日本史特講:古代史(15春)

聖武天皇には障害があったのではないか、との説を以前に読んだことがあります。業病に先天的障害が含まれることはありましたか。

残念なことですが、確かに「不具」(現在は差別語です)が業病と同じ枠組みで語られることもありました。前世で悪業をなしたために、「満足な身体」では生まれてこなかったということですね。さらに注意をしたいのは、本来仏教では個々の生命の行為の報いは…

P4の◎9には「湯薬」という語句があるが、当時の薬は現在の漢方のようなものと考えていいのだろうか。また、製法に関する史料はあるのだろうか。

これについては次回以降、おいおい話をしてゆきます。

◎11に、100歳以上の人民を顕彰する命令があったが、そもそも天然痘が流行しているこの時期に、そこまで生きていられる人がいたのだろうか。

長寿者の褒賞を行うことが天皇の徳の喧伝になるわけですが、対象が何歳であるかは本質的な意味を持たないのです。なお、奈良時代に百歳に到達した庶民は時折あったようです。例えば、宝亀4年(773)の太政官が民部省に下した官符(『大日本古文書』21-283)…

天然痘やハンセン病にかかって亡くなった人は、どのように埋葬されたのでしょうか。

残念ながらその記録は残っていません。高位の人物については、通常と同じように喪葬が行われています。問題は庶民レベルの大量死ですが、火葬は一般的ではありませんし、通常の遺棄葬ですと、不衛生な情況を助長することになります。恐らく、どこかにまとめ…

疫病に感染するかどうかは、当時は運のようなものだったのでしょうか。あるいは、何か必然的な理由は見出せるのでしょうか。

先日の授業でも話をしましたが、やはり衛生的な理由や、飢饉その他による疲弊も大きな原因と思います。いまでもそうですが、身心が健康であれば、人間は病に対してもかなりの抵抗力を発揮するものです。感染力の強い疫病が流行した場合は、やはり身心の気力…

天然痘の流行に際し、神祇信仰の無力に対して仏教を持ち上げたのは、朝廷内で仏教勢力が力を持っていたためでしょうか。

唐から帰国した道慈、そのあとに続く玄纊、良弁などが、宮廷に最新の仏教思想を講説していたことは確かです。7世紀以来、仏教は宗教であるとともに外交の手段であり、最新の知識・技術を包括した文化としての性格を持っていましたので、支配層がこれに急速…

疫神自体を饗応するという祭祀のあり方は新鮮でした。これも八百万の神を敬うからでしょうか。

アニミズムの神霊は、概ね人間に対し、守護もすれば災厄も及ぼすという両義性を持っています。祭祀のあり方が、その両極端の反応を分ける。すなわち同じ神格が、守護神にも祟り神にもなるわけです。例えば皇祖神であるアマテラスは、古代では、天皇に対し最…

道饗祭などの疫神祭祀は、都を守るための宗教的措置ということで、境界を守る神に祈願するとの説があるそうですが、それに類似したものは他にもありますか。

例えば大殿祭ですが、天皇が日常的に起居する大殿の神格化=屋船命、神祇官西院に奉祀される大宮の神格化=大宮売命に対し、祝福の言葉=ホカヒと散酒・散米をもって活性化し、大殿内に邪なものが徘徊しないよう守護を祈る内容になっています。構造としては…

〈夷病〉などという概念が生じたとき、当時の渡来人たちが虐殺の対象になるといったことはなかったのでしょうか。

記録としては残っていません。恐らく民間レベルでは、近代ほど渡来系の人々に対する忌避感は強くなかったのではないかと思います。何世代にも通じて波状的に列島に定着していますので、とくに近畿や西日本は半島との繋がりが深いですし、東国でも、百済滅亡…

天平期の流行について、新羅側ではどのような認識を持っていたのでしょう。新羅には流行に関する記録は残っていないのでしょうか。

『三国史記』などの記述は極めて簡略なので、新羅社会がどのような情況だったのかは分かりません。ただ、聖徳王の治世下には飢饉や地震など天変地異が相次いだとの記録があり、王自身も治世36年(737年=天平9年)の2月に亡くなっています。天然痘の流行と…

「夷」という字はエビスと読むそうですが、エビスというと神様や幸運のイメージがあるので意外です。

エミシからエビスに転訛したもので、文字どおりの夷狄、外敵、辺境の人々、といった意味ですね。『日本書紀』などをみると、元来は強力な男といった、必ずしもマイナスのイメージばかりではなかったようです。中国で東方の蛮族を表す漢字「夷」が当てはめら…

流行病を外敵起源とする発想が中国から直接受け継がれたといえる史料は、まったく存在しないのでしょうか。 / こうした発想は、現代にも影響を与えているのでしょうか。

前回紹介した文献は確実に日本へ将来されていますので、可能性は高いだろうと思います。そうした認識を持った渡来人が数多く入ってきていた、ということも考えられます。ただし、外部から邪なモノが入ってくるのを防がなければならないといった心性は、恐ら…

スペイン風邪ですが、最近ではドラマ『ダウントン・アビー』で出てきたのが印象的でした。

ぼくも毎週観ています。あの作品は、第一次世界大戦で問題化した兵士の心的外傷の問題、大量死の問題などをきちんと表現していたうえ、スペイン風邪の流行までしっかり押さえていたので、安心してみることができました。しかし、ダウントンは世界の縮図です…

「セクシュアリティの悩みか、ジェンダーの悩みか」のところで、先生はほとんどがジェンダーの悩みだと仰いましたが、私は中学生の頃、「男性性器が付いているという理解不能な感覚」にもの凄く関心を持ち、それが知りたくてさまざまに調べたり、とりあえず今生では知りえないと分かり悩んだりしました。これはどちらの悩みに属するのでしょう?

おーっ、それは難しいですねえ。精神分析のまねごとになってしまいますが、異性への関心・興味と自性に対する欠落感が同時に生じているようですね。どこかで(無意識的にでも)自性への圧迫感を感じており、それが異性への一種の憧れとなって表現されている…

日本列島は、他国との全体的な関わりが少ない社会・文化であったと思うのですが、そうすると、日本人は伝染病のようなものに非常に弱いのではないでしょうか。開国後に他国との関わりが増えた後、多くの病が流行するといったことはなかったのでしょうか。

現在の歴史学では、閉鎖的に考えられていた日本列島でも他世界と密接な交流があった、という位置づけに変わってきています。それでも、常に外敵の侵入に怯えながら、それでも多くの文物を吸収し展開させてきたヨーロッパ、アジアの国々と比べれば、閉鎖的だ…

仏教は国家的廃仏を北魏・北周によって受けたとのことですが、そもそも他教との「競合」という概念が生まれたのは、他教に脅かされることを恐れたからでしょうか。

例えば北魏の廃仏などは、寇謙之という道士の唱える天師道=道教を国教にしようとした崔浩が、太武帝を唆し、廃仏を断行させたという経緯があります。仏教は教線を拡大するために、儒教や道教としばしば論争を重ねてきており、そうした経験の果てに「業病」…

ハンセン病や天然痘に罹った人が快癒した場合、彼らに施しをすることによって功徳が積まれるということは、実際にあったのでしょうか。それとも、弾圧の方が強かったのでしょうか。

もちろん、圧倒的に差別され、排除される部分の方が大きいですが、例えば中世説教節『小栗判官』が示すように、その救済に結縁することで善業を積もうという意識も存在したようです。『小栗』では、冥界から蘇った小栗が餓鬼阿弥=ハンセン病者の姿となり、…

帝国医療のところで、「植民地が頼らざるをえなくなる」という話がありましたが、それは戦略として故意に流行させたのでしょうか?

後にはそういう展開もあったかもしれませんが、もともとは開発の展開が偶発的に病の流行を引き起こし、近代医療が投下されるという方策が採られたもので、帝国側の無策と場当たり的な対処を示しています。しかしその循環のなかで、次第に調和を保っていた病…

中国が医療において細かくとっていたデータなどは、きちんと一般へ還元されていたのでしょうか。それとも、特権階級のみが蒙る恩恵だったのでしょうか。

多くの医書に書かれ、一般へも流通していました。しかし、高価な医薬を用いる処方は庶民には施せないわけで、その点には自ずから処方の相違が発生してきます。ひとつの病から生まれた処方でも、患者がどのような経済状態、社会的・政治的地位にあるかによっ…

現在の日本の病への認識などは、昔のものと共通するようなところがあるのでしょうか。

やはり思い出すのは、放射能関連の差別ですね。福島から避難してきた子供たちが学校でいじめにあったり、共同体などで心ない扱いを受けたりする。精神科医の斎藤環さんは、これを「現代のケガレ」と位置づけています。すなわち、古代・中世の人々がケガレを…

「業病」ですが、仏教界の高い地位の人が病にかかった場合、破門になったりするのでしょうか?

実際は、その人物の集める崇敬によって多様性があるでしょうが、『今昔物語集』巻20-35話に、ちょうとズバリの話が残っています。比叡山の心懐は美濃守の信頼を受け「一の供奉」と尊ばれていたが、美濃における疫病流行に際して招かれた懐国の法会を嫉妬によ…

西洋では、ペストの流行が水道の整備など衛生面の充実に繋がったことがあったようですが、天然痘ではそのようなことはありましたか。

これについては、次回以降の講義でお話ししましょう。

中国南北朝時代の疾病交換の話が出ましたが、その半世紀頃前のゲルマン民族の大移動の際には、そのような疾病の流行はなかったように思います。民族移動の際にパンデミックが起きるきっかけは、何かあるのでしょうか。

南北朝の時代の天然痘の初出も、恐らくは、それほど大きなパンデミックにはなっていないのではないか、と思います。戦争が相次ぎ衛生的に劣悪な情況が散発的に生じ、国家・社会機能の混乱により充分な予防や治療が受けられないとなれば、感染は拡大します。…

赤い顔の地蔵の話ですが、地蔵を信仰していた老婆のみが助かるという別バーションの話があります。同系統と考えた方がよいですか、それとも後世の勧善懲悪的な改作なのでしょうか。

昨年の特講は、まさにその伝承を扱ったものでした。参考文献にあげた私の論文が、後漢代の『淮南鴻烈解』を初見として中国全土、朝鮮半島、そして日本列島へ広がった伝承が、地域の事情や時代情況によってどう変容してきたかを追跡しています。つまり、信仰…

八百比丘尼の話は、中国の媽祖などと関係がありますか。

確かに、怪しいところはありますね。媽祖は神仙思想とも関わりがありますし、海難守護で漁業との関わりも深い。父親が死に、放浪し、仙人と出会って神となるあたり、全体的な構造が八百比丘尼のそれと類似しています。環東シナ海文化として九州や琉球には確…

関の姥さまの信仰は、なぜ千葉に多いのでしょう。また、「咳の病」は結核を連想させますが、具体的にはどういったものだったのでしょうか。

本当に千葉に多いことが確認できるのか、他地域に比べてどうなのか、ということはきちんと調べなければなりませんが、相次ぐ戦乱のなかで姥神の縁起が生まれやすかった、ということは一因と考えられるでしょう。千葉氏の平家物語である『源平闘諍録』から『…

八百比丘尼像の持物である椿が気になりました。花がまるごと落ちるので首が落ちるようで不吉、と聞いたことがありますが、葉の方に注目が集まったのでしょうか。

確かに、その類の伝承は列島中に広がっています。しかし、江戸初期には公家や武家の間で椿のコレクションが流行し、徳川秀忠もコレクターのひとりでした。「首が落ちる」系の忌避の傾向は、もう少し後の時代に、武家文化の定着と一般化のなかで生じたもので…

『信貴山縁起絵巻』の道祖神について、女性象徴の方は手厚く祀られている様子ですが、男性の方はそうではありません。何か理由があるのでしょうか。

あの一例からだけではなかなか難しいのですが、『信貴山縁起絵巻』の演出も考慮しなくてはなりません。下巻は、主人公である寂蓮法師の姉尼公が、弟を訪ねて奈良の都周辺を歩く内容です。すべての場面で、尼公の行動がクローズアップされています。紹介した…

1748年の『宮古島旧史』は、どのように形成されたのでしょうか。当時の琉球では琉球語が用いられていたことを考えると、どう調査し編纂したのか気になります。

これは説明が足りなかったですね。西村捨三は明治に沖縄県令となった人物で、彼が調査を行った際に発見した1748年の『宮古島旧史(旧記)』を、底本として史料として掲出したのです。実際の成立過程は少し複雑で、「忠導氏おやけ家の大主」なる好古博学の長…

『医心方』にはさまざまな医術に関する記載があると仰っていましたが、当時不治の病とされた病気はあったのでしょうか。またあったとしたら、その治療には祈るしかなかったのでしょうか。

これから追々話をしてゆくことになりますが、もちろん不治の病と考えられたものは多くありました。それに対してはいかに予防するか、感染するものである場合はいかにそれを防ぐか、悪化させない方法は何かなどが探究されてゆきます。もちろん、古代の医術は…