2012-07-01から1ヶ月間の記事一覧

遅ればせながら、このブログでもレポート課題の告知を行っておきます。また、評価のポイントについても載せておきましたので、執筆の際の参考にしてください。

【テーマ】史学科生)自分が重要と思う任意のアクチュアルな問題を設定し、講義で紹介してきた歴史学的な批判方法を用いて考察し、一定の結論を導き出しなさい。非史学科生)講義で扱ったトピックを任意に選んでテーマを設定し、調査・考察して、自分なりの…

遅ればせながら、このブログでもレポート課題の告知を行っておきます。また、評価のポイントについても載せておきましたので、執筆の際の参考にしてください。

【テーマ】 講義で扱ったトピックを任意に選んでテーマを設定し、調査・考察して、自分なりの結論を導き出しなさい。※ 自分なりの問題観心を持つこと、文献は批判的に読み込むこと、事実/見解を区別すること、他人の見解/自分の見解を区別すること、起承転…

那須国造碑は、なぜ年号に唐のそれを用いているのでしょうか。 / 那須国造碑は、付近にある侍塚古墳と関係がありますか。

那須国造碑は、授業で紹介しなかった後半の韋提の生涯を綴った部分は、対句調の四六駢儷体で書かれています。すなわち漢文の美文調で、唐太宗の「金鏡」、高宗の「大唐三蔵聖教序記」から字句を撰んでいることが判明しています。中国文化に準拠することで自…

蝦夷の人々は、ヤマト王権に制圧される以前に、他の国々と関わったりしていないのでしょうか。また、アイヌの人々の存在を、当時の朝廷は認識していたのでしょうか。

北方の民族とは様々に交流、交易していた可能性があります。ただし、この時点では東北・北海道の地域社会も幾つかに分裂しており、統一的王権の形で外交するという段階には達していません。『書紀』斉明天皇4年(658)是歳条には、「越国守阿部引田臣比羅夫…

日本は唐から律令制を輸入しましたが、官僚登用制度である科挙は導入したのでしょうか?

過去に一度回答したことがあります。下記を参照してください。http://d.hatena.ne.jp/hojo_lec/20100719/1279530874

平安時代の貴族は、男性が求婚したり離婚したりするときに主導権を持っていたと古典で習ったのですが、この当時はどうだったのでしょう。財物に関する取り決めができるほど離婚が多かったのですか?

平安時代には男性優位の性愛関係が構築されており、例えば性交渉を持つ場合も、女性の側から積極的に、というあり方は好ましくないものと考えられるようになっていました。しかし奈良時代以前には、女性の側にもそうした行動が認められていたのです。『書紀…

薄葬令など風俗改正の詔について、文字を読めるわけでもない民衆に、どのように命令を遵守されたのでしょうか。口頭だとしても、すぐ忘れるのではないでしょうか。

律令体制下においては、国家の重要な命令は、末端の里長が口頭で伝達することになっていました。これは、各村落共同体の統治の仕組みを利用したものです。いくら古代社会といっても無秩序な社会ではなく、村には村の慣習法、固有法が存在し、首長によって統…

国郡制は、中国の郡県制を模したものでしょうか。 / 国造のクニを評に改め、評家を建てて公民支配の要にしたとのことですが、もともと国造に任命されていた人が、そのまま郡司に補任されたのでしょうか。

基本的には、世襲の委任統治である国造制を廃し、中央派遣の国司を頂上に置く行政機構を設置したので、郡県制に近いものです。しかし、国の下部単位である郡=評には、もとの国造ら在地豪族を任用するなどしたので、中央集権支配の枠組みを地方の在地的文脈…

乙巳の変で実働部隊を務めた「犬飼」の一族と、5.15事件で殺された犬養毅とは関係があるのでしょうか。

少々難しいですが、直接的関係はないようです。犬飼の系列は、授業でお話ししたように、供御の狩猟や屯倉・宮殿の警備のために犬を飼育・活用した氏族です。後に橘氏を生じる県犬養氏などは、神魂命8世孫阿居太都命を祖神とすると伝えています。しかし犬養…

入鹿の殺害後に、中大兄は蝦夷の殺害まで考えていたのでしょうか。

恐らくクーデター勢力は蘇我の本宗家を滅ぼすことを計画していたので、蝦夷についても当然滅ぼすつもりでいたでしょう。とくに蝦夷の邸宅は、飛鳥板葺宮と向かい合う甘樫丘に建てられていましたので、彼が勢力を糾合する前に決着をつけたかったはずです。入…

乙巳の変の実行の舞台は偽の三韓進調の場であったとされていますが、入鹿ほどの権力者を抜きにそうした場を設定できるものでしょうか。

私もそう思います。崇峻暗殺のときと同様、これは『書紀』の演出である可能性がありますね。中大兄と鎌足の出会いの場は、大王への服属儀礼が実施された飛鳥寺西の斎槻の下でしたし、三韓進調も同一の意味を持った儀式です。あえて服属や忠誠を意味する舞台…

斎槻はそもそも宮廷に植わっていたのですか。それとも、神聖なものなので後から植えたのでしょうか。

斎槻の広場は、飛鳥に宮が重層化する以前から存在した可能性があります。『日本書紀』には、飛鳥寺を建てる際に、飛鳥の衣縫造の祖「樹葉」の家宅を破壊したと記されています。名前から考えても、この「樹葉」が飛鳥の樹木信仰の中心であり、その信仰の中心…

『書紀』の乙巳の変の記事に登場している「俳優」は、歌舞をするだけでなく、何か政治的な役割を担っているのでしょうか。 / ドラマ『大化改新』で俳優が被っていたお面は、ペルシャっぽい雰囲気でしたがどこのものですか?

当時の宮廷において演じられた歌舞には、大別して在来系と外来系のものがありました。後の律令制雅楽寮において規定された演目をみてみると、前者は国土統一の物語りを基礎とする集団演舞で、神武東征や蝦夷征討などと関連する久米舞、朝鮮半島の経略などと…

乙巳の変に関する『書紀』の記述には、典拠となるような史料は発見されていないのでしょうか? / 『書紀』の乙巳の変に関する描写の細やかさが、中国の『史記』の荊訶による始皇帝暗殺部分の細やかさに似ている気がした。鴻門の会の部分にも、演劇性における共通項を見出せないこともない。何か影響を受けているのでしょうか?

古代中国には、「偶語」と呼ばれる宮廷演劇があり、中国史の野間文史氏などは、例えば『春秋左氏伝』の説話的部分の典拠として演劇の媒介があったことを想定しています。『史記』が依拠した史料群のうち、「その場でみてきたような」事件に関する記録は、や…

『日本書紀』は、中国にみせるために編年体で書かれているんですよね? 偽装ばっかりの歴史を中国は受け容れたのでしょうか。そもそも本当に『書紀』を中国にみせたのでしょうか?

舶載していった可能性はありますが、結局はみせていないでしょう。当然、『書紀』を撰した編纂官たちは、その限界を熟知していたと思われます。ただし、後世に至るまで『書紀』の正史としての地位は揺るがず、幾度か講義もされていますので、例えば新羅や渤…

先生はお坊さんですよね? こんな風にいろんな宗教のいろんな思想を考えていて、仏教の信仰が薄れるというか、信仰心に変化があったりしますか?

いえ、別にそういうことはありません。むしろ、自分の信仰について、ますます視野が深まっていっています。

最近話題になっている大津のいじめ自殺の問題で、学校や加害者を批判している人たちも、死者を自己同一化していると考えることができる気がしますが、先生はどうお考えになりますか?

「死者の無念を晴らせ」ということでしょうね。いじめについて、生徒も教員も現場を確認していながらなぜ隠蔽されてしまったのか、その原因、現状の問題点を解明し、今後犠牲者を出してゆかないよう改善を図ってゆくことは、悪いことではないでしょう。注意…

「見るなの禁」。なぜ「見る」ことがタブーとして作られる話が多いのでしょうか。視覚が、何か特別な意味を持っていたのでしょうか。

前近代においては、現在以上に五感を研ぎ澄ませた認識が行われていましたが、やはりそのなかでも、「みる」ことは特権的な地位を与えられていたようです。「みる」ことが世界を創り出す。ゆえに、みる/みられることによって、不用意に相手に影響を与える/…

講義のなかで〈鎮魂〉というキーワードが出てきましたが、魂を鎮めるための音楽というのは、歴史のなか、世界のなかにおいてどのようにみられるものなのでしょうか。西洋でいえば教会などでの鎮魂歌が想像されますが、そうした死者を取り巻く音の世界・音的環境というのは、伝統的な東アジア世界のなかではどのような変遷を経てきたのでしょう。

音階や旋律まで詳細に検討してみたわけではありませんが、例えばキリスト教や仏教など、体系化された巨大宗教においては、次第にレクイエムは荘重なもの、いいかえれば抑圧的な音感へ定式化してくるように思われます。それに対して民間のもの、例えば中国少…

死者の扱いは、各国間においてもやはり大きな相違が出てくるのでしょうか? それはその国の倫理観を示すことになるのでしょうか。

この狭い日本列島においても、各地域でさまざまな葬儀の方式、死者観の相違があるわけですから、とうぜん各国…というより地域や文化の相違に応じて、さまざまな死者の扱い方があります。そして、イコールでは結べないまでも、それは同地域・文化における倫理…

内田樹氏の言葉に、深く頷けるものがありました。過去から今日に至るまで、死者の死の意味は生者による都合のよい解釈がなされたものばかりだからです。このことから生者は死者より優勢との思考がみられますが、生者と死者の立場を平等にすることは出来ないのでしょうか。

時代のあり方、社会のあり方によって、死者と生者の関係は絶えず変動しているのかもしれませんね。確かに、生者の世界において常に死者が利用されている、消費されているという意味では、表面的には生者の方が優勢であるかにみえます。しかし、生者が死者に…

非業の死者の話で、私は祖母のことを、亡くなって以降、自分を守ってくれる存在として認識している。これも〈寄り添う死者論〉のなかに入るのだろうか?

近親者がその死を納得し受け容れてゆくための、もっとも効果的な言説のひとつであることは確かですね。お通夜や葬儀の場では、宗教の相違を超えて、この種の物語が提供されることが多いだろうと思います。しかし、物語りの主体が伝統宗教かそうでないかによ…

母を亡くしたとき、多くの人は〈寄り添う死者〉論を語りました。しかし、ぼくはそれが不快でした。ありもしないものをあるといわれ、それへの信仰を強制される。〈寄り添う死者〉はどこまで癒しなのでしょうか。

確かに、その言説を受容するひとからみれば、癒しになる場合も暴力になる場合もあるでしょう。主体の心理状態、感受性、語り手との関係など、さまざまな要因のなかで決まってくるのだと思います。それぞれがそれぞれの考え方のなかで、〈喪の仕事〉を果たし…

私は陰陽師が大好きなのですが、何かオススメの本はありますか。

陰陽道の研究は、ここ15年ほどの間に飛躍的に進展しました。以下のものを参考にするとよいでしょう。○全体的なもの :小池淳一・林淳編『陰陽道の講義』(嵯峨野書院、2002年)、鈴木一馨『陰陽道―呪術と鬼神の世界―』(講談社選書メチエ、2002年)、山下克…

聖徳太子のイメージを構築したのは何者なのか、という研究があれな教えてください。 / 聖徳太子についてのよい参考文献はありますか?

大山誠一さんの論考が主なものですが、他の研究者も加わって論じているものが多角的でよいと思います。同氏編の、『聖徳太子の真実』(平凡社、2003年)・『日本書紀の謎と聖徳太子』(平凡社、2011年)がおすすめです。

神道の成立は中世ということでしたが、そのベースである日本神話は古代からあったと思います。神社の研究などをするにあたっては、中世史と古代史、どちらの分野になるのでしょうか。

神社は神道以前より存在しますので、古代史で扱うことができます。中世の神社を位置づける言説は神仏習合的なもので、『古事記』や『日本書紀』の神話とはまた質の異なるものになっています。

レポートで男性器がなぜ崇拝されたのか書こうと思ったのですが、あまり文献がありません。

春成秀爾『儀礼と習俗の考古学』(塙書房、2007年)に、「性象徴の考古学」という論文が収録されていますので参照してください。

推古天皇ら女帝の即位は、当時問題にならなかったのですか。また、女性天皇は、現在なぜ問題視されているのでしょう。

問題とされたのは、奈良時代の阿倍皇太子=孝謙・聖徳のみです。先帝の大妃であったものが皇統を維持すべく即位するということについては、群臣の了承も得られていたようです。現在女性天皇が問題視される理由は、ひとつには父系直系のシステムが明治に出来…

日本古代の女性天皇は、中国の女帝と同じ定義ですか?

女性天皇については先にも書きました。中国との比較で考えるなら、日本の女性天皇は、多くが皇統を継続させるため不可避的に即位した存在であり、積極的に自ら権力を拡大してゆこうと考えたわけではありません。皇位を簒奪したという事例もありませんので、…

馬子は王権を手中にしていたと考えてよいのでしょうか。

大王として即位していたかどうかは別問題ですが、当時の政治はほぼ馬子によって行われたとみてよいでしょう。