2017-07-01から1ヶ月間の記事一覧

『青邱野談』の禹は、はじめ普通であったのに、山で火田民のような人々になじんだということでしょうか。『山月記』の李徴も殺人によって虎になりますが、それも被差別民になったことの譬喩なのですか?

『青邱野談』は、話の枠組みは、それこそ中国南北朝時代に作成された説話を援用したものと思います。士禍を避けて山に入った人々、苛斂誅求を受けて山に逃げ込んだ人々が、どのような状態であったのかを想像した際に、その言説の枠組みが用いられたというこ…

日本において、焼畑を行っていた人々の生活は、平地民のそれとはどのような相違があったのでしょう。

これも高校までの授業では習わないことかもしれませんが、近世初期の山村においては幾つかの一揆が起こり、幕府によって鎮圧されています。例えば、慶長19年(1614)の北山一揆、元和5年(1619)の椎葉山一揆、同6年(1620)の祖谷山一揆です。これらの地…

『遠野物語』の山人は、差別的なものだったのですか? てっきり妖怪の類だと思っていました。

妖怪のなかには、異人を妖怪化して表象する場合もある、ということですね。昨年、今年度とジャパノロジー概論でも扱ったのですが、毛むくじゃらの人間というのは蛮人表象として世界共通です。中国では夷狄、蛮人に対して用いられ、日本も早く古代の蝦夷表象…

焼畑農業は日本でも行われますが、朝鮮から伝わったものなのでしょうか?中国では行われているイメージがないので、朝鮮発祥でしょうか?

これも授業でお話ししましたが、中国でも行われています。主に、森林の回復力が強い南方で盛んで、少数民族のなかには焼畑を行いつつ移動する集団もままみられます。九州南部から東南アジアにかけてみられる竹の焼畑は、通常の焼畑では30年かけて森林が再生…

素朴な疑問ですが、どうやって火を使って耕作したのですか。水田しか知らないので、思い浮かびません。

授業でも話をしましたが、火田とは焼畑のことです。すなわち、秋から冬にかけて畑にする場所の木々を伐採し、草を刈り、これらを乾燥させておきます。冬から春にかけてこれに火を付けて焼き、残った灰を肥料にして穀物を育てるのです。

物語り性こそが歴史学の本質ならば、事実を知ることは不可能なのでしょうか。歴史学は事実を知ることが基本、と考えるのは間違っているのですか。

復習してほしいのですが、物語りとは、イコール・フィクションではありません。上にも述べましたが、例えば新聞記事も主観的な物語りであって、言葉が介在する限り、あらゆる「事実」と呼ばれるものもすべて物語り性を持つのです。それゆえに、それらが事実…

両論併記の問題性については分かりましたが、それをジャーナリズムに求めるのはどうなのでしょうか。白黒はっきりしていないないようだからといって、報道を自粛してしまうのは、かえって中立性を損なう可能性もあります。

両論併記について、はっきりしないものは報道するな、とは一言もいっていません。検証せよ、といっているのです。近年の日本のジャーナリズムの大きな問題は、情報のソースからその正確さ、内容の事実性などを検証する努力を、どんどん怠りつつある点です。…

ポストモダン的傾向と、保苅が目指した方向とは同じものだったのでしょうか。

保苅は、ポストモダンの先へ行こうとしたわけです。ポストモダンの潮流は、近代学問の問題性をあぶり出したけれども、結局は学問同士、また学問と社会との間に分断と軋轢を生み出してしまった。それを新しい形で結び直すにはどうするか。自分を科学的、公明…

歴史学の課題として、ものごとはなるべく客観的にみなければならないということは必要と思いますが、先生の思う一番の方法とは何でしょうか。

もちろんそのとおりですね。自分の政治性、恣意性を厳しくみつめ、相対化し、可能な限り客観性を目指すことは必要です。しかし、それにはやはり限界がある。大切なことは、そうした思考過程を科学の名で隠蔽せず、しっかりと公開することです。手練手管を明…

「素朴実在論」とは何でしょうか。

目の前にあるモノをそのまま存在するとする考え方のことです。素朴実証主義も似たようなもので、史料を通じて過去の事実が明らかになると考える立場のことです。

「アプリオリ」とはどのようなことですか。

即自的、あるいは超越論的などと訳します。つまり、議論するべくもない、当たり前のものとして決まっている意味、ということです。

私は、レポートに「私は〜だと思う・考える」と必ず入れて書いているのですが、自分で考えて述べた意見は、すでに多くの歴史学者が考え出している場合が多いです。私もこれまで読んできたものが先入観となっているため、「私は……」と述べても、結果的には自分の本当の意見が出せなくなっています。

自分という存在にコピーがないように、自分のものの見方、考え方も、他の誰かとまったく一緒ということはありえません。これから研究を真摯に続けてゆくなかで、きっと、あなたにしか分からないもの、気づかないものが発見できるはずです。それこそが、歴史…

北條先生は、レポートに「私」「思う」などと書いても、それを原因に評価を下げるということはありませんか?

一切ありません。これまで一度も、そんなことで評価を落としたことはありません。

「私」「思う」「考える」という言葉を避け、主観性を隠蔽しているということは、実際は主観性が入っていることを黙認していることになるのではないかでしょうか。

そういうことになりますね。典型的なのが教科書です。そこに書かれている内容は、誰かの学説に過ぎない、さらには仮説に過ぎないものなのに、あたかも変更のされようがない厳然とした事実のように断定されている。ナショナル・ヒストリーを提供する教科書に…

理想的年代記は、やがてAIによって可能になるかもしれませんが、それが歴史といえるのかどうか分からなくなりました。

そのとおりですね。ダントーがいいたかったことも、まさにそこにあるはずです。つまり、あらゆることを起きた直後に記録する「理想的年代記」は、たとえそれが可能になったとしても、単なる記録であって「歴史叙述」にはならない。歴史叙述の本質は、後世の…

歴史学以外の学問は、歴史学よりも科学認識論的な基礎付けがあったといえるのだろうか。

歴史学はその歴史が古い分だけ、例えばヨーロッパの学問のなかでも、アジアの学問のなかでも、存在することが自明とされてきました。国家にとって必要な知を供与するものであり、その社会的地位も高かったわけです。近代学問化においても、そのあり方は基本…

コルバンが、「真っ白な心で受け容れる」などといっているのは無理なことだと思うのですが、どうしてこのようにいう人、考える人がいるのでしょうか。また、「エピステモロジカル」な視点はどうすれば身に付くのですか。

社会史の泰斗であるコルバンが上のように発言したことは、たぶん多くの人々にとって衝撃であったと思います。ブロックやフェーヴルが生きていたら、彼を叱りつけたことでしょう。しかし経験主義が極致に達すると、ある種の達観として、そのような認識枠組み…

実証主義の認識論が経験主義であることについて、客観性を求める実証主義がなぜ経験主義なのか、よく分かりませんでした。

確かに、そこには重大な自己矛盾があります。実証主義は、例えば史料批判における真偽判断を、歴史学者の「経験」に委ねます。その背景には、歴史学者の知と方法が、充分に訓練され信頼のおけるものだという自負が含まれており、実際その場合も多いのですが…

アーヴィングは、ホロコースト否定論を喧伝すること自体に価値を見出していた、と聞きました。では、彼はこれを喧伝することで、社会に何を伝えたかったのですか?

ホロコースト否定論者は、概ねナチスに対する賛同者か、ユダヤ人差別主義者です。すなわち彼らの目的は、ナチスの正当性を訴えること、ユダヤ人を批判し冒瀆することです。彼らは議論を通じて、自らの政治思想が世界に広まることを目的としているのです。

一度クリアランスが発動し、それまでのセーフティネットが壊されてしまうと、マイノリティ差別も根付いてしまうように思う。公権力が差別を助長しているようにも思う。このような差別はどのようにしたら解消できるのだろう。どのようにしたら、我々は差別的視点から自由になれるのだろう。

これは、上の回答に対する正反対の心的態度を醸成することが肝要です。ひとりひとりの他者に注意を払うこと、その重みをしっかりと受け止めてゆくこと。もちろんそれは極めて困難なことなのですが、可能な限り実践できるなら、差別や戦争に対する強力な抑止…

人々の潜在的な"クリアランス"の気持ちは、どんなものがきっかけで生まれ、育まれるのだろうか。

日本列島の場合には、歪に肥大した衛生観念と密接に繋がった差別的認識、そうして何より、ここの具体的な問題やひとりひとりの他者に対する無関心だろうと思います。ひとりひとりの抱える事情、彼らが歩んできた道のり、苛酷な現状に対し、眼差しを向けない…

私は熊本県出身で、本妙寺という名もなじみ深いものでしたが、ハンセン病者の集住地であったことは初めて知りました。ハンセン病者とえば菊池恵楓園という認識しかなかったためです。恵楓園が作られたのは、この時期よりも後なのですか?

恵楓園という名称になったのは1941年ですが、その前身は九州療養所ですから、もともとは1911年にまで遡ります。しかし、恵楓園はあくまで公権力に基づく施設で、1931年の癩予防法に基づき強制収容を進めるものでしたので、それを恐れ嫌がった病者たちが本妙…

八紘一宇のスローガンが、ハンセン病と結びつく意識が、その程度国民の共通認識となっていたかを知りたい。

八紘一宇の言辞は、それを創作した田中智学が説くように、日本〈民族〉と日本文化の優生性を強調するものです。その優生性の表明を疎外するような要因は、〈誤り〉〈例外〉として削除、隠蔽しようとするベクトルが生じることは、想像に難くありません。そも…

的ヶ浜に集住していた人々のなかに、在郷軍人が含まれていたことは驚きでした。近代日本で、名誉あるものとして扱われ、恩給も支給されているはずの軍人が、なぜ被差別対象とされるに至ったのでしょうか。

当時の『大分新聞』では、焼け出された在郷軍人の次のような証言を記載しています。「国の勝手な時に国の軍人と言い、命を的に戦場で働かせ、時によっては乞食扱いにされて家を焼かれ、また、生きていく望みまで奪うとは実に闇の世界だ」。当時のジャーナリ…

的ヶ浜事件ですが、的ヶ浜隠士の文章が発表されてから、何か事件をめぐる情況は変化したのでしょうか?

的ヶ浜隠士は、恐らく同地域の浮浪者たちを援助していた真宗木辺派の僧侶、篠崎蓮乗であったと思われます。彼の抵抗運動と、憲政会系の地元紙『大分新聞』が官憲を糾弾する論陣を張ってゆきます。篠崎は、当時反差別の活動を開始していた水平社に協力を求め…

近代に至って、近世的な諸関係のなかで差別されながらも存立しえた集団は、なぜ引きずり出され解体されることになってしまったのでしょうか。

結論的にいえば、それが近代の特徴ということになるでしょう。中世から近世、そして近代へと至る時代の流れは、公権力の画一性と社会への浸透が徐々に強まってゆく過程と捉えることができます。例えば検地の歴史をみても、それぞれの地域で別々の基準を持ち…

網野善彦は、職能民に対する差別の表出を、移住と集住に関連させて論じていた。そういうものを考えると、「癩身分」の人が放浪するという流れはむしろ、どこかへ集住するための過渡的段階と捉えることができるのではないだろうか。

もちろん、近代における「浮浪癩」の時代は、クリアランスによって行き場を失った病者たちが、落ち着く場所を求めて彷徨した時代ともいえます。ただし、近代は保養所以外に彼らの居場所を設定しなかったので、これを「過渡期」と称するのは間違いでしょう。…

江戸時代、伊勢参詣は旅行としてブームになったと聞いていますが、ハンセン病者は伊勢には行ったのでしょうか?なぜ神社、寺ではなくてお遍路を選んだのでしょうか?

伊勢神宮は、穢れを排除することによって神聖性を保つ伝統的神社の最たるものですから、基本的にハンセン病者は排除していたと思われます(奈良時代の一時期の神仏習合状態を除き、その神域からは、原則として仏教や僧侶も排除していました)。一遍の伝記『…

ハンセン病者への差別は、中世〜近世くらいまでは「仏罰」であるからというイメージがあったのですが、明治以降〜戦前にかけてもそのような理由で差別されていたのでしょうか? / 『娘巡礼記』で「業病」と書かれているのがハンセン病を指すものですか? 当時の人々は、何かしらの業が原因となって病が起きると考えていたのですか?

業病という言葉は、前世の悪業によって、因果応報として被った病、それゆえに通常の医療では治癒不可能なもの、という含意があります。これは、中国の南北朝から隋唐の時代にかけて、仏教が権力からの廃仏に抵抗して作り上げた言説で、当時の仏教を擁護する…

ハンセン病者の集団が、諸藩の運営する癩村などにおいて担っていた活動に、「死」に関わるもののほか、貸宿が含まれているのはなぜでしょうか。

これについては、ぼくもまだ実証的に理解できていません。元禄〜享保期の仙台藩では、ハンセン病者の宿貸しの実態に対し禁止措置が出ていますが、同様のことは列島各地でみられたようです。宮前千雅子氏の研究によれば、加賀藩のいわゆる癩村「物吉」でも確…