日本史特講:古代史(09春)

神体山の話を聞いて、『千と千尋の神隠し』のなかで、コミで汚染された川の神が出てくるエピソードを想い出しました。日本ではこのような話が多いのでしょうか?

神殺しというより、人間の開発行為によって神が苦しむという物語ですね。これは、古代においてはあまり出てこないのですが、中世付近になってきますと時折見受けられるようになります。神の地位が、人々のメンタリティーのなかで動揺している結果でしょう。…

アマルガム鍍金についてですが、秦氏自身がこの用法に関連したという例はあるのでしょうか。

現在、奈良時代の仏工として名前の分かっている人は17人いますが、そのうち2人が秦氏です。秦自体の規模が大きいことはもちろんですが、それでも2/17というのは結構大きな比率でしょう。17人のなかには丹生を扱う息長丹生氏もいますが、秦氏が鍍金の作業に…

埼玉にある「羽生」市も、丹生と関係するのでしょうか?

埼玉のハニウは恐らく「埴生」で、埴輪の転訛したものと考えられているようです。ニウの名のある地名は水銀と関わるものが多いのですが、それも正確にはケース・バイ・ケースで、個別の検討を厳密に加える必要があります。

朱の用途は、埋葬の施朱以外に何があったのでしょう?

顔料なので、やはり絵を描くのに用いられていますね。秦氏には、「簀秦画師」という複姓を持った者もおり、注意されます。

赤は破邪の色彩だそうですが、冠位十二階の色も含め、日本古代の人々の色に対するメンタリティーは大陸の影響を受けていたのでしょうか。

もちろんです。日本の色彩への感性は、中国との関わりのなかで培われていったといっていいでしょう。自然現象の種類、植物や動物の種類にしても、古墳時代の列島の人々は、さほど豊かに認知できてはいかなったと思われます。それが、漢籍類書(百科事典)の…

「秦王国」の記述に驚きました。中国の史書の信憑性が怪しいという点においてみると、邪馬台国の存在も問題となるのでしょうか?

邪馬台国は魏へ朝貢していますから、存在自体は認めていいでしょう。しかしその行程の記述は、以前から様々な学説があるように、恐らく正確ではありません。魏にとって邪馬台国など「取るに足らない」存在でしょうから、あまり気にとめなかったのが真相だと…

「秦王国」という記述があるように、豊前は日本と対等の位置付けをされていたのでしょうか?

対馬や壱岐、筑紫に対しても「国」としていますので、小国が連合しているような姿を思い浮かべていたのかも知れません。ヤマトがその盟主なのだということでしょうね。6〜7世紀段階でいえば、それは案外正鵠を射ている見方だったともいえるでしょう。

先生は、最初の方で『三国無双』の話をされていましたが、日本史以外にも興味があるのですか?

ありますねえ。ふだん読んでいる文献からすると、分野としては、日本古代史がいちばん少ないかも知れません。学生時代は、歴史でいえば西洋史のアナール学派、人類学や社会学、宗教学、哲学の本ばかり読んでいました。よって方法論的には、いまでもフランス…

実をいうと基礎知識が足りず、講義の内容に付いていけません。授業で扱う分野についての、初心者向けの概説書などはありませんか。

広汎かつ専門的な領域を扱っているので、全体をカバーするような概説書、入門書はありません。古代史のプレゼミ等で「参考にしうる概説書の最新のもの」として紹介するのは、講談社の『日本の歴史』シリーズ26巻と吉川弘文館の『日本の時代史』シリーズ30巻…

最近の考古学関係のニュースで、「古墳の分析により、邪馬台国奈良説の可能性が高くなってきた」とありました。先生はどう思いますか?

以前にもどこかで話をしたことがあるのですが、現在歴博が大きく主張している見解は、放射性炭素同位体による絶対年代の分析方法が変わり、年代スケールが大きく変更されたことに拠っています。歴博では、とうぜんそのスケールの正当性を喧伝していますが、…

龍骨が漢方薬の材料として使われていたというのが興味深かったです。当時、薬はどの身分のひとまで使用できたのでしょう。

民間医療には、さまざまな薬石や薬草が用いられ、庶民にも利用されていたでしょう。しかし、中国医学に基づく投薬ということになれば、飢饉や疫病に対応した賑恤政策ででもない限り、民間には触れる機会はなかったと思われます。

史料32のなかに「尼寺」が出てきますが、この時代から尼寺というものが存在していたのですか。

驚くなかれ、日本最初の寺院は尼寺だったのです。そして、日本最初の出家者は女性です。ともに蘇我馬子の仏教行政に関わるもので、寺は豊浦寺、稲目が向原宅を喜捨した向原寺に由来します。出家者は司馬達等ら渡来人の娘で、恵禅尼・禅蔵尼とともに高句麗僧…

秦氏が政治の中心から退くというのは、中央との関わりを完全に断ってしまったということですか。 / 蘇我氏が没落したからというだけで、秦氏は政界から身を引いたのですか。

「蘇我氏が没落したから」というのではなく、政界の混乱に巻き込まれるのを避けたということだと思われます。例えば、やはり上宮王家と密接な繋がりを持っていた小野氏(妹子らを輩出)も、同じ7世紀後半〜8世紀、中央から姿を消し本拠の近江国に引き籠も…

山背大兄王が、なぜ弟である泊瀬王や父親の寵臣であった摩理勢よりも蘇我氏に味方したのか、よく分かりませんでした。彼は、そのことによって自分が孤立するとは思わなかったのでしょうか。

山背大兄にも即位の野心はあったと思われますが、父親の教えに従ったものか、結局兵乱になることを嫌ったのでしょう。また、摩理勢事件の直前には、山背は蝦夷と何度も繰り返し意見交換をしています(その意見はすれ違いがちなのですが)。どうなろうと蝦夷…

『書紀』の墓所破壊の記述・古墳の機能が面白かったです。首長霊継承の祭祀・饗宴の説明も、『書紀』の記述として説明されているのでしょうか。

古墳にどのような機能があったのかについては、実は充分には立証されていないのです。首長霊継承祭祀の場であるという考え方が最も有力ですが、もちろんそれを否定する見解もあります。『書紀』にはそのものズバリの記述は存在しないのですが、散見する「天…

石川麻呂、摩理勢のように反乱を起こして死んだ場合、その職掌は蘇我氏の誰かに引き継がれるのでしょうか。あるいは没収されてしまうのでしょうか?

石川麻呂の場合をみると、その財産は中大兄が命令して収公しています。職掌の任命は、それが公のものであれば大王の権限ですから、一度大王のもとに返還され、群臣の意見を聞いたうえで適任者が選出されたものと思います。当然、朝廷を把握している人間の意…

蘇我石川麻呂の娘が異母弟日向に奪われたとの話は、近親相姦になるのではないかと思います。大王家内部での伝はあるとしても、臣下の事例は処断の対象になったのでしょうか?

唐律で最大のタブーとされた十悪には近親婚(「内乱」)が含まれていますが、それを継承した日本の律令では八虐となり、近親相姦は除かれています。唯一規定があるのは父祖の妻との奸で徒三年、唐律が父祖の妾との奸でさえ絞なのに対し、明らかに軽い処罰で…

石川麻呂の子の「秦」が気になるのですが、職掌以外で「秦」と出てくるのは珍しいのではないでしょうか?

他に事例がないわけではありませんが、どう考えていいか悩むパターンではありますね。ただし、藤原不比等が、幼少期に田辺史大隅の家で養育されたために「フヒト」と名付けられたことからすると、蘇我秦も、秦氏との関係を全体に考えた方がいいように思いま…

今回の講義のなかで、秦氏と蘇我氏が協力して寺院を建造したとありましたが、当時の建造ではどのような協力体制が採られたのでしょう。

考えうることは、1)人の移動(工人どうしが協力して活動する)、2)モノの移動(瓦などの物品のみが供与される)、3)技術の移動(建築・造営に関する専門技術が供与される)の3パターンとそれらの組み合わせです。具体的に、各寺院でどの形式が採られたか…

『日本書紀』は、朝鮮などの記事について改竄された箇所が多いとされていますが、国内のことは信用していいのでしょうか?

もちろん、きちんとした史料批判が必要です。崇仏論争については以前お話ししたとおりですし、大化改新をめぐる記述にも様々な潤色があります。聖徳太子関係記事も然りでしょう。現段階では、『書紀』各巻の成立時期が概ね判明してきており、使用された漢籍…

唐制で大蔵に当たる官司はなかったのでしょうか。

法円坂倉庫群や鳴滝遺跡の図をみて疑問に思ったのですが、黒丸の柱の跡は、なぜこんなにも位置や数がばらばらなのでしょう。

全体を発掘するとある程度のプランがみえてくるのですが、実際は、プランどおりに柱穴が見つからない場合や、微妙にずれている場合、あるいは重複して検出される場合などがあります。それは、短期間のうちに建て替えが起きたり、一部で地層の攪乱が起こった…

「弓末の調査」=肉・皮革といった説明がありましたが、農作物はどうだったのでしょう。

稲については、やはり、神や共同体の首長へ初穂貢上の儀礼があったものと考えられています。それを受け取って食すことが、支配の確認の意味を持ったんですね。これは律令制に採り入れられて、租庸調の「租」に位置付けられてゆきます。

葛野郡の班田図をみて、こんな昔に記号で土地利用状況を表していたと知り、写真のない時代でも何とか土地の様子を記録しようとした努力の結果と思いました。

これは私の説明不足でした。実際の葛野郡班田図をみますと、各地域の情況はマスのなかに「山」「林」「庄田」「陸田」などと文字で書いてあります。それを分かりやすく記号化したものをみていただいたわけです。

史料20で奴理能美は大后に三種の虫を献上したとありますが、なぜ天皇ではなかったのでしょう。また、その後大后は宮に帰ったのでしょうか?

前後には蚕や桑を詠み込んだ歌も出てきますので、やはり講義でも紹介した、后妃の行う年中行事としての養蚕の問題と関係があるのでしょう。ちなみに、大后の石之比売は、『古事記』では和解して仁徳天皇のもとへ戻っていますが、『書紀』では筒城宮に留まり…

『大安寺縁起』に書かれている九重塔の破壊は、火災という可能性はないのでしょうか。

可能性としてはゼロではありませんが、やはり子部神社の性格を考えると雷の可能性が高いと思われます。それに、仏塔の焼失原因として、史料上最も頻繁に現れるのが「落雷」なんですよね。例えば『続日本紀』宝亀三年(772)4月己夘条に、「西大寺の西塔に震…

史料19でもみましたように、蚕や蝶などが神聖視されている印象を受けます。やはり、変態するものは信仰の対象になりやすいのでしょうか?

脱皮する蛇といい、オタマジャクシから変態するカエルといい、やはり変態するものには神聖視される場合が多いですね。それは偏に、満ち欠けする月のように、変態を死と再生のありさまと捉えたからでしょう。日本に限らず、自然の法則を〈生から死、死から再…

隼人が呪術的なことに長けていたなら、その起源は縄文・弥生のシャーマニズムにまで遡れるのでしょうか。

直接的な繋がりを求めるのは困難かも知れませんが、当然、列島で培われてきた宗教的知識・技術が用いられていたことは確かでしょう。現在の沖縄やアイヌに古代的な文化が多く残されていることからすれば、可能性は否定できません。弥生のシャーマニズムは鳥…

魔除け・雷避けに緋・丹などの赤色が使われていたのが興味深かったです。秦氏が丹の製造に関わっていたとのことですが、それが呪術用に使われていたと直接書いてある書物などはあるのでしょうか。

朱砂や丹の生産については、次回以降に詳しく説明しますが、「秦氏が生産した朱丹を呪術に用いていた」と直接的に示す史料はありません。ただし、彼らが生産に関与していたことは、鉱山や山地の分布と秦氏の分布の重複、赤染氏など朱丹に直接関わる氏族との…

衢の話は面白かったです。交差点で邪なものを祓う必要があるとのことでしたが、現代でも交差点では事故が多いですね。古代の衢と現在の交差点には、何か繋がりがある気がします。

その通りです。交差点で事故が起こりやすいというのは重要な要素で、様々な文物が四方から行き交う交差点は、現在でも非日常の空間として認識されがちです。そうしたいわゆる境界領域では、人間は幾許かの緊張と不安を生じるもので、現代の都市伝説の多くも…