2012-07-01から1ヶ月間の記事一覧

境部摩理勢は、蘇我氏の人間なのに、なぜウヂ名が境部臣なのでしょうか。

境部とは、外交使節等々の都への出入に関し境界儀礼を行う部民集団であり、境部臣はその統括者です。境部は阿倍氏の部民などから編成されたと考えられていますが、職務上摩理勢は、外交・対外軍事を担うようになってゆきました。蘇我氏は渡来系氏族の統括も…

なぜ蘇我側の人間である山背大兄王が入鹿に殺されねばならなかったのか、いまひとつ分かりません。蘇我勢力弱体化の原因となった彼を殺すより、蝦夷をトップから変えた方が後腐れないのではないでしょうか。

蘇我氏のトップ自体は、優柔不断な印象のある蝦夷から急進的な入鹿へと移ってゆきます。蝦夷や入鹿に批判的な『書紀』ではなく、中臣鎌足の伝記である「大織冠伝」などをみると、入鹿が極めて優秀で威望を集めた人材であったことは間違いないようです。彼は…

任那日本府を作る利点は何だったのでしょう。海の向こうに作れば連絡を取るのも大変ですし、もし攻め込まれたりすれば何もできないと思うのですが?

この出先機関が置かれた当時、朝鮮半島南方の加耶諸国は倭に対して好意的であり、日本側からの樹木や特産物の輸出に対し、鉄器や鉄材を供給していました。ヤマト王権はその輸入に依拠して国内統治を進めていましたので、鉄の安定的供給のため、半島に足場を…

神道が仏教から分離したとありましたが、神道の八百万の神は、神祇信仰と大乗仏教の利他行が繋がった結果なのでしょうか?

神道が仏教から分離したわけではありません。神祇信仰が仏教から刺激を受け、その他中国思想の影響も被りながら、自身を神道として体系化していったのです。八百万の神々は、『古事記』『書紀』の段階から成立していますので、仏教と関わり合って生まれたわ…

崇仏論争は漢籍からの引き写しとのことですが、そのアイディアを持ってきたのは誰でしょう。遣隋使でしょうか、渡来人でしょうか? 時代的には渡来人と思えますが…。

述作された時期が問題で、普通に考えれば、まず疑わねばならないのは『日本書紀』の編纂時期です。つまり、8世紀の初頭ということになります。『書紀』の編纂過程は次第に明らかにされつつあり、各巻ごとに、7世紀末〜8世紀初までの時期が推測されていま…

古代の人々は自害に対してどのような認識を持っていたのでしょう。当時もやはり腹を切ったのですか。

割腹はしませんね。当時は首を吊るか、あるいは頸動脈を切っているようです。

単純なことかも知れないのですが、なぜ『天皇記』『国記』を聖徳太子が編纂したようにしなければならなかったのでしょうか。

『日本書紀』は、『天皇記』『国記』だけではなく、推古朝の重要政策のほぼすべてを、聖徳太子が蘇我馬子と共同で推進したとしているのです。『天皇記』などの記述と同様に、「皇太子」という当時はなかった身分の字句が挿入され、記事が作られています。当…

聖徳太子の他に、ナショナリズムと結びつけられる歴史上の人物はいるでしょうか。

聖徳太子ほどに、あらゆる局面で時空を超えて利用される人物はいないかもしれません。しかし知名度のある偉人ならば、近接した時代情況のなかでさまざまに利用され、消費されています。例えば坂本龍馬ですが、日露戦争の折に昭憲皇后の枕元に立ち、日本の勝…

聖徳太子の「聖人化」は、当初から政治利用の目的のために行われてきたとみてよいのでしょうか。他の理由はないのでしょうか。

「政治」をどう考えるかにもよりますが、例えばフーコーなど現代思想の文脈で考えた場合、人間の生の文脈はすべて「政治」で表現できるので、聖徳太子の聖人化のすべてが政治利用だということになるでしょう。ちょっと分かりにくいですが、具体的には、聖人…

北狄・東夷・南蛮・西戎など、わざわざ東西南北で字を変えているのには、何か理由があるのでしょうか。

「四夷」といいますが、東西南北に異民族を想定する考え方自体は非常に形式的なものです。しかし、当時の中原地方が四方を異文化・異民族に囲まれており、具体的な何かを前にしながら整理されていった概念でもあります。獣を意味する狄・戎は、狩猟や遊牧を…

『日本書紀』の崇仏論争は史実ではないとのお話ですが、仏教の思想は、それだけ当時の人々に受け入れられやすい教えだったのでしょうか。

確かに、「仏教信仰」が大きな混乱もなく受容されていった、ということはあります。しかしそれが、どの程度「仏教思想」を理解したものだったのか考えると、大変疑問でもあるのです。仏教はインドで生まれ、西域を通って中国、朝鮮半島、日本へと伝来します…

死者の問題ですが、日本のメディアはそうしたものを規制しすぎると思います。日本人はどこかで死者を忌避しているのでしょう。古代でも忌避しているとのことですが、現代とはやや違うようです。

個人的な経験ですが、以前僧侶の仕事をしていたとき、ある母親が、祖母の葬儀に孫を出席させないという事例に遭遇しました。母親としては、「悲惨な現実をみせたくない」との配慮かもしれませんし、必ずしも死を忌避した振る舞いではなかったのだと思います…

震災の直後から今でもよく「不謹慎」という言葉が使われますが、この概念は悲劇を語るうえで直接的な表現を阻んでいます。これもまた、生者の恣意に依拠していることになるのでしょうか。これも忌避になるのでしょうか。

「不謹慎」は、むしろ鎮魂に関連するタームでしょうね。分かりやすくいいかえると、「無念を思え」ということになるでしょうか。今回の東日本大震災の折にも、石原慎太郎を通じて息の詰まるような自粛ムードが発生しましたが、ほぼ同じような情況が、関東大…

死者論の死者の捉え方には、様々な宗教の死者の考え方も関わってくると思われる。キリスト教にとっては死者の魂は救うべきものですが、仏教では鎮魂という思想なのですか?

授業でもお話ししましたが、鎮魂はむしろ、日本列島の文脈においては神祇信仰的なものの考え方でしょう。アジア全体でも、広く在来宗教のなかに認めることができます。魂には荒ぶる面と穏やかな面があり、祭祀によってそれをコントロールすることが求められ…

感情・感性とは何でしょうか。理性・知性と二項対立的に把握されて然るべきものですか。

上の質問とも関連しますが、確かに、理性・知性/感情・感性という二項対立的把握には問題がありますね。それ自体が、極めて近代的なものの見方でしょう。両者は分離することは不可分であり、むしろ、感情・感性に彩られた理性・知性を、理性・知性に支えら…

「イエス、ノーといった同一化の応答からずらし…」や「忌避/鎮魂の中間項はありえないのか」といった講義の内容から、二元論の絶対的な存在が気になりました。別の授業のレポートのために参照した文献で、二元論に支配されていない学説はないとありましたが、歴史学のみならず学問全体において、二元論とはそれほどまでに不可欠であるのでしょうか。

ポストモダンの考え方では、二元論的な思考様式からの脱却が目指されています。二元論は分かりやすいので、複雑な世界の把握における常套手段として使われてきました。例えば、自然/文化の二項対立は、キリスト教的世界で営々と培われてきたものの見方です…

21年も生きて今さらですが、人が「倫理」という言葉を何を指して(何を想像しながら)使っているのかよく分からず、違和感があります。北條先生はどのような意図でお使いなのですか?

この講義では、他者との関係を、いかに暴力的ではない形で取り結ぶか、取り結べるのか、という問いが中心に置かれています。それを実現するのが倫理であり、倫理について考えるということでしょう。歴史学の営為も、そのうえに初めて成り立つべきものと考え…

「古人大兄王」や「中大兄王」など、語尾に「王子」や「王」と付いた名前が出て来ます。これが「皇子」や「親王」になるのはいつからでしょうか。 / 大王と天皇の具体的な相違は何ですか。いつから変わったのですか。 / 大王は神に近い存在だったのでしょうか。それとも江戸幕府の将軍のような存在なのでしょうか。

すべて、「天皇」の創出に関わることですね。最後の授業のときに、詳しくお話しすることができるでしょう……たぶん。

日本へ仏教を伝えたのは百済とされますが、朝鮮三国は、それぞれに対立しながらも仏教を通じた交流などはあったのでしょうか。

朝鮮の仏教事情にはあまり詳しくないのですが、いずれも4世紀末までには仏教が伝来しており、新羅には高句麗から伝えられたとされています。ともに中国へも留学僧を輩出していますので、僧侶同士の学問的交流や、政治的関係を前提とした知識・技術供与など…

なぜ最初の僧は男性ではなく女性なのでしょう。 / 仏教の担い手は、いつ頃から男性が支配的になるのでしょうか。

一説には、女性を神の憑依する存在と捉えるシャーマニズムが根底にあったからだ、とされています。それなりに説得性のある見解ですが、しかし、同時期の中国や朝鮮の仏教信仰を調べてみると、いずれも女性が大きな役割を果たしているのです。アジアの特徴と…

王殺しは推古朝の制度改革に大きな影響を与えたと分かりましたが、大化の改革とも関係があるでしょうか。

政治史的には、蘇我氏の王殺しが結局その独占体制を構築したと考えれば、乙巳の変の遠因になったとはいえるでしょう。また文化史的には、皇極朝における真の支配者=王は蘇我入鹿であったと考えると、これもまた王殺しなのだといえるかもしれません。事実、…

「歴史学をめぐる諸問題」の保立先生の講義のなかで、王を殺したことでその王が悪霊となり、自然災害を引き起こすと習いました。今回の王殺しの問題と、何か関係があるのでしょうか。

保立先生の講義で語られた「王殺し」は、天皇のことではなく、例えば早良親王の横死とその怨霊化についてであったと思われます。いわゆる「御霊信仰」ですね。これは非業の死者が悪霊化するという中国伝来の思想に基づくもので、菅原道真をはじめ、王「が」…

崇峻殺害は、一種のクーデターのような感じがしますが、どうでしょうか。 / 崇峻暗殺について、『書紀』に蘇我氏の名前が記されているのは、編纂者による政治的述作なのではないでしょうか。

馬子の側からすれば、政治の実権は彼が掌握していたので、クーデターにはなりえません。基盤はしっかり据えたうえで、首をすげ替えたに過ぎません。しかし、支配者層に与えた衝撃は大きかったものと思われます。なお、『書紀』は皇極朝の蝦夷・入鹿について…

史料18で、崇峻天皇は密かに武器を集めていたとありますが、天皇は何をしようと思っていたのでしょうか。

文脈からすれば、蘇我馬子を排除しようとしたということでしょう。しかし、崇峻が先に殺されてしまったので、本当の理由は分からなくなってしまっています。

仏教が公伝以前に伝わっていたのなら、なぜそのときには問題にならず、公伝になってから崇仏論争に発展したのですか。

私伝仏教が実際にあったことは、前回の質問に対する回答(仏獣鏡の件)でも述べました。講義でお話しするように、私は『書紀』に書かれたような形での崇仏論争はなかった、と考えていますが、中国等々でも、民衆が私的に信仰する範囲では宗教弾圧は行われて…

なぜ、蘇我馬子自身が僧にならなかったのでしょうか。別に仏教を信じていたのではなく、政争に利用しただけなのでしょうか。

仏教を信仰する方法は、僧になるだけではありません。とくに東アジアの支配者層の間では、仏教の有力なパトロンとなることで、その霊験や利益に与ろうとする信仰が強くありました。後に鎮護国家の所依経典として重視されてゆく『金光明最勝王経』などにも、…

『日本書紀』で、蘇我稲目が欽明天皇に「西蕃諸国が仏を礼拝している」と話していますが、稲目はそのことをどうやって知り得たのですか。 / 高校の頃、蘇我馬子らが崇仏を主張したのは渡来人と繋がりがあったからで、崇仏を行えば利益が得られるからだったと聞きましたが、本当でしょうか。

講義でお話ししたように、蘇我氏は葛城氏の伝統を継承し、多くの渡来系氏族を傘下に抱えています。また、外交にも大きな力を発揮していましたので、物部や中臣より海外事情に通じていたと考えられます。蘇我氏の判断としては、まず仏教文化を習得しない限り…

村落で納められた「初穂」は、現在神社でお守りなどを飼うときに納める「初穂料」と、何か関係があるのですか。

そうですね。古代の初穂のあり方が、現在の神社に「変形して」用いられているものです。

調と贄の違いとは、稲かそうでないかということでしょうか。また、海産物も「初尾」と呼ばれるのでしょうか。

稲作を主要な生業としている村落と、狩猟や漁労を生業としている村落とでは、定住のあり方も含め共同体としての構造が異なります。よって、支配の仕方についても異なる施策を用いねばならない。調と贄とは、名称だけでなく、支配対象としての共同体の把握の…

古代の贄が動物の肉であったのが、神憑り的な神道や仏教に後押しされて、人の肉を用いる生け贄の概念に発展したのですか?

供犠とは、理論的には、人間にとって最も大事なものを捧げる祭儀です。そうしなければ、神は応えてくれないと考えられていたのですね。よって、そもそもが人間を犠牲に捧げるものとして行われていた、とみられているのです。それがやがて、執行主体の共同体…