2016-06-01から1ヶ月間の記事一覧
事実です。例えば『日本書紀』には、朝鮮との外交関係記事の主要史料として、『百済記』『百済新撰』『百済本記』のいわゆる百済三書が引用されています。これは、もともと百済で編纂された原記録をもとに、亡命百済人が、『書紀』の史料として新たに編纂し…
確かに、細かな部分では社会慣習、文化のあり方の相違は存在したはずですが、それは日本列島における東側、西側の相違と同程度であったと思われます。古代の日本へ影響を与えたのは百済の文化だけではなく、高句麗や新羅からも多くの渡来人があって、さまざ…
「大夫」は、中国で政治に参与した貴族層を表すのに用いたのが始まりで、ヤマト王権の表記もそれに乗っ取っており、マエツギミと訓読みします。これは古代・中世を通じ、政治・社会・経済において高位に立つ人物の称号のようになってゆき、近世には、神道系…
このあたり、『日本書紀』に書かれていることを信用するなら、やはり大海人の人望と実力が支配層のなかで無視できず、彼のもとへ近江朝廷に対する反対勢力が結集するのを避けたいと考えたということでしょう。しかし、『日本書紀』の編纂を開始したそもそも…
講義でお話ししたとおりですが、キーワードは「小帝国」です。すなわち、隋や唐のような中華帝国の文明を小規模なレベルで実現した国家です。そのために中央集権を整備し、律令・都城・国史・貨幣などを整備したわけです。そうした文明のありようによって、…
『万葉集』や『懐風藻』には、大友が立太子していたという記述はありますが、即位していたという記録はありません。明治の追諡はその継承権を正統的と認め、現在の皇統の祖先に加えるために行われたものでしょう。『万葉集』や『懐風藻』という文芸は、近江…
全人民というより、公民が対象です。すなわち、蝦夷や隼人などは除かれます。これは中華王朝でもそうですが、基本的に夷狄とされた人々は課税の対象にはならず、ゆえに戸籍にも記録されませんでした。庚午年籍については、その作成期間、作成過程など、詳し…
NHKの歴史ドキュメンタリーは、根拠のない映像を流すこともよくありますので、やはり注意が必要ですね。白村江の戦いの際に唐がつぎ込んだ軍船は170艘ほどであったと、『日本書紀』にあります。このあたりの記録は、百済で作成されたものに依拠していますの…
講義でも少しお話ししましたが、吉野は古代より、王権にとって天皇の宗教的エネルギーを養生する空間であると位置づけられたようです。弥生時代以降、水田に囲い込まれた山地地域への神聖視が強まり、古墳時代に中国の神仙思想がもたらされると、一部地域に…
これも以前にお話ししましたが、氷河期以来日本列島で暮らしてきた人々は、相互に交配しながら現在に至っています。いわゆる人種概念で括れるような状態ではありません。〈蝦夷〉はヤマト王権側が作りあげた政治的レッテルに過ぎませんので、民族文化として…
確かに、「命乞いをした」という方が、分かりやすかったかもしれません。しかしこのユルスという言葉も、例えば漁師に捉えられた魚介を僧侶などが贖い、海に帰してやるという放生譚のなかで、多く使われる言葉なのです。それらとの齟齬がないように、文章を…
宮古島に伝わる人魚伝承に、ヨナタマ=海の精霊と呼ばれる珍しい魚が捕らえられ、焼かれて喰われようとしているのを、大津波が襲って村ごと破滅させてしまうというものがあります。日本にも、上半身は人間、下半身は魚という人魚形象が存在しますが、ここで…
以前に神身離脱の話をしたとき、聞いてくれていたでしょうか。アジアにおける神はキリスト教的な神とは異なり、より人間的な存在です。龍王などは『妙法蓮華経』にも描かれ、東アジアでは半ば仏教的な存在になっていて、人間より優れた力を持っているものの…
イーハトーヴは、確かに理想郷ではあっても、生死をめぐる苦しみや悲しみが消滅している世界ではありません。むしろ、その葛藤が際立っている、あるいは、みなその問題に自覚的である、という言い方は可能かもしれない。現実の世の中を直接舞台とすると生々…
屠殺場では、「獣類供養」などの仏教的法会が行われ、供養塔の立っているケースが多いですね。なお、これは屠殺場に限らず、動物実験の行われる病院、研究所などでもみることができます。
上の話にもその要素は残っていますが、アフリカのブッシュマンの狩猟に関する言説を調査している菅原和孝さんによれば、彼らの狩猟は現代的なハンティング以上に生命の危険を伴う。ヒョウやライオンに殺される危険も、常にあるわけです。そうした緊張感のな…
確かに仏教の影響もあるでしょうが、やはり狩猟という生業が、社会の表面から隠されてきたからでしょうね。しかし古代からのさまざまな物語が、動物の主神話の痕跡を伝えていることも確かです。今後の授業でも扱ってゆきますが、例えば以前に紹介した『出雲…
人は自分の手を汚すことから逃げて逃げてしまいますが、いつかは現実を体感しなくてはいけないので、人間がこの逃げ続けていたことと相対したとき、どうなるのでしょうか。同じ生活を続けて生き続けるのでしょうか。
どうでしょうか、難しい質問です。しかしただひとつ確実なのは、手を汚すことからいかに逃げようと、確実に自分の手は汚れてしまっている、ということです。そのことから目を背け続ければ、大切なものも見失う。いかに自覚し、責任を取るか。もちろん、ぼく…
未だ朝廷の大勢は占めていた、と考えられます。そうでなければ、大臣の役職を維持することもできなかったでしょう。舒明天皇は、即位した当初は蘇我の本拠である飛鳥の中心部に宮を構えますが(岡本宮)、晩年にはその領域から出て、かつて継体を奉戴した息…
蘇我氏の権勢を物語る史料は、さまざまに残されたと思われます。上記に述べたように、利用価値があるからです。しかしそれが、歪曲されて伝えられた。そのあたりを批判する言説が生まれなかったのは、改新政府においては反本宗家勢力がその中心に位置し、壬…
まず、王権が仏教に奉仕しそれを支配地域に広げようとしている、という事実、王侯士大夫から庶民に至るまでが仏教を理解し信奉している、というポーズを示すことが必要なのです。それによって、隋が支配する東アジアのなかで、自国のポジションを引き上げる…
全部がそうだというわけではありませんが、大王の墓は寿陵、すなわち即位してから生きているうちに造営し始めるものが多かったのではないか、と考えられています。崇峻の治世は5年ほどに過ぎませんが、大王墓自体の規模も小さくなっていたので、造営にはそ…
もちろん、その理由は大きいでしょう。6世紀には、高句麗と新羅の勢力に百済は圧迫されていました。倭が友好関係にあるうちは不安定ながらも差し迫った問題はありませんが、例えば半島南部を新羅に押さえられてしまうと、百済は完全に高句麗や新羅に囲い込…
概ね自然環境を象徴する存在としての神が列島中に広がっており、大地を潤す湧水点を抱え込む、前面に河川、後背に山地を持つ神社の神々が大部分であったと考えられます。6世紀の中頃には、王権の内部に構築された祭祀関係の機関を基盤に、ヤマト王権の勢力…
これについてはよく分かりません。7世紀の半ばにおいては、未だ実力主義の大王擁立の慣習が残っていたとも考えられ、いわゆる継体王統以外からも、大王になりうる存在が輩出されたとしてもおかしくないのです。推古朝の倭国に対し、『隋書』は大王を後宮を…
崇峻が殺されたのは、崇仏論争とは関係がありません。崇仏論争のときには、崇峻は蘇我馬子の側に立って勝利しています。ところで物部氏滅亡のことですが、これは『日本書紀』さえもがそう書いているので、これまで物部氏滅亡が崇仏論争の結果としてきたのは…
『天皇記』『国記』に蘇我氏中心の歴史が書かれていたとすれば、それはクーデター勢力にとって格好の批判材料となり、例えば「国を私物化した」などと文句を付け蘇我氏を貶める手段に使用されてしまうでしょう。蝦夷は、それを怖れたものと思います。事実こ…
官職には就いていなかったでしょう。あくまで有力な王子宮の経営者、大王位継承候補者として、王権に参加していたものと考えられます。ちなみに、一般的に厩戸を摂政に任じたとされる『日本書紀』推古天皇元年夏四月庚午朔己卯条には、「厩戸豊聡耳皇子を立…
仏教は当時、「蕃神」つまり外国の神と認識されていたようです。日本列島では、在来の神祇を神像として表現する風習は一般的ではありませんでした。しかし、縄文以降神霊的なものを造形する志向が皆無であったわけではなく、古墳時代に神仙を造形した三角縁…
事実と虚構の境目が分からないものばかり、といった方が適切かもしれません。