日本史特講:古代史(15春)

中国では、優秀なエリートしか官職に就けなかったのに対し、氏族制の強かった日本では、その意味で身分の低い者も重要な職務に就きえた。一般庶民がそういった役職にうまく順応できたのでしょうか。

庶民といっても、氏族制下で特殊技術を持つ者、その職務を果たすべき者として教育されていますので、問題はなかったと思います。しかし女医などは、果たして官戸・官婢からあらためて教育するものですので、果たしてどれだけ効果が上がったか疑問があります…

牛乳は当時から飲まれていたのですか。 / 典薬寮では乳戸から牛乳を得ていたとのことですが、どのように運搬されたのでしょうか。生乳では難しいと思うのですが、何らかの加工を施されたのでしょうか。

確かに腐敗の心配はありますが、薬園と同様宮廷の至近に設置されていたのでしょう。宮廷や寺院でも、乳牛を飼育していた記録は残っています(宮中にあった典薬寮別所乳牛院など)。当時の貴族の食生活で乳製品の占める位置は小さくなく、食用・薬用として珍…

平城京の薬園には、輸入された種や苗も植えられていたのでしょうか。いま、漢方薬の本をみると、同種植物でも、日本のもの、中国のものが別の薬剤とされています。

実は、詳しいことはよく分からないのですが、輸入のものは薬種として入ってくるより、調合された薬剤として入ってくる方が多かったようです(環境の相違から栽培できないものも多かったと考えられます)。唐、新羅、渤海との通交のなかで、多くの香薬がもた…

国ごとに配置された医師・医生は、誰を対象に医療を行ったのですか。 / 宮廷以外の一般村落などでは、医療はどのように行われていたのでしょうか。 / 地方の医療は有料だったのでしょうか。

国医師は諸国の医療や医生の教育のほか、典薬寮へ輸進する雑薬の確保、造薬のほか、調使や検田使、班田使として地方行政の代理的業務も担ったようです。問題の医療に関しては、まず官人身分の治療が第一でしょうが、国守の「百姓を守養す」との職務に相応し…

古代において、薬剤などは有用か有用でないか次第に分類されていったのだと思いますが、呪術もそのように効果があるものが残されていったのですか。

呪禁師の治療の成否は、どのように判断されたのでしょうか。 / 呪術はいつまで正式な医術と認識されたのでしょうか。 / 呪術は実際に効果があったために、律令に定められたのでしょうか。それとも思い込みによるものですか。

経絡図に生殖器がなかったのですが、そこまでは針は打たないのでしょうか。

生殖器関係に関連するのは任脈、もしくは督脈です。ちょっとここに書くのは問題があるかもしれませんので、あとは自分で調査を。

針の学問は、当時どの程度効果があったのでしょうか。また、人間の身体に針を刺すという行為は、かなり怖ろしいものだと思いますが、どのように確立した治療法なのでしょうか。

当時の外科の治療は、具体的にどこまで行われたのでしょうか。身体を切る、ということまで行われたのですか。

三国魏の伝説的名医華陀は、『三国志』や『後漢書』の伝において、「麻沸散」による全身麻酔を考案し、腹部開腔手術を行ったと記されています。またこれより先、『漢書』王莽伝では、王莽が王孫慶という人物を捕え、医学のために解体し経脈を確認したとの記…

内薬司で天皇への処方のため薬を試みる際、死亡例などはあったのでしょうか。有能な人材をそうしたことで失ってしまうのは、効率的ではないのではありませんか。

記録上はよく分かりません。しかし、自分の生命においても、天皇の生命の問題からしても、御薬の調合と供進は緊張を強いる作業であったようです。平安時代になると、調合された薬が寺院で加持を受けたり、あるいは医師の家においても、調合に際して陰陽道に…

平安時代になると医師ですら天皇の身体に触れられなくなる、とのことですが、平安以降ずっとそうだったのでしょうか。 / 侍医が直接天皇に触れられない場合、紐や糸などで脈診をすると聞いたことがあるのですが、本当にそれで脈が取れるのでしょうか。 / 侍医は直接触診したいという気持ちを抱いていたのでしょうか。

なぜ中国では、女医が官戸や官婢のような身分から採用されたのでしょうか。

授業でも説明しましたが、中国の後宮に出仕する宮人たちは概ね罪人で、生涯後宮に束縛されて生きることを余儀なくされていました。それゆえに、やはり宮人である女医も最下層の身分から採られていたのです。有力貴族・豪族の子女が奉仕した日本の後宮と比べ…

侍医や女医博士の身分が意外に高かったことに驚きましたが、やはり中国の制度をそのまま採用したのでしょうか。 / 女医の活躍は、律令以外の史料にもみられるのでしょうか。

女医博士は、日本で新たに置かれた官職です。記録をみると、これは女性ではなかったようですね。また、女医の活動については史料がほとんど残っておらず、明らかではありません。例えば平安時代の后妃たちの出産では、女房が奉仕しており女医の姿はみえませ…

穢れ観との関係で、医師が卑賤な仕事と思われたことはなかったのでしょうか。

律令に関して、医師から医博士にかけて記述順が官位相当の順番に沿っていませんが、何か理由があるのですか。

恐らく、博士(教授)と学生をペアで書くためでしょう。陰陽寮でも、陰陽師のあとに、陰陽博士・陰陽生、暦博士・暦生、天文博士・天文生、漏刻博士・漏刻生、の順になっています。

日本は主に中国から医療の知識を得ていたようですが、他の地域からは得ていなかったのですか。

『医心方』をみますと、『百済新集方』『新羅法師方』の書名がみえます。前者は肺病系のものと腫れもの系のもの、後者は仏呪房術に腹部のしこりに関する記述となっています。これらがどう将来されたのかは分かりませんが、中国の医書に引用されていたという…

史料37について、病から快復する過程で食べてよいものについて、海産物が多く記されているのが気になった。

これは私も気になるところです。ただし、五位より下の下級貴族から庶民までの食卓を考えた場合、一般に肉が料理して出されるのは稀なことで、動物タンパクといえば魚介類が主要だったでしょう。当時の贅を極めた長屋王の食卓にも、蛤、鮎、水母、鯉、海鞘、…

正税帳の造進遅延の説明で、先生は「年度」と仰いましたが、すでに「年度」の認識はあったのでしょうか。また、年度はどのようにして出来たものなのですか。

授業でお話ししたのは、あくまで古代の暦年制に則した会計年度であり、現在の4月始まり、3月終わりの年度ではありません。現在の年度は、明治に開始された会計年度に沿ったもので、秋の収穫を待って地租を徴収し、それに基づいて翌年の予算を組み立てる関…

天然痘被害による人手不足などから、身分の上昇が起きるといった例はなかったのでしょうか。

官位相当よりも低い位階の者を、やむをえず高位の官職に就けることはあったと思いますが、残念ながら『続日本紀』などからは痕跡を窺うことはできません。ただし、『続日本紀』天平9年(737)12月壬戌条では、天然痘のために欠員の生じた官司への補填人事が…

正税帳に残る天然痘被害の痕跡について、「豊後はもっとひどかったはず」との説明がありましたが、具体的にはどのような意味でしょうか?

やはり、天然痘が大宰府管内から流行し、各地へ伝播していったためです。同地域では2年前にも大流行が起きていますので、そのときからの疲弊も充分に回復していなかったと考えられます。

当時東国では天然痘の被害が少なかったようですが、被害地域へ食料などを運搬するといったことは行われなかったのでしょうか。

記録には残っていませんが、考えられる対応ではあります。授業で説明しましたとおり、天平10年には諸道に巡察使が派遣され、翌年には郡司層の不正を追及するような措置が頻出します。天然痘の被害が大きく、賑給の相次いだ時期ゆえに不正の入り込む余地も多…

疫病による公出挙の赤字が説明されていたが、桓武天皇期の公出挙の利率引き下げなども、疫病による影響があるのだろうか。

桓武天皇の改革は、自らを新王朝の確立者と位置づけるものでした。中国的な郊祀の制度を導入したり、奈良王朝との決別を図るため、革命を肯定するため同王朝では使用の禁止されていた『春秋公羊伝』を、大学寮の正式な教科書として導入しています。公出挙の…

「日蝕が必ず起きる」とされているのはなぜですか。

これも説明の仕方が悪かったかもしれませんが、当時日蝕は陰陽寮所属の暦博士が暦法を使って予報を出し、毎年正月に天皇へ報告していたのです。中国では太陽は皇帝の象徴であり、日本でも皇祖神アマテラスが太陽の象徴であるように、王権と密接に結びついた…

祥瑞記事・天文密奏の実務官人以外の死亡例はあるのでしょうか。ただの焼失という可能性もあると思うのですが…。 / たくさんの官人が死んだら、記事が抜けるよりもっとひどい被害がある気がするのですが。

私の説明の仕方が悪かったのかもしれませんが、『続日本紀』の一定期間に祥瑞記事・天文密奏がないことは、極めて重大な出来事なのです。授業でも説明しましたが、天文の異変は災異の予兆であり、それは天が行う皇帝への警告・譴責ですので、見誤ると皇帝自…

仏教国家の建設についてですが、光明皇后が女性だからこそ国分尼寺が作られたのでしょうか?

やはりその可能性は高い、と考えられます。国分寺の先例としては、唐の則天武后による大雲寺、中宗の龍興寺、玄宗の開元寺などがありますが、いずれも僧寺・尼寺がセットになったものではありません。光明皇后は、自らに付属する輔弼機関の中宮職を、律令に…

天然痘が天平美術の成立に繋がるのなら、病気が文化を生み出す事例は、何か他にありますか?

パンデミックの際の特赦は、日本独自の文化なのでしょうか、それとも中国に起源があるのですか。

もちろん、中国に先例があります。災害や異変は皇帝の不徳に対する天の譴責であるとの考え方、あるいは刑囚の苦しみによって陰気が増し陰陽のバランスが壊れた結果であるとの見方があり、それぞれ皇帝が自らの不徳や失政を恥じて天に謝罪し、特赦を行うわけ…

天然痘大流行の話を聞いて、ヨーロッパのペストを思い出しました。その猛威によってある言語、ある方言がひとつなくなってしまうほどだったそうですが、日本ではそのようなことはあったのでしょうか。

2回目に参考文献を紹介しながらお話ししましたが、大規模な死者を出したパンデミックとしては、やはり天平期の天然痘、幕末のコレラ、大正期のスパニッシュ・インフルエンザが代表的でしょう。古代〜近世の間にも、何度かそれに匹敵する流行は起きているは…

天然痘大流行は、歴史を変えてしまうほど大きな出来事だったのに、それほど有名ではないのはどうしてなのだろう。

クロスビー『史上最悪のインフルエンザ』では、直前の第一次世界大戦との関係が「忘却」の原因とされてきました。しかしこの場合は、政治史・国家史を重視してきた近代歴史学の枠組みのせいでしょうね。日本史教育もこの考え方に沿って行われてきましたので…

光明子と葛城王が異父兄弟ということは、不比等の側室?が他の男性とも関係があったということでしょうか?

側室というより、不比等の後妻ですね。かつて美努王に嫁していた県犬養宿禰三千代がその人物で、大宝元年(701)には不比等との間に光明子が生まれていますので、少なくともその頃までには美努王のもとを去っていたと考えられます。三千代は15歳で出仕し、草…