日本史特講:古代史(14春)

デュルケームのところで、「神とは社会のことだ」といった論が出て来ましたが、神学の授業で「神概念がこの世から消えることはなく、消えたとしたら人間は人間として存在できない」との話が出て来ました。私は神というものにあまり実感が湧かないのですが、神の存在は不可欠なのでしょうか。

カミという名称で呼ぶかどうかは別として、何らかの超越的な概念は、確かになくならないかもしれません。というのは、人間がこの世界で生存してゆくために、自己を正当化する、あるいは防衛する材料・手段としてそれが必要になってくるからです。とくに、例…

シニフィアン/シニフィエの結びつきの恣意性についてですが、例えば人の名前も同じように考えられるでしょうか。子供に父親と同じ名前を付ける文化がありますが、このような場合、その人個人の実在はあやふやになってしまうような気がするのですが…。

子供に付与される時点での父親の名前をシニフィアン/シニフィエに分けて考えてみますと、シニフィアンには例えばドナルドという音声記号、シニフィエには父親の風采・言動・生涯など、ドナルドを定義づける種々の意味内容が相当します。このような「名前」…

神話と聞いて、梅原猛氏の「古代人は単にメルヘンとして神話を語らない。すべては政治的な出来事等をもとにしたものだ」との言葉を想い出しましたが、先生はどう考えますか?

梅原氏は、以前同じ雑誌に書いたことがありますが、先行研究に関する彼の不勉強さと、思い込みの強さはよく知っています。「神話はすべて政治的なもの」というのは、彼が国家レベルの神話、すなわち権力によって文章として残されたものしか対象にしていない…

いざなぎ流神道についてですが、高知県物部村に、なぜあのような民俗信仰が残ったのでしょうか。

いざなぎ流神道を、古代の陰陽道に直結して考えるのは、どうも正しくないようです。近世には、列島の広範囲に「太夫」と呼ばれる民間陰陽師が活躍していましたので、その系譜に連なるものなのでしょう。また、四国や中国の山深い地域には、周囲との交流を最…

骨卜が未だ日本で行われているということに驚きを隠せなかった。現在それはどのようなあり方で実践されているのか、当初と変わらず呪術としてなのか、あるいは観光の一種としてなのでしょうか。

骨卜・亀卜は、それを最重要の卜占と位置づけていた中国においても、そのあり方を踏襲した日本においても、世界を把握するための最新の科学であったわけですから、現代的な意味での「呪術」という表現は、必ずしも正しくはありません。しかしそれが、古代以…

東巴経典の話が興味深かったです。絵文字で書かれているとのことですが、それはなぜ生まれたのか分かっているのでしょうか。エジプトのヒエログリフのように、国全体に広まっているのではなく、経典のみに使用されたものなのですか?解読はされていないのでしょうか?

東巴文字も、やはり

死体化生の考え方は、どのようにして生まれたのでしょうか。

神話の普遍性でよく聞くのは日本神話とギリシア神話が類似しているということですが、これはギリシアから日本へ伝播したという文化圏論的に考えることも可能ですか?

現在、家族や共同体のなかで語られていた民話が観光業に組み込まれてしまい、語り手の意識の変化が問題になっていますが、そうした語りの場で見出せるのは、やはり「現代の民話」ということになるのでしょうか。

口頭伝承が、聴衆の反応によって変化・変質してゆく点が興味深かったです。伝承していくにつれてどのように変化していったのか、記録はやはり残っていないのでしょうか。

デュルケームの議論でいう「社会」とは、いわゆる「民衆社会」でよいのでしょうか。それとも、「貴族社会」「民衆社会」などと区別せずに、「古代社会」など時代ごとで区切るだけでしょうか。

分類の問題、非常に興味深かったです。ソシュールの話は、言語論的転回の話に少し似ているのかなと思いましたが、いかがでしょうか?

歴史学が方法論的な模索や革新を続けることは重要ですが、「語りえぬものについては沈黙しなければならない」という倫理が必要なのではないかと思っています。

喜安朗氏が、「歴史の全体性について」という短い論考のなかで、歴史を「可能態において捉えることがなければ、歴史の全体性に向き合うことはできないだろう」という指摘をされていたのですが、歴史事象における集合性・全体性を考えてみたときに、この「可能態」としての歴史叙述として、具体的にはどのような学派による、どんな研究史的蓄積があるのでしょうか。

日本の昔からの死生観と中国の古代思想との関係を知りたい。

日本列島の死生観も、時代によって大きく変質してきているので、「昔からの」というだけでは難しいのですが、通時代的に中国の影響が大きいことは間違いありません。例えば古墳文化ですが、近年ではやはり中国の神仙思想の枠組みで理解すべき点が多く出てい…

伝説や昔話が歴史を補完しうるということ、その逆もあるのが難しい点と思います。例えば、聖書における伝説のような話も、史料になりうるのでしょうか。

もちろん、『聖書』の伝説も貴重な史料となりえます。聖書考古学のような利用の仕方もありますが、ユダヤにおける神観念、自然観、民族の系譜のあり方、歴史に関する考え方、周辺民族への視線、祭祀の次第や制度など、利用できないところはないくらいです。…

神社は「神」を祀るところというイメージが大きいのですが、将門や他にも「凶霊」とされる人々を鎮めるために祀ったものが、なぜ神社となるのでしょうか。

いわゆるカミのなかにも、動植物に宿るような精霊的なもの、共同体のアイデンティティーとなるような祖霊的なもの、人間と隔絶した極めて高位の至上神など、極めて多様な存在があります。これらのほとんどは、人間の生活を保護・保証する機能を持っています…

神話を全く教えずに、「原始人」からの歴史教育を始めるのも物語性がなく面白みがありません。将門くらいパンチの効いたストーリーも多くあるので、勿体ありません。話者・聴者とも実際のことだと思わないはずなのに、なぜそこまで警戒されるのでしょうか。

やはり、イデオロギー的な問題が大きいからでしょうね。ご存知のように、日本で「神話」というと『日本書紀』や『古事記』のそれを指しますが、これらは王権・国家によって編成された段階の神話ですから、扱いに注意が必要です。近代日本のように、国家の正…

古来から現代まで続く話を、ひとつの言葉で定義づけることは難しいと分かりました。個々によっても、どれに分類できるか見方が変わります。また、将門に因んで「飛梅伝説」などがありますが、明らかに作り物と分かります。このような話も、意味があって作られたのですか。

「飛び梅伝説」は菅原道真ですね。『拾遺和歌集』初出の和歌「東風吹かば にほひをこせよ 梅花 主なしとて 春な忘るな」が起源でしょうが、梅は当時中国文化を象徴する雅な華でもあったので、道真の文化人としての先進性を体現していたともいえます。日本で…

山という存在には、黒山などとの呼称もありますから、確かに神聖性があるのだろうと思います。『遠野物語』の序文「願わくは、これを語りて平地人を戦慄せしめよ」は、どう解釈されますか。

黒田日出男ですね。開発の手が入っていない人跡未踏の山、野生の範疇に入る山ということです。中世から近世にかけて山への介入が進むと、山の領域自体もさまざまに分節され、意味付与されてゆくわけです。『遠野物語』序文については、柳田の二項対立的な文…

浦島太郎の原話には3つあると仰っていましたが、どうして違う書物なのに同じような話が記述されているのでしょう。また、概説では桃太郎の話をしたと仰っていましたが、どのようなお話をされたのですか。

授業ではプリントに載せた『日本書紀』の文しか扱いませんでしたが、そこにある「別巻」が、最も詳しい『丹後国風土記』逸文(微細な部分に相違はあるものの、昔話の浦島太郎に近い内容)に当たるものと考えられています。伊余部馬飼という人物が丹後国守で…

浦島太郎の話を聞いていると、やはり自分たちの住んでいるところとは違う場所が、あの世や神のいる場という認識になりやすいのだなと思いました。同じ海や山であっても、地域によってその認識には差が生まれるのでしょうか。また、『日本書紀』の浦島太郎の話に、海に潜って蓬莱山に至るとなっていますが、海に入って山に至るとはどういうことでしょうか。 / 『日本書紀』の浦嶋子の話では、仙女=亀とされていましたが、占いに使われるのも亀であったりと、当時亀は何か神聖なものとみられていたのでしょうか。

そうですね。神の領域や死者の領域は、概ね自分たちが日常を営んでいる生活圏の外側、海や山などに設定されてゆきます。また、その生活のなかで海や山がどのように捉えられているか、具体的には生業の場としてどのように使われているかによって、神聖化のあ…

浦嶋子伝の採録に関わった伊余部馬飼は、持統天皇3年の撰善言司にも任命されていますが、この官はいわゆる史官の枠組みに入るものでしょうか。また、彼の子孫には『左氏伝』を講義したという家守や、明経道に優れた善道真貞などがいますが、伊余部の一族は学者の家柄といえるのでしょうか。

伊余部氏については、氏族的性格についてはよく分かりませんが、尾張氏や海部氏と同じ火明命を祖としていることから、もとは伊予国にあって海の供御に関わっていた一族(統括する伊余部がそうした部民であったと考えられます)であり、その関連で海上交通、…

「都市伝説」について質問なのですが、これは現代において発生した新しいジャンルと思っていいのでしょうか。また、都市伝説は同時多発的に起きるものなのか、メディアを通して伝播するのか、どちらなのでしょうか。

「都市伝説」は、アメリカの民俗学者ジャン・ハロルド・ブルンヴァンが用いた「urban legend」の翻訳語です。従来の民俗学の術語に従うなら「世間話」の範疇に入るもので、とくに新しい現象というわけではないと思います。ただし、一般に「都市伝説」と呼ば…

平将門は、プリントだけみると災厄をもたらす存在とされていますが、現代の祭りなどでは神の一人として、むしろ地元の人に尊敬されています。これは「伝説」としてでしょうか、それとも「神話」としてでしょうか。

「太古の起源」という要素を重視するなら、厳密な意味では「神話」ではないでしょうね。しかし授業で紹介したバルトのような定義を採用するなら、平将門の歴史的部分が多く捨象され関東救済の英雄へアプリオリ化されているという意味で、「神話」ということ…

昔話などは、長く語り継がれて社会的価値観に適合的になってゆくものが多いと仰っていましたが、それは今でいう童話などの下地ということでしょうか。また、『十訓抄』のように教訓のスタイルで語られているものも、社会に適合的ということでしょうか。

教訓は人間を社会の保守的価値観へ馴致する機能を持っていますので、多く社会に適合的であるといえるでしょう。ただし、その教訓の機能する社会が特定の集団に限定される場合、集団の性格によっては、逆に一般社会に対抗的となる場合もありえます。私は浄土…

伝説は歴史を補完する場合があるとのことですが、伝説をそのまま受け容れてしまってもいいのでしょうか。その伝説が歴史を補完できるかどうかの検証の方法というものはあるのでしょうか。 / 書いている人が事実と信じていたら伝説になるとすると、歴史として扱ってもよいのか、信憑性は関係ないのかという疑問がある。

書いている人が事実と信じていたら伝説になる、というわけではありません。それを伝承する社会において、事実と認められているかどうかが問題なのです。歴史学でそうした伝説を扱う場合には、同一の事象について信頼できる史料があればそれと比較検討し、ま…

余談ですが、2年前送り火の提灯を川に流してしまいました。この場合、ちゃんとあの世に帰れるんでしょうか。

送り火のなかには、川に流す類のものもあります。日本では、長崎の精霊流しが有名ですが、同じような儀式は中国にもありますね。もともと、川は遡って行くと神々や仙人の世界へ、下って行くと死者の世界へ辿り着くという考え方が、アジアのさまざまな説話や…

日本では、確かに「死」がタブーのようになっていると感じます。世間、メディアなどでも、死を扱う際には、どこか一定の気遣いをしているようです。日本人だけが死に対してここまでタブー視しているのか、欧米などとは死に対する意識が異なるのでしょうか。

確かに、今回の東日本大震災においても、例えば欧米と日本の「死に対する扱い」の違いは、明確になったように思われます。例えば報道ですが、日本のテレビなどでは、津波が押し寄せる様子や被害情況を克明に放送していましたが、人々が流されてゆく様子やご…

境界について質問があります。柳田・水野・佐々木のどの話も時間は夜ですが、境界ということで、夕方が死者と出会う時間にされることはありますか。逢魔が時とはいいますが…。境界の時間と死者はどうなのでしょうか。

夕方の時分は「黄昏」と書いて「たそがれ」と読みますが、これは「誰そ彼」の意味、すなわち「あれは誰だ」ということです。薄暗くなり、ものの具体性、輪郭が曖昧になって、知っている人でも見分けがつきにくい。さまざまなものの境界が曖昧になるというこ…