日本史特講:古代史(08春)

赤という色に生命や再生のイメージがあるとのことですが、古代人の感覚と現代人の感覚は異なるのではないでしょうか。

とうぜんそうなのですが、生命エネルギーの象徴とみる思想は古代にむしろ強いのです。狩猟採集社会では、現在でも獲物の血を貴重なものとして扱いますし、各宗教ではそれゆえにタブー視する規制も多く存在します。日本の「血の穢れ」もそうでしょうが、『風…

ベンガラはインドのベンガル地方に由来するとのことですが、インドの女性が額に付けている赤い印も、神と関わりのあるものなのでしょうか。

専門外ですが、髪の分け目に付けるのはシンドゥールといって既婚者の証、額の飾りはビンディーといってヒンズーのシンボル、シヴァの第三の目に由来するようです。人間の額に覚醒の印が生じるのはヒンズー以前からの思想で、仏教でも悟りを開いた者の証であ…

『述異記』逸文の羅根生の話について。神の遊び場があったとするなら、その付近で生活することは許されていたのですか。

史料に「この村の傍ら」とあるように、根生が耕作した土地は、ちょうど神の領域/人の領域の境界に位置していたものと思われます。予め祭壇が立っていたように、そこは村人たちが神に供物を捧げるべき場所で、耕作などしてはいけなかったのですね。当然、村…

テレビ番組を観ていると、スピリチュアル・カウンセリングやその他の占いで祖先が分かるといったことをやっていますが、その根拠はどこにあるのでしょうか。

根拠はありません。メディアや商業ベースに乗るようなものは、大部分は虚偽ですので信じてはいけません。だいたい、人間の歴史のなかで、どういう系統の誰々までを先祖とみるかという認識は、時代や地域により大きな違いがあります。それを一元化していいあ…

屈葬が悪霊の動きを抑制するという説が教科書に載り、有力な学説のように扱われているのはなぜですか。また、動物霊が悪霊化することはないのでしょうか。

なぜでしょうねえ。今まで、別だん支配的な学説であったというわけではないと思うのですが。これは、教科書編者が採用していた見解だったというしかないでしょう。動物霊の悪霊化については、先にも触れた両義性という意味ではありえます。アニミズム社会に…

死者に対する埋葬は、本当に死者への礼儀として行われたのだろうか。それとも、自分たちに死が舞い降りることを恐れて祈ったのだろうか。 / 死という悲しみを解決するために、その方法をみえない異界・他界の理の中に見出そうという気持ちがあったように思いました。確かにそこにいた人が死ぬことを「去る」として、どこへ行ってしまったのか自然界や自らの体をヒントにしてまで問いかけてゆく。道を聞く子供のように純粋な疑問が、骨の配置や儀礼に表れているように思いました。

まさに宮澤賢治と妹トシの世界ですね。文献のない縄文の人々の心性を知ることは容易ではありませんが、惜別と哀悼の気持ちは間違いなくあったでしょう。呪術や儀礼の発端には、そうした個々の情念、感性が大きく関わっているのだと思います。ただしそれが共…

埋葬体形区分の第七・第八地域において、外部から別の葬法が入ってきたとすると、その起源としては中国や朝鮮半島が考えられますが、それらの国々にも特徴的な葬法があったのですか。 / 屈葬についてですが、二分化地域の「海に開かれていたから」という理由に疑問を持ちました。海と接しているのはどこでも同じではないでしょうか。

北九州とそれに連なる瀬戸内〜畿内、東海という地域は、海流などの関係で海の道が通っていたので、外部からの文化が入りやすく、常に異文化接触を生じ複合的な文化形態(いうなればクレオール)を構築していた地域なのです。よって弥生時代、古墳時代におい…

屈葬が再生を祈願し伸展葬が死の抽象化を示すとしたら、時代の経過とともに生きている人間と遺体との距離は遠くなったのでしょうか。

屈葬と伸展葬、どちらの方がよいということはあるのでしょうか。

何を基準に価値判断するかということで、絶対的な良し悪しはありませんね。ただ、屈葬の方が遺体を損壊する確率は高いので、現代的感覚からいうと〈悪い〉ものということになるでしょう。しかし、火葬が損壊の最も甚だしいものでははあるのですが。

動物の種類によって、神聖視されたり災いをもたらすとされたりしたのでしょうか。また、イルカは食用とされたのですか。

文献が残ってくるとはっきりするのですが、縄文時代においては分からないことが多いですね。しかし、一般に神的存在は、力の強いものほどプラスの恩恵/マイナスの災難とも大きいものです。日本の古代においては、神もよく祭れば幸いをもたらし、侮れば災い…

我が家ではペットを火葬にすることに抵抗があり、庭の隅に毛布やドッグフードとともに埋葬しています。動物の埋葬に関してはどのようなことがいえるのでしょう。

昨年、愛知県田原市の吉胡貝塚(縄文時代後期〜晩期)で、乳児と子犬が合葬されていたとして話題になりました。狩猟などに使われ人間と親しい関係にあった証拠であるといわれています。しかし、私は少々そういう現代的見方に疑問を持っていて、中国での犬の…

私の祖父のお骨は少量ずつ数ヶ所に分けて納められています。関東ではそうしたことはしないのですか。

分骨ですね。関東でもあります。この慣習を支えるメンタリティーが、仏教の舎利信仰に由来するのか、それとも縄文以来の骨に対する意識に繋がるのか、考察してみると面白い問題です。

骨を遺棄できる関西とできない関東のメンタリティーには、どのような相違があるのでしょう。

骨を遺棄できるから関西は薄情冷淡で、関東は温厚篤実であるということではないでしょう。講義でお話ししたように、京都の存在によって王朝国家のケガレ観が強く浸透した関西では、骨に対する忌避意識も周辺より高くなったのではないでしょうか。また、葬式…

関西と関東で骨に対する穢れの意識が異なるのなら、墓参の習慣にも違いがあるのでしょうか。私は関西出身ですが、毎年命日には親族が集まり墓参りをします。関東ではしないのですか?

これは宗派によって違いがあるのだと思います。しかし浄土真宗に限っていえば、関西では月忌法要も欠かさず勤修しているようですね。京都には本山があり、大阪はもとの寺町でしたから、檀家と檀那寺との結びつきが緊密なのでしょう。関東でも墓参りはありま…

そもそも、死=穢れなのはなぜでしょう。私にとって死者は違う世界へ行った者であり、恐れの気持ちはありますが穢れという観念はないように思います。

穢れとは何かを解明することは、宗教学・人類学・民族学・歴史学などにおける大きな課題なのです。その追究の歴史については、拙稿「ケガレをめぐる理論の展開」(服藤早苗他編『ケガレの文化史』森話社、2005年)を参照してください。日本古代においては、…

熊野では以前に風葬が行われていて、烏に遺体を啄ませており、その際に「ケガレ」「生命の再生に重要な役割を持つ神聖な動物」というイメージが分かれたと聞きました。現在の烏の印象は前者が強く残ったものでしょうが、他にも死体を処理した動物はいたはずなのに、烏のみにそうしたイメージがあるのは不思議です。

烏には、もともと中国から引き継いだ神的イメージがあります。太陽のなかに住むとされた三本足の烏は、そのままタカミムスビの使者であるヤタガラスとなり、神武を導きます。熊野の烏はこのヤタガラスですね。他にも厳島神社など、烏を神もしくはその使者と…

遺棄葬は骨に対する執着があまりないように感じるのですが、中世日本の庶民にとって「骨」とはどんなものだったのでしょう。

詳しくは後日扱いますが、霊魂のメディアとはいえないようですね。ただし、白骨化したあとに洗浄し、拾い集めてもう一度埋葬するという事例もありますので、中世庶民全体が骨に対し淡泊であったとはいいきれません。

三牲に羊が含まれていますが、『聖書』にも代表的犠牲獣として登場します。なぜ東西で重要な位置づけをされているのでしょう。また、日本ではどう考えられていたのですか?

羊は牧畜の生業に関わる犠牲獣です。ユダヤ・キリスト教的文脈においても、中国的文脈においても同様です。羊を遊牧・放牧する慣習のなかった日本では、馴染みの薄い獣であったと思われます。

三牲に「豕」が含まれていますが、「宀」=廟とすると、「家」は「豕」を犠牲に捧げる場所という意味になるのでしょうか。

白川静『字統』によれば、金文では「家」の「豕」の部分は「犬」となっているようです。つまり、犬を供犠する祓除の建築儀礼を行って建てたもの、甲骨卜辞では祖先を祀る施設を指すらしいですね。祖先に捧げる供物としての豕と、祓除の役割を果たす犬が、後…

中国の南宋時代の武将岳飛は、金対策をめぐって秦檜と対立し謀殺されたものの、その後祀られて神となり、一方の秦檜は売国奴として堕とされました。しかし日本では、菅原道真は神格化されても、政敵の藤原時平は堕とされていません。これは、日本以上に中国が死者の厲鬼を恐れているとみてよいのでしょうか。

まずはケースバイケースでしょうね。岳飛の場合は漢民族と女真族との戦争という背景があり、後世の評価も中華思想によって大きく偏向してしまっています。同じ漢民族のなかならば、例えば神格化される関羽を倒した呂蒙や曹操は、祟りを受けて頓死したとの伝…

別の授業で、「人は自分が死ぬときに自らの死を認識することが大事であり、死を認識できない突然の事故死などは恐ろしいことだ」と聞きました。幼児の厲鬼が帰ってくることについて、幼いために自分の死が認識できず生前のように暮らしている、その結果家に被害が出てしまうとは考えられないでしょうか。

戦国期の中国人がそう考えたのではないか、ということですね。ありえないことではありません。ただ、睡虎地日書『詰』の文言からみる限り、幼児の死者もまた教え諭すというより祓除されているので、そこに微細な心情の動きを読み取ることはできません。私も…

「骨と祖先」の単元の参考文献です。後日増補の可能性あり。

アリエス/伊藤・成瀬訳 1983(1975)『死と歴史―西欧中世から現代へ―』みすず書房イェンゼン/大林・牛島・樋口訳 1977(1966)『殺された女神の神話』弘文堂磯前順一 1994 「土偶の儀礼過程」同『土偶と仮面・縄文社会の宗教構造』校倉書房市毛勲 1998 『…

「鬼」と「帰」の音が同じだというだけで、その漢字の持つイメージが合体するものなのか。中国語では違う発音のはずだが。

もっともな質問ですね。現代中国語では、「鬼」はgui(三声)、「帰」はgui(一声)です。古代的な音韻は不明ですが、音感が似ていたことは確かでしょう。4/18の講義で解説しますが、問題はこの二文字が連続して現れるフレーズです。最初は論理的な結合であ…

日本では、僧道昭が初の火葬の例といいますが、これは、史料1にみられる「鬼の之帰る」と似たような考えが広まりをみた結果といえるのでしょうか。

道昭の場合は、あくまで仏教の伝統的葬法に倣ったとみるべきでしょう。彼は唐へ留学して玄奘三蔵に師事しましたが、玄奘の周辺には西域の火葬情報が集積されていたと考えられます。当時の中国でも火葬は珍しくなく、玄奘自身も荼毘に付されています。道昭は…

なぜ、鹿のふんで母の霊は消えてしまうのでしょう。史料1にもあったように、何か燃やして、その煙で消えさせることもできたのではないでしょうか。

史料2のことでしょうか。これは鹿ではなく豚の糞ですね。これを焼くということは、恐らくは臭いや煙で撃退するということでしょうが、豚が中国でいう三牲のひとつ、典型的な犠牲獣であったこととも関連すると思われます。つまり、豚は祖先祭祀の供物として…

私たちは悪いことが起これば悪霊のせいにして、願いごとがあるときや重要な局面においては、「天国の○○が見てくれている」などと言います。これは、単に現代人の都合よい解釈なのでしょうか。

カトリック大学の立場からすると、答えるのに難しい質問ですね。要は信仰の問題でしょう。生きている我々の側に確とした信仰があれば、一概に「都合のよい解釈」とはいえないと思います。ただし、普段まったく忘却しているのに苦しいときの神頼みのように想…