2017-06-01から1ヶ月間の記事一覧

ランケの学派とマルクスの学派には交流はあったのでしょうか。

ランケとマルクスの考え方は、質的進歩という意味では類似していますが、個人を扱うか集合的な構造を扱うか、人間をどうみるかという点で大きな相違があります。ランケはヘーゲルとマルクスの間に位置しますが、人間の見方としてはヘーゲルよりで、歴史を自…

「下部構造が上部構造を規定する」というテーゼについて、宗教や哲学、戦争などは恐らく上部構造だと思うのですが、それらが下部構造に影響を与えることはないのでしょうか。 / 上部構造は下部構造に対して「反作用」するもので、マルクスの考え方は単純な経済決定論ではないと聞いたことがあります。「反作用」とは何でしょうか。

マルクスはものごとを捉えるときに関係性を重視し、事象を実体視することを極力回避しました。構造についても同様ですので、彼にとっては常に、上部構造は下部構造があることで上部構造であり、同時に下部構造は上部構造があることで下部構造でありうる、と…

日本の実証主義への批判は、どの層からどのような理由で起こってきたのでしょうか?

史学史的な大きな流れからいうと、まずは導入時に近世的歴史認識に属していた人々から批判を受け、次いで皇国史観との間に軋轢を生じ、やがて勃興し始めたマルクス主義歴史学がその温床になってゆきます。唯物史観からの批判は戦後に至って加速し、そうして…

ランケの歴史観のなかで、史料批判の際に経験に基づくセンスが利用されることがあるという話がありましたが、それは客観的であるといえるのでしょうか。 / 経験主義は、人によって異なる歴史を生みだしてしまうのではないか? / 実証主義の認識論が経験主義に過ぎないという弱点は、今後も克服することができないのでしょうか? / 歴史研究を行う際、外的批判は研究の方法や目的によって異なってくるものだと思うし、内的批判だってやっぱり研究の方法・目的・考え方によって形が異なってくるものだと思うので、結局は歴史学は解釈学だなと

講義でお話ししたとおり、その点が「科学」を標榜しようとするときの歴史学の欠点です。しかし例えば、精神分析的歴史学を標榜するピーター・ゲイという歴史家は、我々人間は完全に客観的な視点に立つことはできないし、その認識や記憶にも限界があって、世…

実証主義と皇国史観の軋轢は、純粋史学と応用史学の使い分けを余儀なくさせるとのお話でしたが、大学の研究者に反発などはなかったのでしょうか。

久米邦武、喜田貞吉、津田左右吉など、錚々たる人々が、実証主義史学を追究した結果国体に抵触する論文を書き、社会的に糾弾され職を追われてゆきました。その結果として、純粋な研究成果を外部へ向けて発信するということが、だんだんと萎縮気味になってゆ…

故事成語は、実証主義からみると微妙な内容を含んでいると思いますが、近代日本で、これを例えば応用史学的に用いることは可能だったのでしょうか?

実証主義のもとで否定された『平家物語』や『太平記』は、まったく価値のないものとされてしまったのでしょうか?

あくまで、「史料」の範疇からは除外された、ということです。江戸時代までの歴史認識においては、『平家物語』や『太平記』が、一般の人々に最も読まれ(みられ/聞かれ)た歴史書であり、人々の日本史像の核を形成していたわけです。実証主義歴史学は、こ…

ルードヴィヒ・リースは、神を持ち出して説明することはなかったのでしょうか?

リースは恐らく、ランケのなかにあった「神」を周到に排除して、日本の歴史学として定着させてゆこうとしました。しかし、図らずもそこに空いてしまった「価値の源泉の空白」へ、意識的か無意識的か、天皇制が入り込んでゆくことになる。そうして形成されて…

ランケがヨーロッパにおいて実証主義歴史学を提唱した際、近代日本におけるような軋轢は経験しなかったのでしょうか?

科学革命、啓蒙主義を経た帰結として導き出されていますので、概ね評価されたはずです。近代日本の場合、実証主義の史料第一主義に呼応する考証学は存在したものの、その解釈学的部分においては、まだまだプラクティカル・パストが一般的でした。そこへ、他…

神という存在を学問に適用したり、学問において言及することはprimitiveなのでしょうか。

必ずしもそうではありません。ただし、神というブラック・ボックスを価値や判断の基準にしてしまうと、それに基づく見解を批判したり、検証することができなくなる。科学の条件として重要な反証可能性、つまり学問的見解がそれに至る経過とデータとともに公…

ランケは神という存在を用いて絶対的な基準を示していますが、現代では絶対的基準のような思想は、学問的には認められていないのでしょうか?

そうですね。近代は、啓蒙主義によって否定された神の絶対性を、科学という言葉で代替する試みがなされた時期でしたが、現在に至るポストモダン思想においては、近代の代名詞ともいえる客観性、法則性、普遍性、それらを体現するグランド・セオリー=大きな…

ランケの国家史の重視というのは、それも同じ神のもとにそれぞれの国家が歴史を作ってきたと考えられているのでしょうか。それとも、それぞれの国にそれぞれの神がいるのを認めているのでしょうか?

あくまで、ランケ自身の「客観性の基準」なのだとみるべきでしょう。史実をみてゆくための価値判断の根拠、すなわち客観性を、神の秩序に求めてゆくのは、やはりそれを科学的に表現する最適な字句が、未だ充分に発達していなかったということなのではないで…

ランケは進歩について、たとえ衰退しているようにみえても、その時代の固有の価値のなかでは進歩とみなされるのだと考えていたとのことですが、その見方では、各時代の固有性以外にあまり意味を見出せなくなってゆくのではないでしょうか。

ひとつには、啓蒙主義に至るまでの進歩史観が、あからさまに連続性と現代賛美に結びついていたことへの反動とみることができるでしょう。そのなかから、リストの提示した質的転換の問題を正面から受けとめ、各時代独自の価値をきちんと把握してゆくためには…

コシャマインの戦いで、以前レポートを書こうと思ったのですが、よい史料を見つけられませんでした。なにかありませんでしょうか。また、概説書でよいものがあれば教えて下さい。

授業で説明したとおりですが、日本史リブレットなどが、全体を時間をかけずに読むのには手頃です。関口明他編『アイヌの歴史』も、教科書的な簡便な記述で、古代から近現代に至る長い歴史を整理しています。コシャマインのよい史料というのは、実はなかなか…

白神山地も伐採されたのなら、今の同山地の森林はなぜ成立したのでしょうか。

ちゃんと説明していなかったかもしれませんが、中近世移行期までの白神山地は、針葉樹林主体、ブナなどの落葉広葉樹林がそれに混在する形の植生でした。それが、略奪林業によって針葉樹林が伐採された結果、用途のないために残されたブナ林が成長・拡大し、…

「流言」はリュウゲンと読むのではありませんか?

辞書をみてください、ルゲンまたはルゴンとも読みます。確かに、一般的な読み方ではないかもしれませんが。ぼくは僧侶なので、漢字を呉音で読む癖がありますが、呉音読みは漢音読み、唐音読みよりも古い読み方であるだけで、間違いではありません。

田沼意次の提唱により、被差別民3万人を蝦夷地に送って開発させる計画があったとのことだが、なぜ被差別民のみを植民しようとしたのか。

やはり、蝦夷地の厳しい自然環境を考慮しての差別的措置でしょう。さらに、3万人にも及ぶ一般農民を移住させれば、諸藩の財政が立ち行かなくなります。生産活動に従事していない被差別部落の人々を「駆使」するのが、最良の方法と考えられたのでしょう。

アイヌは抑圧されてきた人々だと認知してしまっていたが、少なくともクナシリ・メナシ以前は、そうではなかったといえるのだろうか。 / クナシリ・メナシの戦いは、シャクシャインの戦いに比べて規模が限定されていたと思うが、これは蝦夷地の植民地化が進んだためだろうか。

アイヌの交易は、樺太アイヌや千島アイヌと連携しつつアムール側流域の山丹交易とも結びついていましたので、松前藩としては彼らを必要以上に抑圧するのは、手の届かない樺太や千島との関係悪化も招き、得策ではなかったと思われます。最上徳内らが調査した…

シャクシャインの戦いで鷹匠や鷹待が殺されていますが、それはなぜですか。戦いにおいて重要な役割を持っていたから殺されたのですか。

鷹匠や鷹待は、戦さとは関係がありません。彼らが使う鷹は鷹狩りの鷹で、高貴な人物への、あるいは高貴な人物間の贈答品として用いられます。これもアイヌにとっては重要な交易品であったわけですが、和人の鷹待が直接蝦夷地へ入り込み、彼らの狩猟のルール…

シャクシャインの戦いの際、松前藩による植民地化が進行しつつあったとのことですが、狩猟を行うアイヌにとって、土地の所有とはどのようなものだったのでしょうか。

北海道旧土人保護法のところでもお話ししましたが、アイヌは土地所有の観念を持っていません。より厳密にいえば、狩猟や漁労の場として活用するそれは共同体所有であり、個人の所有ではないのです。松前藩やその許可を得た承認、金掘人夫、鷹待らが押し寄せ…

松前藩の行動は目に余るものがありますが、幕府はなぜすみやかに直轄地化しなかったのでしょう。もっと早くすべきだったのではありませんか。 / 松前藩の横暴は、藩の性質として何か特別なものがあったのでしょうか。

やはり、前回の質問に対しても述べましたが、幕府では田沼意次頃に至るまで、蝦夷地を日本領とは一切考えていなかったということが重要です。それはある意味で松前藩も同様であり、いわゆる領域支配は行っていなかった。田沼の行った勘定奉行普請役、最上徳…

松前藩は、アイヌとの軋轢においてだまし討ちなどの所行が目立つ気がします。クナシリ・メナシの処理においても、約束を反故にして全員処刑にしていますが、「やられたからやり返す」以外に、何か根源的な理由があったのでしょうか。

先行の研究書では、「松前藩の所行は戦国大名として特別異常であるわけではない」という表現をしています。確かに、だまし討ち、皆殺しは、戦国時代の各地にみることができます。ただし、アイヌ社会においてはそうした所行は一般的ではなく、それゆえに何度…

松前藩の場所請負制について、自分たちは場所(商場)に赴かず承認たちに行かせる理由が、いまひとつよく分かりませんでした。危険というだけなのでしょうか…。

蝦夷地は松前藩の領土ではなく、その土地が家臣らに分割されているわけではありませんので、彼らは基本的に城下町に集住しています。アイヌの領域に設定された場所=商場における交易権が知行として与えられたといっても、まずは交易に必要な物品を確保し、…

蠣崎氏が松前氏と名乗るようになったのは、何かメリットがあったのでしょうか。

どうなんでしょうねえ。蠣崎はあくまで武田信広が女婿となって嗣いだ氏姓であり、檜山安東氏の分家を意味しているので、豊臣・徳川から独占的権益を承認されたことを契機に、安東を宗主とする血族関係から独立する意味で、「松前氏」を名乗ったのではないか…

蠣崎氏は、豊臣/徳川から朱印状や黒印状をもらう前からアイヌと交易をしていたのに、わざわざ許可をしてもらうメリットはあったのですか。 / 朱印状、黒印状の違いはなんですか。

統一政権の認可ですから、当然必要です。蠣崎氏が特別にというわけではなく、各地の大名たちが、天下人に追従することで本領安堵を求めたのと、まったく変わりません。承認を得ずに交易を続けることは統一政権に逆らうことであり、また場合によっては政権の…

サルガンジュイは北京の言葉を話したとのことですが、嫁いでからも、常に通訳が付いていたのでしょうか。

レポートは3000字さえいけば、何字まで書いても大丈夫ですか?

大丈夫です。どんと来い。しかし、限度は弁えてくださいね…。

史学系以外の参考文献「のみ」引用して、レポートを作成することは大丈夫ですか?

そのことに必然性があれば構いません。しかし、歴史系の授業で、しかも課題が歴史学的な内容なのに、非史学系の参考文献のみで書くというのは、かなり恣意的なのではありませんか? 他学科からの受講としても、そもそも他学科の授業を取って勉強する意味がな…

博物館レポートについてですが、美術館でも大丈夫でしょうか? / 博物館レポートの〆切や様式について教えて下さい。

一度ガイダンスのときに説明したことですが、なるべく歴史に関係あるものをみていただきたいものの、美術館見学でも構いません。また形式については、1000字程度であれば、どんな形式でも構いません。内容は見学したものの概要と、それに対する自分の感想・…

季節の始まりを冬にすることは理解できたのですが、1週間の始まりには理由があるのでしょうか?

キリスト教的には、創世記に由来する天地創造の日数です。また七曜は、太陽・月をはじめ、天文学上の重要な天体を用いて暦をなすもの。これらの知識から、時間を分ける基礎的なカテゴリーとして設定されたのが、現在の「週」の原型です。きちんと立証したわ…