日本史特講:古代史(15春)

変成男子とは、女性が男性に性転換して悟りを開くとのことでしたが、何をすると男性になったことになるのでしょう。

『法華経』提婆達多品の場合は、それほど具体的な内容ではなく、『法華経』の霊験譚、一種の奇跡譚として語られます。文殊菩薩が竜宮で『法華経』を講説すると、多くの衆生がそのことによって救済を得、なかでも8歳の龍王の娘が忽然と悟ります。釈迦の弟子…

〈食唐鬼木簡〉の素材は調べればすぐに分かる気がするが、なぜそのような調査がなされていないのだろうか。

樹種の特定には、意外と面倒なことが多いようです。かつては木目による識別がなされてきましたが、これがかなり不正確であったことは、近年だんだんと分かってきました。新鮮な状態だと識別できる木目も、数百年経った情況では不分明になってしまい、類似の…

2回目の授業で紹介された『医と病』のなかの論文で、疫病が流行した際に、民衆が医者を信用せず、むしろ悪者として私刑にあわせることがあったと書かれていました。日本でも、似たような事例はあったのでしょうか?

長屋王の場合と同じように、菅原道真が左遷された後も宮中に死者が出たとの話がありましたが、それも実は疫病関係なのでしょうか。

菅原道真の場合は、前後の情況から考えると、より精神的なものが大きかったかもしれません。いわゆる怨霊信仰、御霊信仰は、長岡遷都と藤原種継暗殺に関わる早良親王の自害によって、宮廷社会で急激に発達します。その「緊張感」は、奈良時代の比ではなかっ…

藤原氏の「切実だった」という思いからすると、やはりみな疫鬼の存在を信じていたのでしょうか。 / 授業の初回の方で、天然痘が新羅からやって来たという認識の話がありましたが、長屋王の怨霊だと認識したことと、時間的先後関係をどう整理すればいいでしょうか。

これからの授業で扱いますので、少し先走って書いてしまうことになりますが、実は南北朝末期の中国では、疫病をもたらす鬼霊は非業の死を遂げたものの霊だとみなされていたのです。すなわち、六朝の文献を読んで中国化を進めていた支配層ほど、天然痘と鬼霊…

中臣宮処東人の殺害に、もし長屋王鎮魂の政治的思惑があったとすると、その背景にいたのは光明皇后でしょうか。

当時の藤原氏のメンバーからすると、光明子の意向は大きいのではないかと思います。情況証拠だけで臆説を積み重ねてゆくと単なる陰謀説になってしまいますが、しかし、すでに藤原仲麻呂も出身しており32歳になっていますので、彼が実際に指揮を執った可能性…

藤原四子のなかで、なぜ武智麻呂だけが強い批判の対象になったのでしょうか。

やはり、武智麻呂が首班的な位置を占めていたためと思われます。長屋王体制の後期には、彼の文学・政治サロンである作宝楼に対して、武智麻呂は習宜別業を持ち、多くの文人や官吏たちをそのもとに結集していました。四子のなかでも、武智麻呂が長屋王のライ…

当時、病以外にも、例えば安全祈願などの目的で経典を用いることはあったのでしょうか。

未だ仏教文化が充分に浸透し大衆化していませんので、日常生活レベルで目的の細分化した経典が使用されるには至っていません。しかし、いわゆる念持仏の類は存在したようですので、陀羅尼等の簡単な経典を読誦していたことはあったでしょう。また、富裕な貴…

天皇のために祈祷を行う僧侶たちには、実際に医術の知識・技術があったのでしょうか。

すべての僧侶が、というわけではありませんが、当時総合科学であった仏教の知識のなかに、医術のそれがあったことは確かです。例えば、中国から渡って戒律を伝えた鑑真は、脚気治療の処方を持っていたことが、『医心方』から分かっています。

蛇が疫鬼を祓うと考えられたのは、蛇が神聖なものだからでしょうか。蛇信仰は中国から来たものなのですか。

もちろん、 アジアで龍蛇が神として広く信仰された、ということが理由のひとつです。しかし、これから順々に述べてゆきますが、病治療に蛇などが用いられたのは、医術などが誕生してゆくレベルでもっと直接的な原因があるのです。

呪術によって病を祓うという考えに対して、その呪術を疑う人はいなかったのでしょうか。

前近代社会においては、現代より呪術的価値観が広く浸透していたと思われますが、もちろん、それを疑う人もいたでしょう。奈良時代随一の知識人である吉備真備は、その家訓『私教類聚』に、中国の『顔氏家訓』を引用しながら、卜占や呪術をあまり信用しては…

プリントにあった平城京の地図ですが、丸の大きさは家の大きさと解釈してよいでしょうか。位があまり高くないのに家が大きいのは、遺産的な問題でしょうか。

そうですね。一番気になるのは、61番、外従五位下の「某姓ム甲」でしょう。これは発掘によるものではなく、『唐招提寺文書』に残っている「家屋資財請返解案」によるもの。ム甲の父親は国司を務めた裕福な人物だったらしく、左京七条一坊に1区画、右京七条…

光明子が藤原氏の人間だという自覚を強く持っていたとのことですが、光明子に限らず東アジアの女性は長いことそのように思っていたのではないでしょうか(中国や韓国の女性は、今も姓を変えないですし)。

なかなか当時の王族で比較対照になる史料がない(一般氏族出身で皇后になった人がいない)ので分かりませんが、確かに後宮へ出仕するという時点で、家や氏族を背負って王権へ奉仕する認識であることは確かですね。「光明子」という名前は『金光明最勝王経』…

◎9の史料に注が付いているが、これは原文にも書かれているものなのだろうか。それとも『国史大系』が付けたものなのか。前者とすれば、書物に注を付ける概念はいつ生まれたのだろうか。

あれはもともとの官符に付いていたらしい注ですね。文章に注を付ける行為は東アジアの伝統であり、東アジアの書物の歴史は、注釈の歴史といってもよいものです。古代の中国で成立した伝世文献で、注釈の存在しないものは皆無といってもいいでしょう。何が現…

漢方はハイアラーキーであると仰っていましたが、以前授業で仰っていた、「庶民も国を動かすために必要だから、守る制度がある」ということと矛盾するのではないでしょうか。

まあ、それはやはり儒教的な建前ですね。物量に限度がある場合には、支配者層が優先されることになるのが現実です。

一般庶民への処置のひとつに、餅の使用がありましたが、当時餅は一般的な食べ物だったのでしょうか。大切なときだけに食べるというイメージがあるので…。

この餅については、少し考えてみる必要がありそうです。餅は消化によいことは確かなので、もち米をふかして乾燥させたものが、保存食として広く存在した可能性はあります。また、もともとの漢文には「煎餅」とあるので、この言葉にこだわるとすれば、これは…

医術とは関係ないのですが、中国では髪は生気の発露とされた、その認識はいつ日本へ伝わってくるのでしょう。日本史概説で乙巳の変のビデオをみたとき、蘇我入鹿の髪がざんばらでしたが、あれはどのような意味があったのでしょうか。

実は、日本の史料には明確に出て来ないのですが、律令体制成立時の風俗矯正で、男女を問わず結髪が文明の証として推奨されてゆきます。髷は平安時代は他者にみせてはならないものとして隠され、中世にはやはり生命を象徴するものとなってゆきます。『後三年…

典薬寮の勘申には中国医書からの引用が多いとのことでしたが、例えば22ページ8行目の「梅」などは、日本になじみ深いのになぜ引用されていないのでしょうか。

難しいですねえ。このあたり、まだ議論が続いていて正確に分からないことが多いのですが、未だこの天平期の段階では、梅を食すことが一般的ではなかったのかもしれません。梅は中国から輸入されたもので、一般的には漢方薬の烏梅が、樹木としての梅よりも先…

漢籍と民間医療との交流があまり行われなかったとのことですが、例えば貴族とその使用人との間で、治療をめぐる相互評価など行われなかったのでしょうか。

授業の冒頭で紹介した紀夏井や菅原道真のように、民間と交流し民俗医療を研究、医術に採り入れようとした試みもあったと思われます。そもそも太政官符の処置自体、民間療法や実地の臨床経験がもとになっている。とすれば、緊急の現場においては、可能な限り…

典薬寮の勘申にはたくさんの薬が出てきましたが、当時の五位以上の官人たちの周囲に、どれほどそれらが出回っていたのでしょうか。

長屋王や藤原四子のような最高級の貴族たちは、自分の薬園を持っていたり、独自のルートを通じて入手できたはずです。『源氏物語』には、山野を舞台に生業を持つ「山賤」などが登場しますが、そのような人々を奉仕させている家、一族もあったでしょう。しか…

中国の踏襲から、日本的な医療へ独自に発展し始めたのはいつごろからでしょうか。

大きなスパンでみると、やはり蘭学が入ってきて西洋医学への道が開かれるまで、医学の聖地は中国なのです。『大同類聚方』や『医心方』、本草学の『本草和名』などが、平安中期あたりには編纂されてゆきますが、多くは漢籍の引用、中国との対照などであって…

上流階級の人が傷跡を消したいと思うのは、それが穢れが残っているとみられるからでしょうか? / 当時の貴人女性は、あまり人前に顔を出さないイメージがありますが、それでも疱瘡の跡を消す必要があったのでしょうか。

「鳥毛立女図屏風」など、唐の美人像が当時の貴族層における美的枠組みを構築していたようですが、やはりその肌については、傷のない白く滑らかな状態が理想とされたようです。あばたはそれと対極にありますので、やはり忌避されたと考えられます。授業でも…

「一般庶民」というのは、どの階層の人々でしょう。五位以下の官人から、文字が読める人までということでしょうか。

いえ、文字どおり一般庶民です。庶民は基本的に文字が読めませんが、そうした人たちには口頭で指示を伝えることが、律令国家の情報伝達システムの末端に課せられているのです。

性交渉のことを「陰陽」と表現していますが、男女のどちらが陰で、どちらが陽なのでしょうか。

男性が陽、女性が陰ですね。陰陽和合が理想のバランスなので、少なくともこの論理においては、性交渉は否定的には捉えられません。

今回の講義で紹介された治療は、どのくらいの時期まで続いたのでしょうか。また、これによって生存率は上がったのでしょうか。

太政官符の処方は室町時代の『拾芥抄』にまで引用されていますので、長く命脈を保っています。それはすなわち、一定の効果が確認されたために、貴族層の間にも広まったということでしょう。以前に紹介した『古事談』の典拠である源俊房の『水左記』では、医…

『病草紙』で嘔吐・下痢をしている女性が描かれていますが、吐瀉物はしっかり描いているのに、大便は描いていないようにみえます。どうしてでしょうか。

みづらかったでしょうか。実は、水のような下痢がしっかり書かれており、汚い話ですが、どうやら犬がそれを食べようとしているようです。下記のURLから、大きな画面をみることができます。http://u999u.info/lts1

『病草紙』からは、感染予防への意識の低さが窺えました。当時の感染症に対する認識はどのようなものだったのでしょうか。 / 下痢がひたすら登場していたが、当時のトイレ事情はどうだったのだろうか。

ウィルスの概念はありませんので、衛生意識に対応するものがあるとすれば、ケガレの感覚・観念のみです。藤原京や平城京では、貴族の邸宅には水洗トイレがありましたが、その水は浄化されることなく京内の水路へ連結してゆきます。側溝からは、人馬の死体や…

天平9年の時点で、氷を食べることは一般的だったのでしょうか。また、生肉を食べる習慣はあったのでしょうか。

氷に関しては、律令官司に主水司があり、氷の採取と氷室における保管、宮廷への運搬を監督していました。奈良時代の段階でも貴族たちが氷を食べることはあり、長屋王家木簡には、都祁の氷室から氷の運ばれてきたことが分かる記事があります。平安時代になる…

女性の経血や小豆の粉と卵白を混ぜたものを治療に使う点に興味を持ちました。小豆と卵白の方は成分が良いのかもしれませんが、経血に効果はないでしょう。なぜそれを行おうと思ったのでしょうか。 / 経血を塗るという発想にはぞっとしてしまいましたが、穢れではないのですか。 / 経血の件、衛生面より呪術性の方が大切だったのでしょうか。

小豆粉・卵白の方は、現在も中国の美容法として行われている、との情報をいただきました(感謝!)。経血は栄養は極めて豊富ですが、上記の使用法は成分云々より、ケガレ観に基づくところが大きいと思います。ケガレという概念は、主に権力を持つ側によって…

「天平勝宝八歳」の「歳」には、どのような意味があるのですか。

これは、藤原仲麻呂の唐風化政策によるもので、『旧唐書』本紀/玄宗/天宝3載条に、「正月丙申、年を改めて歳と為す」とある政策に拠ったと考えられています。