アジア・日本史系概説I(18春)

聖徳太子の話のように、嘘だと分かっていることが、どうして教科書で教えられているのでしょうか?

さて、どうしてでしょうか。全学共通日本史という授業で、何度も発し答えてきた問いです。まず、日本の小中高の教科書は、文科省の検定制度のもとに動いています。この制度は、GHQの占領期、国家が皇民を教育するために国定教科書を用いてきた仕組みを改め、…

ローマでは、支配者が持つべき徳というものがありましたが、飛鳥時代にそうしたものはあったのでしょうか?

これ以降、天皇も中国の皇帝に倣い、儒教的な徳を身に付けてゆくことになります。持統天皇の孫、珂瑠皇子=文武天皇を教育するために編纂された、『善言』という書物の断片が、『日本書紀』のなかに含まれていることが確認されています。これは偉人や英雄の…

『日本書紀』はもともと『日本紀』が書名だったとする考えがありますが、その違いは何ですか?

六国史における奈良時代の史書『続日本紀』は、『日本書紀』の成立を語る最古の史料ですが、そこでは書名を『日本紀』としています。以降の六国史もみな『○○紀』という表記であり、『日本紀』が本来の書名だろうという見解が強くあります。しかし一方で、古…

飛鳥のような狭小な地域で、どのように首都機能を果たしえたのでしょうか。

飛鳥自体は、三方を丘陵・山地に囲まれた狭小な地域ですが、西を葛城を超えて河内へ出る横大路、東を長谷から伊賀、伊勢へと繋がってゆく山田道、北を奈良山を越えて山背・近江、東方・北方へと連結する下ツ道、中ツ道といった交通路へ通じている。さらに天…

飛鳥時代、書物によって、いつ何が起きたのかが安定していないのはなぜなのか。また、間違った年を書いてどうしたかったのかが分からない。

史料によって、ある出来事の年数や内容が食い違うことは、別段不思議なことではありません。そのなかのどれかが間違っているか、あるいはあえて異なる記述をしているか、ということです。継体/欽明の崩御・即位を巡っては、『日本書紀』が編纂された時点で…

王位継承をめぐる対立があり、実際に誰かが王になったとしても、税を納める農民など一般の人びとは、どの人が王になったと知らされていたのでしょうか。もしそうでなければ、何のために王位に拘るのでしょうか。

王の代替わりは、ヤマト王権に服属していた豪族たちには、間違いなく知らされていたと考えられます。前回お話しした奉事の関係もあり、大王と自らとの臣属関係を更新する必要があったからです。例えば出雲国造は、その代替わりごとに中央へ登り、天皇への服…

天皇のなかでも、大友皇子や草壁皇子のように、即位をしていなくても○○天皇として位置づけられる例がありますが、誰がどのように判断しているのですか?

大友皇子が弘文天皇と諡を献じられたのは、明治になってからのことです。近代における天皇家の神聖化のなかで、政治的に配慮された結果です。また草壁皇子は、天平宝字2年(758)8月、淳仁天皇によって「岡宮御宇天皇」として追諡されます。当時、奈良王朝…

継体は北陸のグループであったとのことですが、実力があったと判断できるのはなぜでしょうか?

それ以前の実力重視の王権において、大和でも河内でもない、これまで大王を輩出していない地域から選ばれて即位したからです。万世一系を建前とする『日本書紀』が、武烈からの断絶を語り、「応神天皇五世孫」として掲げてくるわけですので、実際はそれまで…

神社や寺院は、奉祀する神格など勝手に決めていいのでしょうか?

6世紀初頭になると、ヤマト王権内部に祭祀を管理する部署ができたらしく、各地の祭祀遺跡で神祭りの道具が、滑石製模造品による刀剣・玉・有孔円板(鏡)のセットに統一されてゆきます。以降、これからお話をしてゆく神統譜の作成、国家が幣帛を頒布する対…

神社の起源は玄界灘の沖ノ島での自然祭祀であったが、そもそもは中国から伝わったと考えることは可能か? なぜなら、「神社」は音読みであるので。

まず、ぼくの話し方が悪かったのだと思いますが、沖ノ島がすべての神社の起源になるわけではありませんので、間違いのないように。4世紀、日本各地で類似の自然祭祀が始まるということです。これらは、当初は専用の社殿などを設けず、露天で行われていたこ…

銘文の彫られた鉄剣をみると、為政者が自らの正当性・正統性を記録した文献があってもおかしくないように思われる。なぜ『古事記』や『日本書紀』以前に存在しなかったのだろうか?

『古事記』『日本書紀』の前には、推古朝の『天皇記』『国記』、そしてそれらの素材になった、「帝紀」「旧辞」といった文献の名称が、実体は不明なものの記録に残っています。「帝紀」は大王の系譜、「旧辞」は宮室・朝廷・有力氏族の伝承で、『古事記』や…

『梁職貢図』は、なぜ実際に来てもいない倭国使を描いたのでしょうか。

南朝勢力は、北方の胡族王朝に対して、自分たちこそが正統な漢民族の王朝、中華王朝の後継者であるという意識を強固に持っていました。倭は劉宋時代に朝貢していた冊封国ですから、現在は国交が樹立されていなくても、理念上は宋→斉を継承した梁の配下である…

古墳時代に築造された多くの古墳は、被葬者の支配していた土地や権力と関わりがあったのでしょうか。近畿など、近いところに古墳が乱立しているようにみえます。

基本的には被葬者の、あるいはそれを受け継ぐ首長の支配領域に構築されたと考えられています。ヤマト王権の大夫層=群臣層の説明のところでも説明しましたが、奈良盆地のなかでさえ、あれだけ強大な複数の豪族たちが存在するのです。彼らもそれぞれ前方後円…

ヤマト王権(雄略期)の支配領域について、東国〜九州とのことでしたが、このとき、東北には蝦夷がいたのだろうと思います。平安では戦闘になっているのに、この時代はそうはならなかったのですか?

以前の回答でも少し書きましたが、東北では古墳前期から、太平洋岸地域に前方後円墳が確認でき、縄文時代以来の西方との社会的相違のなかで、しかし首長制社会へと移行する集団があったことが窺われます。しかし、飛鳥時代以降の蝦夷の活動をみると、そこに…

東西南北に四神が描かれている壁画ではキトラ古墳のそれが有名ですが、それ以前にこれらを描いた遺跡はあるのでしょうか。また、なぜ他の動物ではなく、これらの動物が描かれたのでしょうか。

四神は中国で作られた方角の守護神で、宅地や都城、墳墓などを造営する際に意識されます。もともとは天文に関わりのあるもので、天の赤道に沿って作られた星座「二十八宿」を、東西南北の四方で7つずつにグルーピングしたとき、それぞれを天の四方を守る神…

府官制について、官職は朝貢国の希望どおりに授けられたのでしょうか?

プリントに挙げた『宋書』の倭王武の上表文をみていただいても分かるのですが、必ずしも希望通りには授与されていません。宋の目的としては、倭と朝鮮三国を競合させることで、半島の経営を自国に有利に進めたいと考えていたと思われます。そうした政治的意…

威信財がモノからコトへ変化してゆくのは、中国の影響力の高まり、そしてその影響力への日本国内における共通認識が、もはや物的証拠を用いずとも充分であるほど浸透していたということでしょうか。

少なくとも、ヤマト王権に結集していた諸豪族の間ではそうであった、ということでしょう。弥生時代は、北九州や山陰地域が突出したグローバル・エリートでしたが、古墳時代を通じて鉄資源の追求と配付がなされ、武器や武具が前方後円墳体制を下支えしたこと…

九州の棺のない古墳は、なぜそのような構造をしているのでしょうか?

これも、なぜ、という問いに対する回答は、なかなかしづらい情況です。こうした構造の石室を中心的に研究してきた和田省吾さんは、遺体を載せる台を屍床と名付け、これを持つ北部九州型の石室を「開かれた棺」、木棺や石棺を持ち遺体を密閉する形式の畿内型…

どうして鳥が太陽と結びつけられたのでしょうか?

太陽が10個あり、それが代わる代わる天に昇るという考え方は、すでに中国殷王朝の時代に存在したことが、甲骨卜辞によって確認できます。どうやらそれを鳥が媒介したらしいことは、同時代の蜀の三星堆遺跡から出土している青銅神樹(扶桑のようなもの)に、1…

たびたび出てくる威信財ですが、これ以降の時代にも、威信財に相当するモノ・コトはあるのでしょうか?

威信財的なものは、モノでもコトでも通時代的に存在すると思います。古代では、例えば平安時代の唐物など、価値の高い舶来の物品が挙げられます。一般には、菅原道真の建議によって遣唐使が廃止され、前代の唐風文化に対して列島固有の国風文化が醸成される…

倭の五王が、ひとつの血縁関係にあるとみせかけようとしたのはなぜでしょうか?

王位の継承に、中国的な父系原理を採用しているとみせることが、倭が文明国であると標榜することとイコールだったのでしょう。上表文が東アジアの外交文書の形式をしっかりと踏襲していることは、文中にも名前のある曹達ら、背後に渡来人の活躍があったこと…

連続三角文の三角は、何を表しているのでしょうか? / 朱色が魔除けとすれば、青色は何を表しているのでしょうか?

辟邪の紋様が具体的に何を表すかについては、残念ながら解明されていません。そもそも意味自体がないとも考えられますし、書き方によって意味が異なる可能性も想定されます。個人的な憶測を書いてよければ、太陽の表象とみられる鏡の紋様化に、円の周辺を連…

古代の遺跡で「たて」を漢字で書くとき、なぜ「縦」ではなく「竪」を使用するのでしょうか。

「縦」は水平面において横と対交する向きを意味するのに対し、「竪」は立体的に垂直する向きを表します。竪穴、竪琴など、いずれも水平面に立体的に直交しています。

この当時、東北地方の情勢はどうだったのでしょう。別の王権が存在したなどということはないのでしょうか?

地域王権という云い方がありますが、各地において中小の豪族を結集した王に近い存在がいたことは確かだと思います。ただし、それらは古墳時代において、一応はヤマト王権のもとに服属していました。前方後円墳が築かれていたのが、その証拠です。東北にも、…

伽耶諸国とヤマト王権が鉄と青銅器とを取引していたとのことですが、青銅器にそれほどの需要があったのでしょうか?

巴型銅器や筒型銅器は、倭の豪族たちが、自分たちの宝器として半島にもたらしたものと考えられます。鉄素材に対する直接的な交換品というより、協力関係を結んだ証のようなものだったのでしょう。実際の交換品は、米や塩、人などと想定されてきましたが、近…

中国王朝の権威は、なぜ日本列島内でも通じるのだろうか。技術なら、朝鮮も先進的だったのではないだろうか? / ヤマト王権が古墳にある鉄素材やその他鉄製品の輸入を朝鮮に依存していたとのことですが、なぜ中国ではなく朝鮮なのでしょう。技術の最先端は中国だと思うのですが?

邪馬台国の卑弥呼と魏との関係でもみたように、この時代、朝鮮半島の情勢如何によって、倭と中国王朝とは直接的交渉が持てません。距離的にも大きく離れていますので、倭は、資源的にも技術的にも、朝鮮半島の南部に大きく依存する結果になっています。なお…

ヤマト王権は、中国や朝鮮から威信財を独占的に入手したとのことですが、独占的に得るには、中国側に何らかのメリットがなければありえないと思います。なぜ、中国や朝鮮は、ヤマト王権と独占的に外交したのでしょうか?

上でも触れていますが、例えば劉宋にとって倭の利用価値は、北朝に近接する朝鮮の経営を自分にとって都合のよい方向へ運ぶ、ということです。そのためには、倭に統一的権力があったほうが都合がいい。例えば北部の高句麗が北朝に組みしたときに、南部の百済…

三角縁神獣鏡の銘文が稚拙であるとの見解があるそうですが、なぜそう考えられているのですか? / 銘文は、皇帝が書いたものとは限らないのではないでしょうか? / 中国王朝が、倭や朝鮮に国王号や官職を与えるのはなぜなのでしょう。メリットがよく分かりません。 / 「倭」や「卑弥呼」といった用字は、中華思想に基づくものと思います。こうした見方は、現在の学説からして妥当でしょうか?

中華皇帝は、「文明を持たない」周辺の夷狄に「文明をもたらす」ことを使命としています。「野蛮人」を「中華」化してゆくこと、それが中華思想の根本なのです。周辺諸民族にあえてノンヒューマンな文字を当てはめてゆくことは、単に相手を茂しているのでは…

この時期に渡来した氏族で有名な氏族はありますか?

ヤマト王権で大きく活躍する渡来系の人びとは、主に5世紀後半から6世紀初めにかけて渡来しています。南北朝の動乱期に際して、中国から周辺諸国への亡命・移動が生じ、さらにその周辺へと人の波が及んできたものと考えられます。授業で強調しておくのを忘…

関東の古代豪族は出雲系であると本で読みましたが、それはなぜですか? 出雲から製鉄技術が関東に伝わったことが影響しているのでしょうか?

東国の古代豪族が出雲系かどうかは、一部の研究者の推測と、かなりロマン溢れる憶測なので、未だ充分議論に値する材料は存在しません。のちの仏教文化の動きにおいて、山陰から北陸、北関東というルートが確認されるので、例えばやはり出雲から北陸へ展開す…