2016-07-01から1ヶ月間の記事一覧

嵯峨天皇が、母親の身分の低い親王・内親王に、源氏を賜り臣籍降下したのはなぜですか。 / 臣籍降下して貰った源氏と、『源氏物語』の源氏は、何か関係があるのですか。

いわゆる皇親とは、親王・内親王以下四世以上の諸王を指します。彼らには、その位階や官職に応じて食封などの禄が授けられたほか、春秋の時服料なども支給されるなど優遇措置がありました。しかし、五世以下になると皇親とは認められず、六世以下は王号を名…

古代の人々は、災害からの復興をどのようになしとげたのだろうか。

基本的な措置としては、まずその地域の租税や労役を免除することです。また賑給といって、食糧や衣料など物資の支給も行われました。被害が甚大な場合には、各地域からの報告だけではなく、朝廷から直接被害調査の使者が派遣され、それに基づく措置が取られ…

さまざまな欠陥のあった長岡京ですが、造営の前になぜ調査を行わなかったのですか。 / 長岡京遷都は、結果として、何か利益を生み出したのでしょうか。

これもレジュメに書いたことの繰り返しになりますが、長岡遷都には、地政学的な意味で、水陸交通の結節点という利便性、淀川水系の交通に影響力を持つ秦氏の財政的援助、さらには新王朝創出の舞台として意識したことがあったのではないかと考えられています…

何度も巨大な都を造るべく働いた人々に、きちんと賃金は支払われたのでしょうか。

基本的に、造宮の役民は労役ですので、いうなれば租税であり、賃金は支払われません(もちろん、食糧は支給されます)。ゆえに平城京段階から逃亡が相次ぎ、路上で飢渇する人々も増加する情況でした。よって実際には、平安京を建設した山背葛野地域に本拠を…

都が成立したという判断は、何をもってなされるのでしょうか。

古代都市=宮都は、社会的分業などの進展によって必然的に成立した都市ではなく、あくまで国家機能の中枢が置かれた場所です。よって、遷都の詔が出され、天皇が居を移して、百官の移転が完了した段階で「成立」と考えてよいのだろうと思います。もちろん、…

日本は、戦後に至るまでずっと蝦夷を支配下に置こうとしていたが、本来は人種も文化も異なる北海道が独立するという形にはならなかったのでしょうか。

最初のガイダンスの際にお話ししたと思うのですが、中世後期から近世にかけてのアイヌは、ユーラシア北部から北アメリカに至る北方交易圏のなかで大きな富を得ており、国家に展開しうる社会・経済情況に到達していたともいわれています。なぜ国家化しなかっ…

徳政論争で征夷は中止されたが、中途半端な状態で中止して問題はなかったのか。

プリントにも書きましたが、光仁朝から始まった蝦夷の反乱は、延暦20年(801)における征夷大将軍坂上田村麻呂の鎮圧作戦によって、蝦夷の首魁であった阿弖流為・母礼らが降伏し捕縛され、翌21年に胆沢城の造営と鎮守府の移設、翌々22年には志波城の造営へと…

徳政論争を、政治的セレモニーとして行う必要があった理由とは何ですか?

蝦夷征討も度重なる造都も桓武王朝においては必要な政策だったのでしょうが、これが列島社会に大きな疲弊をもたらしてしまった。これを単に失策として中止するより、臣下からの諫言を受けて徳を示す方が、天皇の権威を昂揚させると考えられたのでしょう。以…

桓武天皇が藤原内麻呂と夫人を共有したということが、古代の君臣関係において可能だったのでしょうか。

百済永継ですね。永継の父は飛鳥部奈止麻呂(河内国安宿郡)という渡来系氏族ですが、光明皇后の幼名は安宿媛であり、恐らくは藤原氏の子女の養育に当たってきたような氏族であったと考えられます。一般的には、内麻呂の妻となって真夏・冬嗣を産んだ後、桓…

天皇の中国化というが、唐風化政策には具体的にどのようなものがあったのか。

まず、桓武天皇に関しては、衣服についても中国皇帝と類似のものを身に付け、王権正当化の方法としても、中国王権の祭祀である昊天祭祀を実施、革命を唱える『春秋穀梁伝』を導入しました。また、詩文を国家経営に役立てるという文章経国思想(魏の文帝曹丕…

僧侶が私欲のために皇位を望むなどあってはならないと思うが、なぜ道鏡は流刑だけで済んだのでしょうか。

上にも書きましたが、私欲で云々、というのは正しい理解とはいえません。また、道鏡はあくまで下野薬師寺に左遷になっているのであり、失脚ではあっても処罰されてはいません。あくまで、称徳の崩御により政治体制が大きく転換したゆえの措置であって、例え…

どうして藤原種継は、暗殺されたのでしょうか? / 藤原種継の件ですが、罪人の処刑方法として、弓での射殺は一般的だったのでしょうか? / 「射殺」は、具体的にどのようになされたのでしょうか。

事件の記録は案外に短く、詳細はよく分かりません。正史『続日本紀』延暦4年(785)9月乙卯(23日)条には、「中納言正三位兼式部卿藤原朝臣種継、賊に射られて薨ず」、続く9月丙辰(24日)条には、「車駕、平城より至る。大伴継人、同竹良、并びに党与数…

光仁天皇の即位は、天武系から天智系への皇統の転換ではないとのことでしたが、それならばなぜそうした見解が生まれたのでしょうか。

宇佐八幡神託事件を過度に評価し光仁即位に革命性をみたこと、井上・他戸の位置を充分分析してこなかったことが原因でしょう。いずれにしろ、研究者の説の立て方によるもので、当時の正史『続日本紀』に、そのあたりのことが明記されていたわけではありませ…

一端僧侶になった人物は、自由に還俗できるのでしょうか。

出家・得度については厳しい制限がありましたが、還俗については、関連官庁への報告をしっかりと行えば、ある程度僧侶の自由意思に任されていたようです。出口より入口が厳しかったのは、僧尼身分が課役免除の対象となっていたからです(よって、還俗をした…

道鏡は皇位を奪おうとした悪人とのイメージがあるが、実際は何を考え行動していたのだろうか。先生は、道鏡が悪人だと思いますか。

道鏡の個性については史料が少なすぎ、なかなか議論するのが難しいように思います。しかし、称徳の意向を忠実に実現しようとした人であったことは、間違いありません。悪人かどうかということは、多くの後世の政治的意図に基づく価値付けに過ぎませんので、…

結局、法王とはどのような役職だったのですか。

歴史上、道鏡のみしか就任しなかった特殊な職位でしたので、詳細についてはよく分かっていません。しかし、法王を補佐する法王宮職が設置された点からすると、皇后や皇太子に準じる地位、准三后のような位置づけであったと考えられます。「法王」の言葉自体…

孝謙天皇が重祚して称徳天皇となり、道鏡を天皇の地位に即けようとしたのは、仏教国家を形成するための一環と理解してよいでしょうか。 / 称徳はなぜ、皇族以外の人物を皇位に就かせたかったのでしょうか。 / 称徳天皇は仏法を信奉していたのに、なぜ神である宇佐八幡の信託を求めたのですか?

この問題については、授業でも触れたように諸説あり、まだ議論が戦わされている状態です。かつては、称徳と道鏡のスキャンダルなどが俗説的に喧伝され、道鏡の悪人的イメージ、称徳の「愚かな女」的イメージが強かったのですが、近年はその再検討が進んでい…

言語というものは、いつの時代に、いま現在使用しているような日本語になったのでしょうか。古代などは何語で話していたのですか。

以前にも少しブログで触れたことがありますが、いま私たちが使用している言葉、とくに東京などで使用しているいわゆる「標準語」は、近代の中央集権に合わせ、東京山の手の言葉をモチーフに作られたものです。それ以前は、地域ごと、階層ごと、職種ごとに、…

仏教説話では、動物はしゃべるが植物はあまりしゃべらないな、と思いました。これも、無情のものと考えられていたからでしょうか?

そうですねえ、樹木神は普通に話をするのですけれど。しかし、日本列島に最も広く分布する昔話である大木の秘密(ある巨樹を伐ろうとするが、切り口が翌日になると再生してしまっていて、いくら伐っても伐れない。疲れた木樵の一人が夜、木の下に宿っている…

寺において、大木を信仰することはあるのでしょうか?

あります。授業でも紹介したように、釈迦が覚りを開いた菩提樹は、仏教的真理の象徴です。これも授業でお話ししたかと思うのですが、かつて仏像による偶像崇拝がなかった時代には、菩提樹が仏の象徴としてストゥーパのレリーフに造型されていました。列島最…

日本では、山や森林が多いので、草木成仏論が追究されたのでしょう。草木というと生命のあるものですが、石などの無生物も含まれるのですか。

「草木成仏」というと、確かに土や石などは指さないかにみえますね。より範囲の広い議論でいうと、「無情成仏義(非情成仏義)」ということになります。ここには、無生物の問題も含まれてきます。「草木国土悉皆成仏」「山川草木悉有仏性」もやはり天台系の…

吉蔵『大乗玄論』への言及があったが、「〈成仏〉さえ仮の言葉なのだ」という内容が気になった。真の意味とはどういったものなのか。

『大乗玄論』のなかでは、仏法の真理が世界に遍満しているのであれば、あらゆる区別や分節は煩悩に遮られた人間の認識が生み出してしまうもので、本当には存在しない。成仏とは、「仏でなかったもの」が「仏になる」ことであって、そこにも差別や分節が存在…

なぜアニミズムの串刺しのあり方が、仏教の残酷な串刺しのイメージと、共存できなかったのでしょうか。

列島在来の、地域的特徴を強く持った祭祀のあり方が、長い時間を経て解体されてしまったからでしょう。それは仏教が攻撃対象にしたのと同時に、神道の側の責任も大きいと思います。かつては各地の神社も生業とともに存在し、魚肉を供える祭祀、生け贄を奉る…

串刺しが残酷なものと捉えられるようになったのは、説話のなかで描かれていたから、ということだけなのでしょうか。

説話は、現在のような単なる読み物ではありません。それが唱導に利用され、寺院での絵解き、法会での法話、辻説法などを介して社会に広がると、浸透力のあるものは口伝いに拡散して各階層へ定着してゆきます。地獄の物語のように人間の暗い好奇心を刺激する…

神の顕現としての串刺しのあり方は、列島社会独自のものなのでしょうか。アニミズムとの関係でいうならば、普遍的な広がりを持っていてもおかしくないと思うのですが。

この問題は重要ですが、私のなかで、未だ充分な考察ができていません。ただし、上にも少し書いたように、いわゆる磔刑の成立が、タツことと関係するのではないかと考えています。すなわち磔刑とは、神送りに準えて、人間の霊魂を他界に送るための所作だった…

タツことが神の顕現である割には、神像は座った姿が多いと思うのですが。

立像もそれなりにありますが、坐像もありますね。坐像が多いのは、神像が仏像をモチーフにしたことと、天皇の臣下として衣冠束帯を着用に礼を示しているためです。また、顕現する意味でのタツはあくまで現れることであって、動作・状態としての直立のみを意…

『春日権現験記絵』に、病人の吐いたものを犬が食べている場面が描かれていましたが、これは何らかの宗教性があるのですか?

犬が嘔吐物や排泄物を食べる場面は、多く絵巻などに描かれています。犬に対する穢れ観、忌避感の展開と関係がありますが、宗教性を表現しているわけではありません。あえていうならば、九相図において人の遺体を食い荒らしている犬と同じ、現実の残酷性や汚…

仏教の殺生を悪とする姿勢が前提としてあるとはいえ、地獄の描写において串刺しが描かれるようになったのはなぜなのでしょう。

確かにそうですね。串刺しの残酷性については、何らかの作用によって歴史的に構築されてきたのだという視点のほかに、生理的な嫌悪感、危機感なども反映している可能性があります。地獄の責め苦については、とくにそうした問題を考える必要がありそうです。…

『霊異記』の橘奈良麻呂の話ですが、神霊に関わる行為だというだけで串刺しにしているのでしょうか。わざわざ神として送るために行ったとは考えにくいのですが。

説話を読む場合には、それがいかなるモチーフを題材として、どのような物語りを語ろうとしているのか、説話の主体はいかなる個人/集団で、ストーリーには原型があるのかないのかなど、その複雑な重層構造を多角的に分析してゆく必要があります。その内容の…

基皇太子が亡くなったとき、安積親王はなぜ皇位継承の表舞台に出てこなかったのでしょうか?

安積親王の母親は県犬養広刀自で、後宮を統括していた藤原不比等の後妻で光明子・橘諸兄らの母親、県犬養三千代の同族です。恐らく、三千代の差配によって、聖武の妃になったものと考えられます。奈良時代の皇位継承は、天武系/天智系の合体である草壁皇統…