2008-06-01から1ヶ月間の記事一覧

漏刻の時間はいつまで基準にされたのでしょうか。中世や近世になってもまだ存在していたのですか。

少なくとも平安時代までは、陰陽寮のもとで管理されていたようです。養老令によれば、同寮には漏剋博士2人と守辰丁20人が置かれ、漏刻を操作し、決められた時間に鐘鼓を鳴らして周知を行っていました。地方では、日時計や時香盤(香の燃え尽きる長さで時間…

漏刻の成立以前には、日本では何によって時間を決めていたのですか。

最も古い方法は太陽や月によって暦や時刻を分節する方法ですね。日時計もそうです。これら天体からは、方位も知ることができます。日本古代には、皇室の祖先神となるアマテラスの他に、尾張氏という海洋系の氏族によって奉仕されていた天照御魂神など、多様…

須弥山石は解体可能とのことですが、どのような仕組みなのですか。 / 止水栓とは何でしょう。

別にポータブルということではなく、いろいろな場所に設営できるということで、組み立て式なのです。以前に配布したレジュメにも、『書紀』における須弥山石の史料を網羅しておきましたが、幾つか場所を移して設営されています。飛鳥寺の川原は貴族の子弟が…

斉明朝において、須弥山石に象徴されるような仏教の導入が図られたのはなぜか?

古代国家に仏教が導入されたのは、仏教があらゆる知識・技術の最新の水準を示す複合文化であったからです。その思想を理解するためには高度な漢文の知識、哲学的思考が必要でしたし、経典を書写する施設・設備が不可欠でした。読経を核とする仏教儀礼を行う…

後岡本宮において、天皇の居所が公/私に分かれたことで、政治のありようにはどのような変化が生じたのでしょう。

それまでの大王の機能には、公/私という区別が存在していなかった可能性があります。大王宮は大王の居所であって、家産機構の中枢でもあった。極めて私的な空間で、その場に出入りして奉仕する存在は、大王家の配下以外にありえなかったでしょう。それに対…

祖父の戒名には「泰山」という言葉がありましたが、地獄へ行ってしまったのでしょうか。

そんなことはないと思いますよ。「泰山」は中国の代表的他界、霊山なので、単に魂の鎮まるところという意味で使っているんじゃないでしょうか。

オルフェウス神話と黄泉国神話を比較したとき、後者の方が気味が悪いのは、日本のホラー映画が恐いといわれるのと同じで、死に対して負のイメージが強いからなのでしょうか。

そうとばかりはいえません。授業でお話ししたように、やはり神話としての段階が相違するからでしょう。ギリシア神話が演劇としての洗練度を「美しい悲劇」の方へ高めているのに対して、日本の黄泉国神話の方は、国家的編纂事業とはいえ喪葬儀礼の近くに位置…

仏教では、朽ちぬ遺体を往生者と扱うとのことですが、ではなぜ現代の日本では火葬にしてしまうのでしょう。

当然、古代の中国でも日本でも、火葬は仏教に関わる葬法として実践されていました。往生伝の類をみますと、火葬にふすまでの殯の期間にまったく腐乱しなかったとか、芳香が漂っていたなどの言説がうかがえます。六朝から隋唐にかけて広まったとある仏教的奇…

朽ちぬ遺体の伝説について、それを発見した人は、そもそもなぜ墓を開けたのでしょうか。

確かに不自然な話ですね。伝説の類には、墓からいい芳香がしてきたとか、光を発したなどの奇瑞が描かれます。東ヨーロッパなど吸血鬼信仰の強かった地域では、死体が朽ちているか確認するため、一定の期間を置いて墓を開けてみることもあったようです。盗掘…

冥府に関する神話の比較で、「後ろをみてはいけない」というタブーが共通するのはなぜでしょう。

話型のモチーフとしては、「見るなの禁」と呼ばれています。これはひとつ冥界神話に限らず、他界や、そこからやって来る異人との交渉譚にはよく付随するタブーです。他界は現実世界と異なる秩序で成り立っているため、両者が平和的に交渉するためには幾つか…

王道平の話で、「三度名を呼ぶ」とありました。孔子も愛弟子顔淵の臨終に際し、三度名を呼んで慟哭したとされていますが、この「三」という数字には何か意味があるのでしょうか。

昨年の後期特講でも詳しく話題にし、『歴史家の散歩道』掲載の拙稿でも触れたのですが、「三」は宇宙全体を象徴する基本的な数字として世界的に多く認められているものです。数学的にも物理的にも真理として君臨する数字でありキリスト教神学では三位一体、…

世界各地で黄泉国神話に類似の物語が存在するのは、単なる偶然とは思えないのですが。

こうしたミッシング・リンクは、歴史上至るところに存在するものです。学問的な考え方としては、同じような環境・条件下では類似の思考・言説が発生するとみるか、どこかひとつの場所からの伝播とみるかの二通りがあります。二者択一というより、複合的に考…

文化人類学や神話学などで、今日読んだ神話などを構造的にパターン化できるのでしょうか。

中国の墓制について、魂が璧を抜けて自由に天界と往来できるとすれば、留まるべき安住の地はないということだろうか。

中国古代の霊魂観では、何ものからも解き放たれて行動できる自由なありようこそが、理想的な霊魂のあり方とされたのでしょうね。どこかに束縛されているのは、むしろ霊魂として健康ではなく、それらが人間に災いを及ぼす存在になるとみられたのでしょう。

階層秩序の具現化のために厚葬が行われたとのことですが、この頃は、死んだらみな平等という考え方はなかったのでしょうか。 / 始皇帝陵の内部に支配地の地理が造型されたということは、当時は俗世の権威が来世にそのまま引き継がれると考えられていたということでしょうか。

死後の世界は平等、という考え方はありませんでした。むしろこうした考え方は、世界的にも珍しい、新しいタイプの冥界観かも知れません。民族世界においては、1) 冥界は現世とはまったく逆の世界だ、という視点が多いですね。この世の生きとし生けるものは、…

馬王堆漢墓の朽ちぬ遺体は、「尸解仙」の観念で考えられた可能性もありますか?

馬王堆はともかく、確かに、不思議な死に方をした人の言説が、尸解仙と関連付けられたことはあったようですね。ただし、中国の神仙伝類では「衣を残していなくなっていた」と書かれるのが普通なので、朽ちぬ遺体と直接的に繋がる事例は知りません。とにかく…

紫微中台という役職の由来は、紫微宮からきているのでしょうか。

そうなのですが、直接的には違います。紫微中台の前身は皇后宮職で、光明皇后に付属してその活動を輔佐する令外官でした。天平勝宝元年(749)、娘の阿倍内親王が聖武天皇の譲位を受けて即位すると、光明は甥の藤原仲麻呂と謀って天皇の大権を代行することに…

飛鳥諸宮はほぼ天皇ごとに建てていますが、平城・平安と何代にもわたって使用されてゆくようになるのはなぜでしょう。

飛鳥までの歴代遷宮は、基本的に、有力な王位継承者が営む王子宮が、即位に伴いそのまま大王宮に発展した結果だと考えられています。しかし舒明天皇の百済大宮以降は、大王が自己の権威を喧伝する中央集権的施策のひとつとして、宮の造営が行われることが多…

大王(天皇)の権威が自然を完全に上回ってしまうのはいつのことですか。

これは藤原京のところでお話しする予定ですが、天武・持統朝に大王を即神(生きたままの神)化し天皇と位置付けるさまざまな施策がとられたと考えられます。上記のような、神統譜を伴う神話の形成もその一環です。しかしながら、自然を完全に上回る地位を目…

王権が太陽信仰に依拠したものなのに、自然を征服するというのには違和感があるのですが。

例えば、天神/地祇という言葉によって高天原に由来する神と地上(葦原中津国)の神とが区分されるように、王権は神々のうちにヒエラルヒー(上下関係)を作り出していました。そのうちタカミムスヒやアマテラスといった皇祖神がトップに君臨し、その子孫と…

斉明天皇が開発を好む人で、人からあまり支持されなかったというのは、人々は自然を開発することを恐れていたということでしょうか。それとも重い労働への不満でしょうか。

まさに6/9にお話しする中心のテーマです。しばらくお待ちください。

中国は立礼であるとのことですが、清代に皇帝への拝礼として「三跪九叩頭」なるものがあったと記憶しているのですが。

三跪九叩頭は清代の儀礼ですね。清朝は満州族の王朝ですが、漢民族以外の周辺諸族では、王への服属の礼として(近代的視点でみると)かなり屈辱的な作法が残っていることが多いようです。日本の跪伏礼・匍匐礼も同じで、これは、王という存在が人間以上の存…

建物の構造から何がいえるのかということがよく分かりませんでした。 / 中国式の立礼を導入し、立って歩くのに適した宮造りをしたというのは、具体的にどういうことでしょう。 / 日本でも、宮の中心線を無理して南北にする必要があったのでしょうか。

まず、天皇の居所が私的な空間と公的な空間に分けられたり、政務や儀礼を行うような空間が構築されてくることは、中国の形式を導入しつつ古代日本の政治文化が変質してきていることを意味します。ヤマト政権の盟主に過ぎなかった大王の立場が次第に他の豪族…

飛鳥諸宮における「重層」の意味がよく分かりませんでした。飛鳥板蓋宮などは、以前あった岡本宮を壊して建てたということでしょうか。それとも改築や増築を行っただけですか。

火災なども挟んでいますので、ケース・バイ・ケースですね。例えば岡本宮から板蓋宮への移行の場合、岡本宮は焼亡しているうえに自然地形に沿った方位で建てられていたので、南北方位の板蓋宮には建物の継承はありません。板蓋宮も火災に遭っているので、大…

発掘された建物等がいかなるものだったか、どのように利用されていたかなどは、なぜ特定できるのですか。

難しい問題です。実際、建築物の痕跡以外に参照しうる資料がない古墳時代以前の遺跡などは、その役割や機能を考えるのが極めて困難で、曖昧な部分も大きくなってしまいます。掘立柱の穴があったとすれば、どれくらいの長さの柱が立っていたかくらいは想定で…