2015-05-01から1ヶ月間の記事一覧

医術とは関係ないのですが、中国では髪は生気の発露とされた、その認識はいつ日本へ伝わってくるのでしょう。日本史概説で乙巳の変のビデオをみたとき、蘇我入鹿の髪がざんばらでしたが、あれはどのような意味があったのでしょうか。

実は、日本の史料には明確に出て来ないのですが、律令体制成立時の風俗矯正で、男女を問わず結髪が文明の証として推奨されてゆきます。髷は平安時代は他者にみせてはならないものとして隠され、中世にはやはり生命を象徴するものとなってゆきます。『後三年…

典薬寮の勘申には中国医書からの引用が多いとのことでしたが、例えば22ページ8行目の「梅」などは、日本になじみ深いのになぜ引用されていないのでしょうか。

難しいですねえ。このあたり、まだ議論が続いていて正確に分からないことが多いのですが、未だこの天平期の段階では、梅を食すことが一般的ではなかったのかもしれません。梅は中国から輸入されたもので、一般的には漢方薬の烏梅が、樹木としての梅よりも先…

漢籍と民間医療との交流があまり行われなかったとのことですが、例えば貴族とその使用人との間で、治療をめぐる相互評価など行われなかったのでしょうか。

授業の冒頭で紹介した紀夏井や菅原道真のように、民間と交流し民俗医療を研究、医術に採り入れようとした試みもあったと思われます。そもそも太政官符の処置自体、民間療法や実地の臨床経験がもとになっている。とすれば、緊急の現場においては、可能な限り…

典薬寮の勘申にはたくさんの薬が出てきましたが、当時の五位以上の官人たちの周囲に、どれほどそれらが出回っていたのでしょうか。

長屋王や藤原四子のような最高級の貴族たちは、自分の薬園を持っていたり、独自のルートを通じて入手できたはずです。『源氏物語』には、山野を舞台に生業を持つ「山賤」などが登場しますが、そのような人々を奉仕させている家、一族もあったでしょう。しか…

中国の踏襲から、日本的な医療へ独自に発展し始めたのはいつごろからでしょうか。

大きなスパンでみると、やはり蘭学が入ってきて西洋医学への道が開かれるまで、医学の聖地は中国なのです。『大同類聚方』や『医心方』、本草学の『本草和名』などが、平安中期あたりには編纂されてゆきますが、多くは漢籍の引用、中国との対照などであって…

上流階級の人が傷跡を消したいと思うのは、それが穢れが残っているとみられるからでしょうか? / 当時の貴人女性は、あまり人前に顔を出さないイメージがありますが、それでも疱瘡の跡を消す必要があったのでしょうか。

「鳥毛立女図屏風」など、唐の美人像が当時の貴族層における美的枠組みを構築していたようですが、やはりその肌については、傷のない白く滑らかな状態が理想とされたようです。あばたはそれと対極にありますので、やはり忌避されたと考えられます。授業でも…

「一般庶民」というのは、どの階層の人々でしょう。五位以下の官人から、文字が読める人までということでしょうか。

いえ、文字どおり一般庶民です。庶民は基本的に文字が読めませんが、そうした人たちには口頭で指示を伝えることが、律令国家の情報伝達システムの末端に課せられているのです。

性交渉のことを「陰陽」と表現していますが、男女のどちらが陰で、どちらが陽なのでしょうか。

男性が陽、女性が陰ですね。陰陽和合が理想のバランスなので、少なくともこの論理においては、性交渉は否定的には捉えられません。

今回の講義で紹介された治療は、どのくらいの時期まで続いたのでしょうか。また、これによって生存率は上がったのでしょうか。

太政官符の処方は室町時代の『拾芥抄』にまで引用されていますので、長く命脈を保っています。それはすなわち、一定の効果が確認されたために、貴族層の間にも広まったということでしょう。以前に紹介した『古事談』の典拠である源俊房の『水左記』では、医…

『病草紙』で嘔吐・下痢をしている女性が描かれていますが、吐瀉物はしっかり描いているのに、大便は描いていないようにみえます。どうしてでしょうか。

みづらかったでしょうか。実は、水のような下痢がしっかり書かれており、汚い話ですが、どうやら犬がそれを食べようとしているようです。下記のURLから、大きな画面をみることができます。http://u999u.info/lts1

『病草紙』からは、感染予防への意識の低さが窺えました。当時の感染症に対する認識はどのようなものだったのでしょうか。 / 下痢がひたすら登場していたが、当時のトイレ事情はどうだったのだろうか。

ウィルスの概念はありませんので、衛生意識に対応するものがあるとすれば、ケガレの感覚・観念のみです。藤原京や平城京では、貴族の邸宅には水洗トイレがありましたが、その水は浄化されることなく京内の水路へ連結してゆきます。側溝からは、人馬の死体や…

天平9年の時点で、氷を食べることは一般的だったのでしょうか。また、生肉を食べる習慣はあったのでしょうか。

氷に関しては、律令官司に主水司があり、氷の採取と氷室における保管、宮廷への運搬を監督していました。奈良時代の段階でも貴族たちが氷を食べることはあり、長屋王家木簡には、都祁の氷室から氷の運ばれてきたことが分かる記事があります。平安時代になる…

女性の経血や小豆の粉と卵白を混ぜたものを治療に使う点に興味を持ちました。小豆と卵白の方は成分が良いのかもしれませんが、経血に効果はないでしょう。なぜそれを行おうと思ったのでしょうか。 / 経血を塗るという発想にはぞっとしてしまいましたが、穢れではないのですか。 / 経血の件、衛生面より呪術性の方が大切だったのでしょうか。

小豆粉・卵白の方は、現在も中国の美容法として行われている、との情報をいただきました(感謝!)。経血は栄養は極めて豊富ですが、上記の使用法は成分云々より、ケガレ観に基づくところが大きいと思います。ケガレという概念は、主に権力を持つ側によって…

先日本屋で、「邪馬台国は千葉にあった」という眉唾物の本をみかけました。先生はこういった書物をどう思いますか?

うーん、実害がない範囲でならご自由にどうぞ、と思いますが。学生さんがはまってしまうと困りますね。

卑彌呼は主に西日本を治めていたと聞きますが、では当時の東日本はどのような情況だったのでしょうか。

これは邪馬台国の位置をどこに比定するか、という議論によりますね。例えば、畿内説に立つ最近の岸本直文さんの論文では、倭人伝で邪馬台国と抗争関係にあったと書かれる狗奴国を、東海地域に当てはめています。他の発掘事例によると、弥生の初回にもお話し…

邪馬台国は恐らくヤマト王権そのものではないのに、卑彌呼の業績を神功皇后のそれにすることで、何かメリットがあったのでしょうか。

『日本書紀』は中国的文脈に沿うように作成してある史書ですので、中国の史書に載る倭の記述を吸収しようとしたものでしょう。しかし、例えば倭の五王が『書紀』記載の大王にそれぞれ対応されているわけではないので、その編纂方針にはぶれがあります。

銅鐸はヒレを立てて埋納されるとのことですが、その行為に何か意味があるのでしょうか。

何でしょうねえ。これはぼくも知りたい。最初に銅鐸の埋納情況をみたとき思い出したのは、縄文時代に、食べた獣の骨を儀礼的に配置して埋納した遺構です。猪や熊の頭蓋骨を丁寧に積み重ねるように配置したり、あるいはクジラの脊髄を軸にイルカや猪の頭蓋骨…

青銅器の埋納については、自分は贈与説に近い考えを持っているが、贈与の対象は大王なのではないか。

青銅器祭祀の段階では、未だ「大王」と呼べるような権力者は存在しません。むしろ、青銅器祭祀を放棄した地域に墳丘墓が発展してゆきますので、青銅器祭祀を続けた地域は共同体的・合議的性格の強い社会、青銅器を放棄した地域が特定個人・家族へ権力が集中…

青銅器埋納の贈与説について、いかにたくさんの質の良いものを「贈与」しようが、埋めてしまったら分からないのではないか。

まずは神霊に対するものですので、埋納しても宗教的意味は達成されます。また、埋納時には何らかの祭儀を伴ったはずですので、どれだけ質・量のものが蕩尽されたかということは、情報として近隣に伝えられたと考えられます。

集落のなかに首長が出てきたことで、生活レベルの差というのはあったのでしょうか。政治的な力は持っていても、例えば食べ物を優先的に貰えたり、大きな水田を使用できたとか…。

なぜ出雲などの地域は、早期に青銅器祭祀を放棄したのでしょうか。

かつてイースター島では、各部族の間で神霊的存在へモアイ像を贈与する競争が起こりました。これは一種の蕩尽になって、結局文明の崩壊を将来してしまいます。出雲地域方は、加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡などから、とりわけ多くの青銅器埋納が行われた地域であ…

青銅器祭祀の盛行期の図で、近畿南部がどこにも属していないのが気になりました。

銅鐸が兵庫や島根、滋賀の主な近畿地域に分布しているのが分かりましたが、形も似ているし集中した地域で見つかっていることから、村々での交流があったのではないか。銅鐸の製造を伝えあっていたのではないか。

これは説明の仕方が悪かったと思いますが、同じ文化圏内での青銅器の供給は、特定地域での製造・分配によっています。形態・形式が似ているのはそのためです。もちろん、センターが一つに限られるわけではありませんが、複数の場所で生産されたものが、原料…

青銅器が共同体の象徴となっていたとすれば、戦争などで勝利すると、敵の青銅器を破壊したりするのでしょうか。

青銅器製の武器と鉄器製の武器を持つ人々との間で戦争などはあったのでしょうか。

地元の横須賀市夏島からは、縄文の犬の骨が発掘されています。犬は今と同じように、人のパートナーとしての役割を果たしていたのですか。

イヌは、動物のなかで最も早くに家畜化が進み、狩猟などのパートナーとして共生が進んだものと考えられています。縄文時代には、人間と同じような埋葬がなされたもの、人間とともに埋葬されたもの、ケガなどの治療痕が骨にあり狩猟などの活動をともにした可…

神岡5号銅鐸の長脚鳥の横に描かれていた動物は、カメにみえるのですが何ですか。また、当時から「長生き」のような発想があったのでしょうか。

これは縄文のときにも、弥生の時間にもお話ししたと思いますが、補足的に。銅鐸に描かれているのはカメで、やはり水田周辺でみられた動物と思われます。当時、亀に対する神聖性がどの程度あったかは分かりませんが、中国や半島から何らかの知識が入っていた…

鳥形木製品を挿し立てていたのが、環濠や集落の縁辺部であったのはなぜですか。

ひとつには、飛翔する鳥型木製品には他の鳥=穂落神を呼ぶ機能が期待されていたのではないか、ということ。稲を生育させるエネルギー=稲魂を持った鳥たちが、鳥形木製品を仲間だと思って集まってくれることを望んだのでしょう。神社の鳥居の原型のひとつ、…

神道における初詣などの形式は、自然が対象なのでしょうか、それとも人間が対象なのでしょうか。

現代的レベルでは、地域の氏神や産土神でない限り、参拝客の多くはその神社の祭神が何であるかを認識していません。神は漠然とした「聖なるもの」であり、人間を崇めるというより自然を崇めているのに近いだろうと思います。しかし個々の神社の成り立ちを調…

鹿が害獣であったのと同じように、鳥に対してもマイナスの認識はなかったのでしょうか。

弥生時代に限定はできませんが、例えば上にも挙げたカラスの例があります。広島の厳島神社には、カラスによる御烏喰神事があって、海に浮かべた供物を神使いの烏が食べるかどうかで、願いごとの成就や吉凶を占います。これなどは、烏が作物その他を奪ってゆ…