アジア・日本史系概説I(18春)
正確には、「藤原」と地名が冠されているのは「宮」の部分で、「京」自体は史料的には「新益京」と呼ばれていますので、ここでは藤原宮と藤原氏との関係について考えてみます。実証的には、その関わりは明確ではありません。ただし藤原不比等が、律令を体現…
よく分かっていないことが多いのですが、ひとつには、古墳時代から続く水の祭祀が、大王の責務として重視されたからでしょう。飛鳥諸宮、難波宮、大津宮とも、水の至近にあり、必ず水とともに語られます。藤原宮も、『万葉集』に採録されたその存在を祝福す…
大津皇子の事件は、極めて不可解なところの多いものです。事件は朱鳥元年(686)10月、天武崩御の直後に起きました。2日に謀叛の全貌が発覚し、翌日には大津が処刑されていますので、その迅速さは極めて異例です。また、事件に連座して捕らえられた者たちは…
正確には、陰陽五行思想に依拠した未来予知、都城占定、暦の知識・技術などです。例えば、『日本書紀』天武天皇元年6月庚申条には、壬申の乱に際し、吉野から東国へ脱出した大海人が横河に差し掛かったとき、次のような記述がみえます。「横河に及らむとす…
飛鳥京については、大海人軍の大伴吹負が、大友軍の留守司高坂王と内応し、ほとんど大きな戦闘もなく占拠することに成功しています。また大津京については、当時の都は羅城もなく防備に向いていなかったため、大友らは都を出て瀬田での激戦に向かい、それに…
以前のコメントにも書きましたが、大友皇子は明治3年(1870)に弘文天皇の漢風諡号を奉献され、明治政府によって、天皇として即位したものとみなされました。明治政府は、天皇を現人神という神聖な存在へ再構築しようとしていましたので、いわば謀叛によっ…
どこかで誤解があるのかもしれませんが、持統朝は時代区分でいえば、未だ飛鳥時代です。「評」表記は飛鳥浄御原令に基づくものとみられているので、大宝令施行以前はこの表記が用いられているのです。
中華概念については、大化の改新以降に順次導入されてゆきます。とくに、須弥山像を宮都の飛鳥に築き、同地が仏教的な意味で世界の中心であることを宣言、エミシやハヤトを呼び寄せて服属儀礼を行い、それを通じて中華皇帝に対する「夷狄」を創出したことは…
大友皇子が即位したかどうかは諸説ありますが、私見については上の回答を参照してください。なお、「弘文」の漢風諡号は明治3年になってから、明治新政府の解釈に基づきあらためて奉呈されたものです。
『日本書紀』天智天皇10年春正月己亥朔庚子条には、蘇我赤兄を左大臣、中臣金を右大臣、大友皇子をその上に立つ太政大臣として、その首班体制がスタートしたことが記されています。しかし、太政大臣は太政官組織が律令によって規定されて以降、出現すると考…
そうですねえ…大海人が本当に王位を継承する意図があったのか、それとも大友皇子に殺害されるのを恐れてやむをえず挙兵したのか、そのあたりのことはよく分かりません。しかし、彼が壬申の乱を負い目に感じていたことは確かで、ある意味では、天皇も律令国家…
激戦地というより、大海人が本陣を置いた野上行宮伝承地がある、ということだと思います。付近の不破関が、近畿と東国を分かつ境界でしたので、授業でもお話ししたとおり、同地を閉塞することが大海人の勝利する第一条件でした。それを速やかに達成して、大…
残念ながら、それを直接的に示してくれる史料はありません。ただし、壬申の乱における近江朝廷の脆弱さは、その点を端的に表しているのではないでしょうか。実はこの内乱、両軍とも、庚午年籍に基づく徴兵によって得た兵力を用いて戦闘を行いました。大海人…
壬申の乱に、国際的な緊張状態が強く反映していたことは確かでしょう。しかし、例えば天智が自らの王朝に内包した亡命百済人たちが、果たして近江朝廷のために積極的な役割を果たしたのかといえば、その痕跡はあまりありません。うち最高位であった沙宅紹明…
『旧約聖書のフォークロア』を著したフレーザーは、首長制から古代国家へ展開する段階での首長と共同体との関係の軋みを、多くの民族社会に普遍的なものと捉えているのです。弥生時代のところでお話ししたように、共同体の結束を重視する社会では、成員の平…
非常に難しい問題です。改新政府の政治改革によって、これまで国造へ委任統治されていた各地域へ国・評・五十戸の行政機構が作られてゆき、国造は自らの支配領域を評として立てることで、その管理者である評司(のちの郡司)へ転換していった。天智朝に至る…
古墳時代の屯倉などへも、文筆をよくする渡来系のフミヒトと呼ばれる人々が奉仕し、文書行政を担っていました。もちろん、全国的ということになれば、さまざまに無理があったものと考えるのが妥当です。庚午年籍は全国的なものではなく、王権の直轄地や中央…
奈良朝の律令体制以降も、戸籍が定期的に編纂されるなかで、海や山にはそれらに貫付されない人々が、狩猟漁労その他を生業に、半ば移動をしながら生活していたと考えられます。稲を経済的単位の根本に据えた稲作至上主義のなか、水田耕作に従事しないこれら…
授業でもお話ししましたが、地方では、その地域の在地の有力豪族を国造に任命し、委託統治を行っていました。その段階では、民衆ひとりひとりに定額の租税と労役を課す個別人身支配ではなく、国造が支配地域の複数の共同体を統括し(一部は自らの私有民とし…
そんなことはありません。今年は平安時代を詳しく扱う時間は持てませんでしたが、「菅原道真の建議によって遣唐使が廃止され、外来文化が入ってこなくなることで国風文化が栄える」といった考え方は、誤りであることが指摘されています。実は、道真の建議を…
どこかで指摘したと思いますが、中国王朝や朝鮮諸国においては、滅亡したかつての王国や、自らが滅ぼした王朝の存在をその支配体制に取り込むことで、自国の正当性/正統性を主張することがよく行われました。倭も同じように百済王家を取り込み、これまでの…
『日本書紀』天智天皇4年2月己酉朔丁酉条には、百済王族に倭の位階を授け、百済の百姓の男女400人余りを近江国神前郡に貫付したことがみえます。また、同5年是冬条には百済男女2000人余りを東国へ移植させたこと、同10年11月甲午朔癸卯条には、唐使郭務悰…
これについては、謎が大きいですね。倭はしばらく、朝鮮半島という外地における、本格的な戦闘を経験していません。また、これまでのヤマト王権の戦史記録からいっても、それほど水軍戦に経験が豊富だったとは思われません(もちろん、海上交通や対外軍事に…
中華を統一した隋や唐にとって、朝鮮半島の経営は重大な関心事でした。高句麗は一応は中国王朝に冊封される立場でしたが、領土をめぐり緊張関係は常に持続しており、小さな衝突は続いていました。唐は、東突厥や高昌を滅ぼして北方・西方を平定したのち、631…
高句麗・百済・新羅、それぞれの王国の特徴と、その時代の状態が表れている、ということでしょう。高句麗は、三国のなかで最も古く、古朝鮮を受け継ぎその復権を果たさねばならないという意識を、濃厚に持った国であったようです。半島と中国王朝との境界を…
これはもう解釈論になりますので、正確なことは分かりません。しかし、実力主義の社会の名残があったとはいえ、政権首班の蘇我本宗家が滅ぼされた衝撃は大きかったはずですし、東アジアの国際的緊張が高まっていることも、支配層には自覚があったはずです。…
授業でもお話ししましたが、現在では当たり前の道徳のように考えられている長幼の序、君主に対する忠、父祖・両親に対する孝、友人に対する義などが、儒教の教えが浸透する以前の倭においては、必ずしも自明の道徳・倫理ではなかったのです。ゆえに、これら…
難しいですねえ。NHKドラマの『大化の改新』は、藤ノ木古墳などの発掘によって浮かび上がってきたきらびやかな装飾品、その他高松塚古墳の壁画、隋唐の中国資料を参考にしながら衣裳デザインをしていると考えられますが、日常的にあのような装飾品を身に付け…
授業でもお話ししましたが、刑法を規定した律は、奈良時代においても規定どおりには運営されていません。律令国家は法治国家の体裁を整えていますが、その内実は天皇家と一握りの畿内豪族による専制体制であり、生殺与奪の権限も、法律以前に彼らの手に掌握…
乙巳の変の前段階でみたように、それをいうならば、蘇我蝦夷は氏族中第2の地位にあった境部臣摩理勢を自殺に追い込み、入鹿は山背大兄王を自殺に追い込んでいます。蘇我氏内部が内紛状態になり、この当時中立的な立場を貫いていた倉山田家は、最終的にクー…