持ちは分かります。しかしこれも授業で触れていることですが、神道は中世に作られるもので、古代においては存在しません。古代では、地域地域に根ざしたアニミズム的信仰を中央が把握する形で、次第に明確化・体系化が進んでゆきますが、「道」で…

儒教と仏教は具体的にどのような違いがあるのか。また、仏教は現在でもよく聞くが、儒教のことを聞かないのはなぜなのか。

儒教は、現実社会を君主を頂点とするピラミッド構造として安定させるため、それぞれの階層を構成する君主、士大夫、庶民らの実践すべき倫理、行動を説いたもの。仏教は、現実の世界を永遠の苦しみと捉え、そこから解脱するための方法を説いたものです。仏教…

「不改常典」は、具体的にどのような内容だったのでしょうか。いまも存在するのですか。

授業でも何度か触れましたが、これは内容が分からないものなのです。学界では多くの議論があり、天智が最後に大友皇子に譲位をしようとしていたところから「中国的な父系直系継承」を意味するとするもの、あるいは中大兄が蘇我本宗家を滅ぼし大王への権力集…

女性皇太子は阿倍内親王が初めてだったとのことだが、なぜこれまで女帝はいたのに、女性皇太子はいなかったのか。 / 女性が天皇になるときには、どのような理由があったのでしょう。持統が即位した理由が気になります。 / 日本で女帝が少ないのはなぜですか、中国でも同じだったのですか。

授業でも話をしましたが、これまでの女帝は、概ね大王の大妃、天皇の皇后だったのです。推古大王は敏達大王の妃、皇極大王は舒明大王の妃、持統天皇は天武天皇の皇后、元明天皇は草壁皇子の妃です。元正のみ未婚ですが、大王が頓死してしまう情況のなかで、…

「史」という名前が文章を書く能力に優れた人に与えられるとのことですが、例えば「紀貫之」の「紀」なども意味があると聞いたことがあります。「紀」はどういった人に与えられたのでしょうか?

「史」は、もともと名前というより、姓=カバネなのです。すなわち、その氏族の王権との関係、王権に対する奉仕の内容を示したものです。田辺史は、氏名ではなく、田辺=ウヂ名、史=カバネの構成です。すなわち、王権に文書の執筆・編纂などの職掌で奉仕し…

養老律令について、明治期に効力の停止、廃止など宣言されたことがあったのでしょうか。

そうした法令は出ていないと思います。実際に王政復古がなった明治でも、養老律令を参照しつつ、(当たり前のことですが)それとは異なる形での国政作り、国家運営がなされました。この時点で、養老律令はほぼ空文化していたといえます。その後、大日本帝国…

大宝律令は古文書で書かれているのでしょうか?

ちょっとどう答えていいか分からないのですが、現在律令は単独の写本で残ってはおらず、平安時代に編纂された注釈書である『令義解』『令集解』の形で読むことができます。とくに『令集解』は、養老令の私的注釈書をまとめたものですが、奈良時代に書かれた…

奈良時代は、天智・天武の血縁の合体者が即位してゆくとのことですが、淳仁は天武の血統だったのではありませんか?

大炊王は、やはり藤原仲麻呂が自らの政権の安定化、自らの家の卓越化のために立てた特別な天皇である、ということができるでしょう。草壁皇統の人物としては、孝謙太上天皇が依然として大きな力を持っており、淳仁はその承認のうえで権力を発揮しえていた。…

「食国」をオスクニと読むといっていましたが、なぜわかるのですか?

奈良時代に書かれた『古事記』や『日本書紀』『風土記』、『万葉集』、国家祭祀の祝詞などに、「食国」の言葉をみることができますが、それらに確認される万葉仮名や、平安時代以降に古訓が付けられた写本を分析してゆくことによって、読み方が判明するので…

条里制や条坊制など、古代において、どのような道具をもって設計、造営が行われたのでしょうか。

もちろん、現在のような巨大な機械はありませんので、鉄製農耕具、木製農耕具を用いた役民が多数ことに当たり、せいぜい運搬手段としての牛が車とともに用いられた程度です。牛の使用は考古学的に、車の使用は史料的に確認されており、それらが往還しやすい…

日本は、なぜ唐と直接的にコンタクトせず、新羅を媒介したのだろうか。 / 新羅が中国の都城について、倭へ正確な情報を流さなかったのはなぜでしょうか。

やはり、朝鮮半島を経ずに東シナ海を航海し、直接唐へ赴くのは困難であったようです。玄界灘を宗像を経て朝鮮半島へ渡るか、あるいは壱岐・対馬を経て渡り、半島沿いに大陸へ及ぶのが最も安全な航路だったのでしょう。なお新羅が倭への情報を取捨選択してい…

藤原京の造営に用いた木材を、筏に組んで運搬したとのことですが、なぜそんなことが分かったのでしょう。

『万葉集』巻1-50の、「藤原宮の役民の作る歌」に、「石走る 近江の国の 衣手の 田上山の 真木さく 桧のつまでを もののふの 八十宇治川に 玉藻なす 浮かべ流せれ 其を取ると 騒く御民も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮き居て 我が作る 日の御門に……