日本史概説 I(12春)

人物埴輪には女性が少ないような気がしますが、このときすでに男女の職業差、社会的性差別などは存在していたのでしょうか。

今日の講義でも言及しましたが、すでに社会的・文化的性差はある程度存在し、性的役割分担もなされていました。しかし、例えば古墳への家族の喪葬形式からみても6世紀初め頃までは双系制で、女性の子供しかいない場合には女性首長もありうる状態が続いてい…

人物埴輪が中期古墳以降に多様化するというのは、家や武器の方が複雑な技術を用いずに作成できるからですか。

やはり「焼き物」ですので、複雑な形状のものであればあるほど造型・焼成が難しいということはあるでしょう。しかし、最も大きな原因は、死者観の変化ではないかと思います。前期古墳の被葬者は、封じ込めるような埋葬の仕方や祭儀のありようからみて、極め…

後期古墳になって死生観が複雑化してゆくことと、前方後円墳の墳形が減少してゆくこととは、何か関係があるのですか。

直接的に結びつくかどうかはまだまだ分析が必要ですが、各地の死生観や宗教的・政治的価値観の多様化のなかで、「壺型」のモチーフが象徴性を失ってゆく、政治的拘束力を弱めてゆくといったことはあったでしょう。また、古墳によって王権との連合関係や首長…

古代の首長や王の埋葬では、多くの祭器や宝器が副葬されていますが、なぜどのような地域でもこの種のことが行われたのですか。また、今そうしたことが行われていないのはなぜですか。

一口に副葬品の埋納といっても、時代によって意味づけが異なる場合があります。例えば、祭器・宝器自体に神聖な力、呪術力が認められているような時代では、その埋納は死者を呪的に防御するためといえるでしょう。また、古墳のなかが死者の住居と考えられる…

横穴式石室の門部や道部の名称に、「羨」字が用いられているのはなぜですか。どういう意味で使われているのでしょう。

どうなんでしょう。字義からすれば、恐らくは「墓室から溢れ出たような狭い余りの道」という程度だと思いますが。

造り出しは、築造完了後どのような状態だったのでしょうか。そのままにしておかれたのですか。

墳頂の家形埴輪、人形埴輪がそのまま設置されていたことからすると、造り出しのジオラマも文字どおり「展示」されていたのだと推測されています。それは、祭祀者でもある首長が生前執り行った祭儀を復原し、その活躍ぶりと権威を喧伝する目的があったのでし…

前方後円墳において、なぜ方形のほうが祭祀の場だと考えられたのですか。

円形部分が埋葬遺構であり、歴史的な形状の変化からすると、溝にかかる陸橋が方形部分へと発展してゆく。陸橋は、円形部分へ至る道であるわけですが、なぜ円形部分へ向かわねばならないかというと、それはやはり祭祀の斎行が目的であったと推定されます。さ…

巣山古墳の造り出しの写真は面白かったです。しかし、発掘調査というのはどのように行っているのでしょうか。場所全体が遺跡だとすると、足跡など絶対付けられないと思うのですが。

まあそうですね。ただし、遺跡の埋没している地層には幾重にも新しい土砂の層が堆積していますので、まず小規模の穴で試掘をしてから、だんだんと目的の層へ向かって地面を削り取ってゆく形になります。全面遺跡といっても、その面のすべてに重要な遺物・遺…

纒向遺跡から出土した土器が、日本各地からのものだと分かったのはなぜですか。

ひとつは形状・形式で、同時代の各地から出土している特徴的な土器と同種のものが発掘されていること。もうひとつは胎土(土器の材料となった土)で、その化学組成を調べることで、どの地方で作成されたものなのかが突き止められます。纒向遺跡から出土した…

日本では性信仰が強かったようですが、例えば『聖書』では創世記に「裸が恥ずかしい」という記述があります。日本で性的なものがタブーとされたのはいつなのでしょうか。

古代日本は、中国儒教の礼の秩序を採り入れて、6〜7世紀から様々な風俗改正を行ってゆきます。しかし、その浸透は上層階級に限定され、一般の人々は長く奔放な性への信仰を保持していたと思われます。古代の文献史料にも、時折、都市や村落で流行した過激…

神武天皇は実在したのでしょうか。 / 神武天皇など、神話とされる時代の天皇は7〜8世紀頃、天武・持統あたりに作られたといわれていますが、どう思いますか?

『日本書紀』『古事記』に載る系譜上の天皇=大王のうち、実在の間違いないのは雄略天皇〜継体天皇前後からでしょう。雄略が倭王武、ワカタケル大王とすれば、その名前は複数の同時代史料に確認できます。しかし継体天皇に至るまでの間は、系譜的に捏造の行…

古墳時代に日本に存在した国は、邪馬台国以外にはどのようなものがあったのですか。 / 邪馬台国は九州と畿内どちらにあったと思いますか。 / 箸墓が卑弥呼の墓とされるのは、どのような理由からですか。

当時の日本列島に邪馬台国以外にも国のあったことは、『魏書』東夷伝/倭人条によって確認できます。記載があるのは、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国…

薪炭材の燃え残りから樹種が特定できるのですか。 / 「森林伐採が進み、アカマツが多用されるようになった」とありますが、森林の減少が洪水の増加などを引き起こしたため、王が広葉樹の伐採を躊躇したとは考えられないでしょうか。

樹木の組織が残っていれば、その構造からある程度樹種を特定できるのです。また、講義でもお話ししたように須恵器生産は周辺の森林を伐採して移動してゆくもので、遠方からの薪炭材の運搬は行っていません。そうした労力を投入するなら、森林の近くに登り窯…

古墳や墳丘墓の形式が次第に伝播してゆくのは、人々の移動が大規模になったということでしょうか。

確かに人の移動の問題もありますが、墳丘墓や古墳の形式の伝播は、政治的連盟関係、連合関係の証として形式が付与されたものだと考えられています。同じ形式の王墓を持つことによって、同一の政治的グループであることを標榜するわけですね。しかしそのため…

古墳は、中国にも似たようなものが存在するのでしょうか。 / 新羅あたりにある古墳が日本の古墳のルーツなのですか。 / 日本の古墳が中国や半島に影響を与えたということはないのでしょうか。

次回お話しする横穴式石室のように、日本の古墳は明らかに大陸、半島の形式を受け継いでいます。横穴式石室自体は半島の発明で、墓室内に様々な壁画を描くことは、中国で流行した形式でした。しかし、前方後円墳に至る展開は列島独自のもので、弥生文化から…

ピラミッドやマヤの神殿などには頂点がありますが、日本の古墳は平たい印象があります。高さよりも大きさの方が権力を表せたのでしょうか。 / 前方後円墳は鍵穴の形で写真・図に出ていますが、正面は方形のほうとみてよいですか。 / 前方後円墳は周濠に取り巻かれていますが、その水には何か意味があるのでしょうか。 / 前方後円墳を作るのにはどれくらいの年月がかかったのでしょうか。また、それは王の死後に造営を始めるのですか、それとも王の死を見越して準備しておくのですか。 / 古墳の築造において、役夫たちの士気を保っていた

確かに、ピラミッドほどの高さは必要とはしていなかったのでしょうね。あの人工的景観自体当時としては異様で、被支配者へ訴えかけるインパクトは相当なものであったと推測されます。また、その形状自体が神仙的世界を体現しており、宗教的に高度な意味づけ…

天皇家の陵墓は、なぜ発掘調査できないのですか。

天皇家の陵墓の発掘は、管理者の宮内庁によって禁止されているのです。ありていにいえば、発掘によって神武以来の歴史=神話が崩壊してしまうのを防ぐためですね。発掘から浮かび上がる考古学事実によって、皇室や象徴天皇制を支えている『日本書紀』『古事記…

四隅突出型墳丘墓などには、何か祭祀的な意味はなかったのでしょうか。

高坏や壺などが出土していますので、何らかの墓前祭祀は行われていたと思われます。それが単なる喪葬儀礼の一種なのか、あるいは神人共食の直会なのか。詳しいことは判明していません。しかし、プロジェクターで映した西谷3号墳からは、吉備の特殊器台・特…

青銅器の製作は、各集落ごとに行われていた形跡があるのでしょうか。それとも、一部のムラが製作を担っていたのですか。

鉄器と同様、すべてのムラで青銅器が製作されていたわけではありません。青銅の材料である銅・錫を大陸・半島から入手しやすい場所(そういった氏族とネットワークが築かれている場所)で、しかも鋳造・加工技術が発達しているところですので、空間的に大き…

銅鐸が祭祀目的に使用されていた根拠とは、何でしょうか。普通に鳴らして使われていた可能性はなかったのですか。

まず古代世界あるいは民族世界において、もともと音楽が、神を招く環境を作り出す道具であったことが挙げられます。現在でも、そのジャンルに関わりなく、音楽は一種の陶酔状態をもたらします。シャーマンに神霊が憑依するような心理状態を生み出すのに、音…

青銅器を大量に出土した遺跡が島根県に集中しているのは、出雲の神話的風土と関係しているのでしょうか。

奉献説や贈与説は間違っていないと思うのですが、出雲についてはそれとともに、早くに青銅器祭祀を放棄して墳丘祭祀に移行した点も併せ考えるべきなのでしょう。近畿や北九州に比べ、山陰では早期に四隅突出型の墳丘や特殊器台を用いた祭祀形式が採用され、…

青銅器は壊れやすいので実用に向いていなかったと習いましたが、それは関係ないのでしょうか?

あくまで鉄器に比べてということで、とうぜん石器や木製品より丈夫です。列島で使用され始めた頃の青銅器は、武器は刃の部分も小さく鋭く研磨がかけられていたり、銅鐸は内側に舌が付いていたりその痕跡が認められるので、明らかに実用品だったと考えられて…

「八百万の神」という考え方は、いつ頃から始まったのでしょうか。

「八百万」の言葉が確認されるのは8世紀段階ですので、厳密には7世紀前後の開始とみるべきでしょう。当然、森羅万象に精霊的存在をみるアニミズムは縄文時代から行われていたと思われますが、「八百万」の思想は、神々の間に天神/地祇の区別を設け、ある…

今ある神社は、すべて独立棟持柱を持っているのでしょうか。 / 弥生時代の建物は、どのように復原されたのでしょうか。なぜ独立棟持柱があると推定できたのですか。 / 日本に巨大建築を建てるほどの巨木があったのでしょうか。

独立棟持柱を有するのは、伊勢神宮の社殿に起源する神明造の神社建築です。これを神社建築の古態と考え、その原型を弥生の巨大建築にみるのが「弥生神殿論」です。池上曽根遺跡の巨大建築は、遺跡に残る柱穴や、各種の土器絵画などを参考に、現在の姿を想定…

韓国では旧石器時代にドルメン、すなわち石への信仰が存在していましたが、日本にはそういった遺跡・遺構はないのでしょうか。

以前に紹介したストーンサークルは、ドルメンの一種ということができるでしょう。古墳時代になると、神を招く場所、神の宿る場所として巨石=磐座が広く認識され、歴史時代の神社の原型のひとつを形成することになります。山水を背景に持つ古代神社の多くは…

穂落神として崇められたというツルと米との関係について、「ツルも米も白いもの」というのは、米が精米された情況でのみ成り立つ連想ではないでしょうか。弥生時代から精米の技術はあったのでしょうか?

日本列島において穂落神として確認できる鳥はツルですが、講義でもお話ししたようにこれは中世になってからの話です。考古学ではこれを銅鐸・土器絵画の長頚・長脚鳥に援用し、ツルやサギであるとの解釈を持ち出しているわけです。中世のツル信仰は、精米さ…

平安時代には宮廷などで愛玩動物を飼っていたようですが、ペットという概念・嗜好はいつできたのでしょうか。

人類の歴史上、最も早くに家畜化されたのはイヌであるといわれています。彼らは狩猟のパートナーとして、または住居や村落の守護者として、人間と「共生」してきました。縄文時代の貝塚から発見される犬骨には、例えば肋骨・四肢骨が折れて癒着した痕跡のあ…

弥生になって鳥や鹿が信仰され始めると、猪や蛇は信仰されなくなったのでしょうか。

猪や蛇に対する信仰は、古墳時代以降も確認されますので、目立たなくはなっていますが、まったく消えてしまいはしなかったと思います。銅鐸絵画にも、鹿に比べれば圧倒的に少数ですが、猪が描かれる例が存在します。土器絵画には、龍のような正体不明の物体…

鹿と弓を持った人物が描かれている2枚の銅鐸絵画のうち、左側の絵の方には鹿に角がないようにみえます。何か意味があるのでしょうか。

角のない鹿についても、かつて論争がありました。1つの説は、これを角が生え替わって抜けた春の状態を指す、とするもの。もう一方の説は、角のない鹿とある鹿が同時に描かれる例があり、角のない鹿には子鹿が付いていることが多いところから、これを牝鹿で…

日本人は肉を食べるようになって体格が大きくなったと聞いたことがあるのですが、肉食が普通だったということは、ただ単に栄養状態がよくなった結果大きくなったのでしょうか。

肉食が忌避されていなかったといっても、現在のように毎日毎日肉ばかり食べられたわけではありません。それは贅沢なご馳走であり、また滋養強壮などの薬用であって、狩猟によってはまれにしか食べられなかったのです。現在のような供給体制が整備され、日本…