全学共通日本史(09秋)
筋違道は別名太子道ともいわれますが、実際に厩戸王が敷設したものかどうかは分かりません。地図でも分かるように、斑鳩は大和盆地から大阪平野へ抜けてゆく交通の要衝でもあります。碁盤目状の地割は当時飛鳥にも存在しなかったので、飛鳥の宮廷としては、…
『懐風藻』の撰者は、天智天皇の子孫に当たる淡海三船と推測されています。そのためか序文には、天智朝の近江大津宮がヤマトの文芸のオリジンであったこと、それが壬申の乱によって灰燼に帰したため、奈良朝を生きる自分たちがそれを復興させねばならないと…
『聖徳太子伝暦』によって確立される、太子伝の流布が大きな役割を果たしたと考えられます。これらは太子の各年齢の事跡を語る形で構成されており、後には絵伝も作られて広く世に説かれました。仏教諸派はみな太子を日本仏教の開祖として崇めましたが、とく…
最も有名なのは戦前の実証史学者久米邦武で、最近では『隠された十字架』を著した梅原猛などが挙げられます。梅原は、太子の寵臣秦川勝を景教の信者と推測していますが、その仮説には何も根拠がありません。可能性としては否定できませんが、イエスをも含む…
唐本御影のことですね。一般に、向かって左が弟の殖栗皇子、向かって右が息子の山背大兄王とされていますが、この絵像自体、実は誰を描いたものなのかはっきりしていません。伝統的な位置付けは、13世紀に『聖徳太子伝私記』を著した法隆寺僧の顕真が行った…
『日本書紀』自体が、朝鮮や中国に匹敵する文化・歴史を主張したものですので、そこで構築されている聖徳太子のイメージも、中国的偉人・賢人・聖王と同等の存在として創出されたということはできます。それゆえに、東アジアのスタンダードである儒教、道教…
厩戸王に関する、最も古くかつ包括的な記述が『日本書紀』なのです。レジュメでも触れたように、同時代史料として「推古朝遺文」と呼ばれる一連の金石文が存在しますが、それらは断片的で、かつ本当に同時代のものかどうかも疑問視され始めています。用いら…
近接した領域でお互いの成果を参照し補完し合うべきなのですが、最も大きな相違は、歴史学の古代史は文献史料を中心に扱い、考古学は出土資料(遺跡・遺物)を分析するということです。もちろん、考古学者も文献を読めなければいけませんし、古代史学者も遺…
うーん。こういう質問にズバッと答えられなければ、大学の教員として失格なんでしょうね。個人的に感じるのは、いちばん「他者性が強い」分野であるということでしょうか。時代を遡れば遡るほど、感覚や感性、思考のありようなどは現代とかけ離れてゆきます…
石田尚豊編 1997 『聖徳太子事典』柏書房石井公成 2007 「聖徳太子像の再検討―中国仏教と朝鮮仏教の視点から―」『仏教史学研究』50-1大山誠一 1999 『〈聖徳太子〉の誕生』」吉川弘文館 2003 「『日本書紀』の構想」大山誠一編『聖徳太子の真実』平凡社清水…
ぼくはミーハーなので、かつて憧れていたのは坂本龍馬でしたね。大学に合格したとき、京都の龍馬の墓へ報告に行ったこともあります。あとは、宮澤賢治が重要な存在ですね。
例えば『日本書紀』は、8世紀初めに書かれた原本は残っていません。その後、書写し書き継がれた複数系統の写本が存在しており、これは宮内庁書陵部や奈良国立博物館などの研究機関、北野天満宮や熱田神宮などの神社、天理大学や國學院大學などの大学が所蔵…
ハクソンコウは音読み、ハクスキノエは『書紀』の古写本に書かれた訓読みですね。どちらかが正しく、どちらかが間違っているということではありません。
前近代、とくに古代・中世において仏教は総合科学でしたので、その知識のなかには人文・社会・自然科学のあらゆる領域が詰まっていました。ヤマト王権が朝鮮や中国の先進文化を取り入れようとしたとき、仏教を介して摂取・受容するというのがひとつの方策だ…
『天皇記』『国記』は現存しておりませんので実態は不明ですが、後の国史編纂に「帝紀」「旧辞」などが挙げられていることからすれば、前者は大王の系譜を整理したもの(存在したとすれば「大王記」でしょうか)、後者は王室と豪族たちの物語を収めたもの(…
当時の東アジアにおいては、高度な思想・文化の代名詞であった仏教を輸入・理解し、展開させてゆくことが、国家を繁栄させてゆくひとつの方法でした。推古天皇自身がどの程度仏教を信仰していたかは微妙なところですが(仏教や僧侶の行動に疑念を抱いている…
道教は、中国王朝の歴史においては、常に民衆反乱を喚起するきっかけになっています。そのため、ヤマト王権は「体系的宗教としての道教」の輸入を拒みました。しかし、中国で深く浸透した道教の知識や、詩文などの文芸に反映した神仙思想は、否応なく列島に…
これについては学界でも議論のあるところです。森博達氏は、α群の編纂に携わった続守言・薩弘恪の経歴について詳細に調査し、雄略〜舒明紀を担当した続守言が、崇峻紀編纂の途中で何らかの理由(死亡、もしくは病気など)により作業を中断せざるをえなくなり…
東アジアの国家的歴史叙述の原型は中国王朝のそれですが、そこでは史官たちが、各王朝に官僚として奉仕しながら、「天」という君主への忠義とは別次元の秩序を奉じて記録と編集に携わっていました。権力から叙述の変更を要請され、拒み続けて自ら命を絶った…
こういう人が大学で教鞭を執っているとは驚きです。あえて歴史学を擁護する必要性もないような、レベルの低い批判ですね。学問とは極めて奥が深いもので、どこまでいっても答えがみつからない、しかしそれを探し続けなければならない、ということがよくあり…
中国王朝にとっては、やはり、情報のあまりない辺境の小国という認識でしょう。隋の時代には明らかに「蕃夷」であったわけですし、白村江以降正式な国交もなかったわけですから。一方新羅にとっては、東アジアにおける競合国として注意すべき存在であったと…
『日本書紀』は編年体の書物とよく定義されますが、各巻は概ね歴代天皇の一代記になっていて、紀伝体の様式も備えています。紀伝体こそが中国正史のあり方なので、「紀」という名称を用いているわけです。一方の『古事記』は、フルコトフミというヤマト言葉…
各記事によって情況は異なるので一概にはいえませんが、『古事記』の方が赤裸々な伝承が描かれていますね。それ自体が、本来、各豪族の家々や、宮廷内で語られていた先人たちの姿だったのでしょう。これも近現代の感覚と古代の感覚との相違で、大王の滑稽な…
あれは「弩(オホユミ)」ですね。律令国家では各軍団に配備される通常兵器ですが、6〜7世紀の段階ではまだ一般化していませんでした。しかし『日本書紀』推古天皇26年条8月癸酉朔条では、高句麗からの献上品のなかにこの弩がみえます。ドラマでこの武器…
額に像を戴いて誓願する、というのがひとつの作法になっているのでしょうね。正式には像を前に柄香炉などを執って拝礼するのですが、陣中であるために略法で実践したのでしょう。また、太子は観音菩薩の化身であるともいわれますが、観音像は額の宝冠に如来…
『日本書紀』の崇仏論争記事では、豪族たちが神祇派/仏教派に分かれて闘争したように書かれていますが、それはフィクションに過ぎません。どうやら物部氏も仏教を信仰していたらしいことは、勢力範囲から発掘された寺院跡から推測されていますし、蘇我氏も…
精霊自体も殺してしまうということですね。上の回答にもちょっと書いたのですが、アニミズムにも歴史的な諸段階があります。階層・階級や上下の権力関係が希薄な社会形態ではあまりないことですが、強力な権力を持った王や国家が成立してくると、神殺しとい…
すべての殺害の場合に儀礼を行うかというとずいぶん少なくなるかも知れませんが、例えば狩猟に際して行う祭儀や呪いは現在の日本列島にも存在します。いつか映像でおみせしたいと思いますが、例えば高知県の山深い土地にある物部村という集落では、狩猟で得…
アニミズムにも多様な形態や初段階があるので、一概に「こうこう」と決めつけることはできませんが、そうした原始的な宗教形態が息づいている地域では、ヒトの霊魂も肉体から分離できます。やはり動物や植物と同じで、霊魂=精霊が本体なんですね。精霊は人…