2011-06-01から1ヶ月間の記事一覧
講義でもお話ししましたが、平城京・平安京に関する文献・絵画・考古資料、それらが依拠した中国の都城に関する史資料が利用されていますが、やはり想像力に依存する部分は大きいと思います。例えば、遷都1300年でも話題になった平城京跡の復原朱雀門でさえ…
古代日本の大王・天皇についても、斉明天皇の東北経略・半島出兵や、天武天皇の壬申の乱など、節目節目に強大な軍事力が動員されることは認められます。しかしそれが長期間恒常的に行われ、王権自体の軍事的色彩が濃厚になることはなかったようです。ひとつ…
史料的には確認できませんが、それも上記に触れた中国王朝との遠隔、海の問題が有利に働いたものと思います。中国王朝は辺境の倭について、朝貢してくれば政治的に利用しようとしますが、そうでなければ積極的に関与する意味(余裕?)を見出せなかったので…
大量の銅鏡を下賜したのは、一方で中国王朝の力を見せつけるためでしょうが、賜与される側としては、それを同盟あるいは従属下の政治集団へさらに賜与し、連合・奉仕関係を強固にするねらいがあったものでしょう。実際に三角縁神獣鏡はそのように使われたよ…
実際に「好太王碑文」をみますと、倭が半島に出兵して百済や新羅を支配下に置いているとの文言が出てきます。これは高句麗の立場を正当化するための碑文ですので、ややバイアスのかかっている点に注意しなければなりませんが、それでも倭が三国の関係を変化…
そうです。百済は、当然倭より中国王朝との関係が長く、やや反抗的な高句麗を牽制する意味でも重視すべき存在でした。宋としては、倭自体にも半島情勢を自国に有利に調整するうえで関心を持っていたと思われますので、一方を公認し一方を認めないという飴と…
やはり、航海については安全というわけにはゆかなかったでしょうし、恐らくは朝鮮半島の南東岸を進んだと考えられますが、半島内の政治的情勢によりうまく通信ができない場合もあったでしょう。だからこそ、倭は加羅諸国や百済と同盟を結び、半島南部に政治…
講義のなかでも触れましたが、例えば『宋書』のなかで讃が宋へ派遣したとある司馬の曹達は、名前からして渡来人、恐らくは中国人です。当時の府官制下における文書行政や外交、とくに上表文の作成などに関しては、中国や朝鮮半島からの渡来人に負うところが…
構いません。自分がいちばん特異な分野で執筆してください。
「亀経」は、卜兆の各部を五行説によって意味づけしてある書物ですので、『新撰亀相記』における卜兆の説明に際して、先例のひとつとして紹介されています。拙稿「中国六朝の『亀経』と神祇官卜部の亀卜法」(東アジア怪異学会編『亀卜』臨川書店、2006年)…
いうなれば、卜占の「政治化」ということになるのかも知れません。戦国時代の複雑な政治情況は、一方で神霊的なものへの希求を強くしましたが、実際の政治の場では、より現実的な知識や臨機応変な対処が不可欠になってきました。政治的顧問の地位も史官や卜…
もちろん、当時の中国には、中原周辺にも多くの遊牧民族がいましたので、それとの関連でも考えることができます。しかし、晋という国自体の文化が、牧畜社会・経済と極めて親しかったとみることもできるでしょう。晋が分裂して生じる三国のうち、北の趙は、…
そんなことはありません。第一、我々がみることのできる史料で、世界を透明に反映しているものなど一切存在しない。すべてが、何者かの主観を介した取捨選択・編集・歪曲の結果として創出されているものなのです。それを様々な他の史料と比較検討し、当時の…
彼らは政治的・宗教的顧問でもありますので、当然意見の食い違いは発生したでしょう。前回取り上げた史蘇の事例にしても、献公に仕えていた卜官は他にもいたのです。彼らのイメージは、ちょうど戦乱期に複数の献策を行うような軍師たちと重なってきます。
殷代のような、ある程度の「卜」字を出す操作は可能ですが、やはり亀甲の種類・質・状態、卜官の技術などによって不特定要素が生じてくることは間違いありません。微細な部分まで類別し図形を確定するようになると、そのひとつひとつに意図的に沿わせるよう…
最初の方の授業でもお話ししましたが、やはり亀に対する特別な考え方が根底にあると思われます。亀甲は天意の現れるものであり、また陰陽和合した宇宙を指し示すものでもある。筮竹に使われている竹もそれなりに神聖なものでしょうが、亀甲のランクには及び…
易姓革命説以降は天命を受けたかどうかが問題になりますが、遡って天命を受けたと想定される夏・殷・周のありようをどう受け継いでいるか、という点も問題になります。漢代以降は天人相関説、災異説が盛んに主張され、自然災害や戦乱などが天違に背いたこと…
中国だけではなく、日本でも実在説をとる研究者はいます。京大の岡村秀典さんなどが代表的でしょう。しかし、中国のように神話や伝説の多くの部分を史実として認めてしまうのではなく、二里頭文化の発掘成果に基づき、殷以前に初期的な王朝国家が存在したと…
『左氏伝』等々の史料をみていると、やはり細かな相違があるようです。『周礼』に掲載されている官職が多彩かつ大部になっているのは、やはり、春秋・戦国諸国の官制を集約して再構成したためだろうと思われます。ちなみに、諸国のうち最も官制の相違が明確…
洛書というと限定的すぎますが、日本語で読める亀関係の文献としては、千田稔・宇野隆夫編『亀の古代学』(東方出版、2001年)、東アジア怪異学会編『亀卜』(臨川書店、2006年)がお薦めです。『日本書紀』については、時間があれば授業でも取り扱いますが…
そうですね。洛書自体が陰陽和合する宇宙の象徴ですので、亀甲が世界を表現するという各地に広汎に伝わる考え方へ連結します。亀がなぜそれほど世界中で信仰されるのか、考えてみると面白い問題です。
中国殷代に亀卜に供された亀は、クサガメやハナガメといった、それほど大きくもないリクガメでした。日本では鹿卜を経て古墳時代に亀卜を開始しますが、以降近代に至るまで、亀甲にはウミガメのそれを利用しています。それゆえ、ウミガメの産卵地である紀伊…
『書紀』に須弥山石が立てられた地理的場所と発掘された地点がほぼ同じであること、中国で造られた須弥山の画像やこれを模した香炉、後に東大寺大仏の蓮弁に描かれた須弥山図などと比較すると、紋様や形態に多くの類似点がみつかるためです。なお、夷狄に対…
天平期の後半から称徳朝にかけては、確かに仏教が国教に近い状態を現出していました。しかし、それは他の宗教を排除する、仏教のみを信仰するということではありません。律令制度は基本的に儒教と法家の思想によって成り立っていますし、神祇に対する祭祀も…
聖徳太子については、『書紀』に載る関係記事に神秘的な事象が多く、前後の記述における蘇我氏の事績を剽窃したように書かれていたり、中国の典籍や仏典によって様々に粉飾されているなど、編纂者の何らかの意図に基づいて「創作」されたと想定される記事が…
天皇の漢風諡号は、実は8世紀の後半に淡海御船が一括して奏上したもので、『書紀』における事績を漢字二字に集約的に表現したものです。例えば、崇神天皇については、その事績のうちに、巨大な祟りをなした三輪神を奉祀し鎮めたこと、自らと同一殿舎に奉祀…
牽牛子塚古墳ですね。二つに仕切られた石室が、斉明天皇と娘の間人皇女を合葬したという『書紀』の記述に一致すること、漆・布を交互に塗り固める最高級の「夾紵棺」の破片がみつかっていることなど、情況証拠は多くあります。最も重要な根拠は、これが7世…
いわゆる「大王」ではなく「天皇」を名乗ったのは、同時代史料の木簡にその文字が刻まれている天武天皇であったと思われます。7世紀後半には、中国でも一時期皇帝が「天皇」を称し、新羅の王も同様に称したらしい形跡が、出土文字史料より明らかになってい…
実質的労働力は、奴隷というより、徴発された役民たちですね。支配層のそれは、当時直轄的支配領域であった畿内の民衆から確保されたようです。7世紀の宮殿建設になると、東国などの遠隔地から徴発することも行われてきました。首長への労働奉仕は、後に律…
両方の意味があるのでしょう。心性史的な観点からすれば、自然神をコントロールしうる権威を生み出すということは、当時の王権・国家において重要な課題であったはずですが、しかし支配者層も古代的価値観の桎梏から自由なわけではない。通常はその点を自覚…