2015-07-01から1ヶ月間の記事一覧

平安時代になると、密教が流行してくるのはなぜなのでしょうか。

これは少し難しい問題です。実は密教自体は、奈良時代にもすでに活用されています。しかしその時点での密教は「雑密」といい、真言宗や天台宗の「純密」とは違って、瑣末・実践的な呪術や加持祈祷を伝えるのみで、それを根拠付ける壮大な哲学体系を持ってい…

もとは人間であった仏に神々が帰依するというのは、人間が自然よりも優っているとする思想と考えてもいいのでしょうか。

もともと仏教は、あらゆる生命に優劣を設定してはいません(しかし厳密にいうと、仏法を聞いて理解できる人間に、動物以上の価値を認めているのですが)。すべて生命は、その行為の善悪に応じて別の存在へ生まれ変わり死に変わりを繰り返す、ゆえに現在の姿…

格と式についてなのですが、官僚がこれを自由に操作すれば、日本のあり方が恣意的に変えられてしまったのではないでしょうか。

格式の作成自体は、もちろん官僚が恣意的に進めてよいものではなく、上部公卿たちによる決裁が必要でした。よって、官僚集団が格式に基づき権力を任意に行使できたわけではありません。むしろ格式については、社会の現実と向き合って策定されたものが多く、…

新都を建設するにあたって、財源はどこから捻出されたのでしょうか。

当然、国税に基づく国庫から支出されているわけですが、度重なる造都で財源が不足している点は否めません。よって長岡京や平安京の建設では、それ以前の難波宮や平城京を構成した資材のうち、運搬・再利用可能なものは流用したことが分かっています。また、…

奈良後期〜平安初期、新羅や渤海との関係が重要であったと分かりました。当時の日本の対渤海・対新羅政策の基本方針は何であり、貿易はどのように行われたのでしょうか。

国家としては、中華思想の維持ということで一貫しています。新羅はそれを満足してくれなかった、日本のそうした姿勢を拒否したために決裂し、渤海はある程度満足できる対応をしてくれたため厚遇したわけです。しかし貿易については、国家の外交方針とはまた…

「小中華」という考え方ですが、実際の日本では、そうした名に相応しい程度に文化や制度が進んでいたのでしょうか。

当時の政府からすれば、律令・都城・貨幣・国史を持つことが、中華的国家の条件であったと思われます。東アジアの「公式見解」としては、もちろん中華王朝は中国王朝のみに限られるわけですが、当時の東アジア諸国は、大なり小なりそのナショナリズムの発露…

桓武・嵯峨朝に唐風化が進み、天皇の服装も中国皇帝化してゆくのに、それが後世に残らなかったのはなぜでしょうか。色彩感覚などでも、中国と日本とは正反対のようになってしまいますが、どうしてなのでしょう。 / 中国の服は国内で製作する技術があったのでしょうか、それとも輸入でしょうか。

なぜ天皇は、平安時代からプライベートな空間である内裏へ、政務の場を移してゆくのでしょうか。

桓武天皇は血縁的な弱さを抱えていたために、藤原氏の各家と緊密な姻戚関係を結んでゆきますが、それはある意味で貴族社会の一部をミウチ化し、それによって勢力基盤を確立しようとしたということになります。嵯峨天皇も同じ方策を採り、結果として多くの皇…

天皇の継承が安定し、幼帝が出現したとのことですが、幼帝は主に何をするのでしょうか。摂関家の傀儡になってしまうのは想像がつくのですが、ほぼすべてを摂関が握ってしまうのですか。

最終的な決断は天皇が行いますので、その教育係である実母、外戚などが重要な位置を占めることになります。また、前近代においては政治上極めて重要な意味を持っていた儀礼などは、天皇でしか行えないものが種々存在しました。幼帝にも種々の「働きどころ」…

神的性格を持つ天皇が、政務を主体的にとっていたのはなぜであり、また平安に入ると、なぜそれが行われなくなってゆくのでしょう。

もともとマツリゴトには政治的要素と宗教的要素があり、お互いがお互いの力・作用を必要としていたと考えられます。すなわち大王の段階で、政治的首長はある程度の神格化を含有していた。天皇になるとそれが一層進み、天上の神々と結び合わされ、地上の神々…

平安時代の摂関政治は、藤原氏が意図的に始めようとしたのでしょうか、それとも天皇が主体だったのでしょうか。

時代の流れは、なかなか意図的に作り出せるものではありません。あえていうならば、時代ごとの行為の積み重ねの結果だ、とするしかないでしょう。これは、個別の話というよりも歴史の考え方になってしまいますが、かつて、時代・社会構造を動かず人間の行為…

天皇は完全な僧侶にはなれないと仰っていましたが、その後に出てくる法皇とはどんなものだったのでしょうか。

称徳天皇は、太上天皇時代に法華寺にて出家し、恵美押勝の乱直後に法体のまま重祚します。天平宝字8年(764)9月20日、そのときの宣命では、『梵網経』にある「国王が王位に坐すときは菩薩の浄戒を受けよ」との文言を引用し、「出家しても政を行ふに豈障る…

高校の日本史では、道鏡について、「男性として魅力的だった」との説明を受けました。これは、本当のことだったのでしょうか。講義では、あくまで言い伝えだとのことでしたが…。

いわゆる道鏡巨根説は、早く平安初期の『日本霊異記』には登場してきます。当時流行した戯れ歌(童謡)の解釈として、道鏡と称徳との関係などが持ち出されてくるわけです。真相はもちろん分かりませんが、称徳が道鏡の何を重要視したかは、授業で説明したと…

孝謙天皇と藤原仲麻呂の対立の原因がよく分かりません。孝謙も藤原氏の光明皇后の娘であり、仲麻呂がいたとしても、聖武や光明の意志である仏教国家を完成させられると思うのですが。

仲麻呂は大炊王(淳仁天皇。舎人親王の息子)を擬制的な子息として、天皇家との一体化を図ってゆきます。また、光明皇太后のコントロール下で活躍していた頃は問題はなかったものの、彼女の死後は仏教統制を図り、東大寺の造営・運営に関わる財源の削減など…

なぜ藤原仲麻呂は、恵美家を創設したり、天皇家との一体化を目指すなど、藤原氏との切り離しを図ってゆくのでしょうか。藤原氏であることの限界を感じたのでしょうか。 / 乱の後、恵美家はどうなってしまったのでしょうか。

当時、藤原南家には、長男の豊成がいて仲麻呂よりも早くに出世をしていました。北家も、房前以来、南家よりも内廷に強い影響力を持っていたのではないかと思われます。自らの家系を豊成よりも上席とし、藤原氏のなかでも常に頂点へ位置づけておくためには、…

『類聚三代格』の国分寺創建勅の内容に驚きました。仏教に関する詔が出される際には、このような呪詛のようなものが毎回みられるのでしょうか。

必ずしも、そういうわけではありません。このような願文の形式は、「確約的宣誓儀礼」という仏神への誓約儀礼に伴ってみられるもので、飛鳥の段階では、『日本書紀』に幾つか類例がみられます。講義でも扱ったかもしれませんが、乙巳の変直後、飛鳥寺西の広…

期末レポートを書くために読んだ文献で、藤原不比等は中大兄皇子の子供であると書いた記述がありました。これは本当でしょうか。

文献にあらわれるのは、『大鏡』くらいからでしょうかね。確かに、この説に事実性を見出す研究者もありますが、史料的根拠としては薄弱です。恐らく、藤原氏の権力が強大化し、外戚氏族として特別なものとなった段階(やはり、源潔姫という天皇の娘を夫人に…

朝鮮の医学には、学術的価値はありますか。

もちろん、大いにあると思います。そもそも古代の日本へ漢方医学が伝わったのは、公式には朝鮮半島を介してです。三国時代の医学史料は残念ながらあまり残っていませんが、高麗、朝鮮王朝のものは豊富に存在します。ぼくはこのあたりまだあまり詳しくないの…

病の捉え方について、「観察」は書かれないのでしょうか。脈や顔立ち、事に当たっての反応など、漢方の先生はよく観察するようですが。

もちろん、顔の色、むくみなどの状態、目の色・動きなどなど、多くの処方において、病の特定をする際には顔の状態の観察をします。脈診も、早くから発達し、専門の経典ができている技術のひとつですね。顔については、やがて医術と占術とが融合して、顔相を…

葬儀の際にも、出産のときのような儀礼がさまざまにあるのでしょうか。また、現代は出産に関する儀礼は残っていませんが、何か理由があるのですか。

葬儀は、だんだんと斂葬・埋葬に収斂してゆきますが、例えば殯(モガリ)が存在した頃には、長期の場合1年をかけて子供・近縁者・家臣などの誄奉上が行われ、生きているときと同じように、妻が遺体に奉仕するといった手順が行われていました。現在でも中国…

川に遺体を流してしまうという話を聞いて、ガンジス川に葬儀として遺体を流す光景を思い浮かべました。何か関係があるのでしょうか。 / 死体を捨てる場所は、当時、暗黙の了解として決まっていたのでしょうか。衛生問題にもなりそうですが。

以前何らかの形で書いたと思うのですが、人間の葬法は、それぞれの地域、自然環境とそれに根ざした文化の相関関係のなかで、まったく異なる様相を持っています。森林では土葬、樹木葬、風葬などが盛んで在り、海辺や海上では水葬が多く採用されます。インド…

『権記』の27〜28日条で、「亡」「没」を使い分けていますが、何か意味があるのでしょうか。

字義的には、そもそも「亡」字は死者の象形であり、「没」は人が水に沈む状態を表現しています。『権記』段階ではそれほど厳密に使い分けてはいないだろうと思いますが、そもそもは葬儀の形式、他界観などの関係で使い分けをすることがあったのかもしれませ…

逆子の習俗について、何か特徴的なものはありますか。

妊婦の禁忌に関連する習俗で、「○○すると逆子が生まれる」などの話はよくあります。異常分娩に関する「言い訳」のひとつであり、難産や死産を納得しなければならないとき、「こうした禁忌を破ってしまったんだから、仕方がない」と諦める工夫のひとつと思わ…

「八月子」ですが、『権記』に妊娠した時の記録はなかったのでしょうか?

残念ながら、出ていないのです。それがはっきりしていれば、話が早いんですけどね。

前近代において、障がいを持つ人々はどのような生活を送っていたのだろうか。

差別と崇拝の両義的扱いをみることができますが、崇拝が一般社会からの疎外を意味するとすれば、やはり差別の構造のなかに位置づけられていたとみられるでしょう。共同体や国家の制度には、もちろんこれらを補助する、現代でいう福祉的な要素も存在しました…

男性は、出産に対してどのような感情を抱いていたのでしょうか。

授業でもお話ししましたが、一般的にいわれるのは「恐怖」ということですね。これはマーガレット・ミードの分析ですが、男性は自らの機能にはない女性の出産能力に畏怖を感じ、だからこそそれを崇めつつ差別してゆく。世界の多くの地域で、女性そのものや月…

『古事記』では、アマテラス・ツクヨミ・スサノヲはイザナギから生まれて来ますが、男が出産に携わっていると考えられないだろうか。

『古事記』には、やや男性上位的視点がみうけられます。イザナミが亡くなったあと、黄泉国から帰ったイザナキが禊ぎを通じてアマテラス・ツクヨミ・スサノヲを生み出すのは、ケガレの強大な力がプラスの方向に転換される両義性を示すとともに、男性のみで生…

イザナミ・イザナキの婚姻の問題ですが、話しかける順番だけではなく、回り方の問題もあったと思います。これはどのような意味を持つのでしょうか?

大樹や山、柱の周囲を回るというモチーフも、広くアジアの兄妹婚姻神話に出てきます。回り方は、イザナキがイザナミに、「汝は左から回れ、私は右から回る」という宣言をしますので、タブー破りには繋がってきません。しかし、左と右のどちらを尊貴とするか…

イザナミ・イザナキに関するアジアの類話について、それは各地域で自発的に生まれたものですか、それとも互いに影響し合っていたのでしょうか。

やはり影響しあっていますね。少数民族の神話では、兄妹婚姻によって生まれてきた子供たちを、それぞれ自民族と、隣接する民族の祖とする話型も存在します。交流によって話型が伝播し、それぞれの地域の自然環境と文化との関わりのなかで変質し、定着してゆ…

伏羲・女禍の半人半蛇という姿が、葛洪らの蛇に対する感覚と矛盾するように思いました。

文化というのはおしなべて重層的であり、また多様ですから、例えば蛇に対する認識、感性・心性にしても、ある単一な視角のみでは捉えることができません。例えば、蛇に対する認識がマイナスのもののみであったなら、これをモチーフにした龍などが、漢民族の…