日本史特講:日本仏教史(16春)

「八百比丘尼の告白」で、龍王が瞋恚のままに村を滅ぼしたといっているのは問題な気がします。神の立場にあるものが、契約違反で罰するならまだしも、怒りの感情に任せて…というのはどうなのでしょう。また、供養をし続ける娘の死で龍王の罪が浄化されるというのも、他力本願であるように思います。 / 八百比丘尼にあった龍王と仏教との関わりについて、日本では古来から神々や神道と仏教との関係が密接であったということでしょうか。

以前に神身離脱の話をしたとき、聞いてくれていたでしょうか。アジアにおける神はキリスト教的な神とは異なり、より人間的な存在です。龍王などは『妙法蓮華経』にも描かれ、東アジアでは半ば仏教的な存在になっていて、人間より優れた力を持っているものの…

宮澤賢治が構想した理想郷イーハトーヴは、授業で扱ったような生死の正しさをめぐる葛藤から生み出された、と考えてもいいのでしょうか。

イーハトーヴは、確かに理想郷ではあっても、生死をめぐる苦しみや悲しみが消滅している世界ではありません。むしろ、その葛藤が際立っている、あるいは、みなその問題に自覚的である、という言い方は可能かもしれない。現実の世の中を直接舞台とすると生々…

アニミズムの思想にある生命の供養の仕方について、日本の精肉を行っている方々もしているのでしょうか。

屠殺場では、「獣類供養」などの仏教的法会が行われ、供養塔の立っているケースが多いですね。なお、これは屠殺場に限らず、動物実験の行われる病院、研究所などでもみることができます。

人が捕食する場合の、人と宗教との関わりとは別に、人が捕食される場合の、宗教との関わりはあるのでしょうか。

上の話にもその要素は残っていますが、アフリカのブッシュマンの狩猟に関する言説を調査している菅原和孝さんによれば、彼らの狩猟は現代的なハンティング以上に生命の危険を伴う。ヒョウやライオンに殺される危険も、常にあるわけです。そうした緊張感のな…

日本だと、あまりベジアーゼ神話のような「肉を送る」話は聞かないような気がしますが、仏教と関係があるのでしょうか?

確かに仏教の影響もあるでしょうが、やはり狩猟という生業が、社会の表面から隠されてきたからでしょうね。しかし古代からのさまざまな物語が、動物の主神話の痕跡を伝えていることも確かです。今後の授業でも扱ってゆきますが、例えば以前に紹介した『出雲…

人は自分の手を汚すことから逃げて逃げてしまいますが、いつかは現実を体感しなくてはいけないので、人間がこの逃げ続けていたことと相対したとき、どうなるのでしょうか。同じ生活を続けて生き続けるのでしょうか。

どうでしょうか、難しい質問です。しかしただひとつ確実なのは、手を汚すことからいかに逃げようと、確実に自分の手は汚れてしまっている、ということです。そのことから目を背け続ければ、大切なものも見失う。いかに自覚し、責任を取るか。もちろん、ぼく…

末法から救うのが弥勒菩薩だそうですが、あの独特のポーズには何か意味があるのでしょうか。

半跏思惟のことでしょうか。あれは、世界の救済の方法を思考している姿だと考えられています。近年では、半跏思惟というポーズ自体はガンダーラ彫刻ではマイナスの意味を持ち、調伏される悪魔や罪を犯し苦悩する僧侶を表現している、との見解もあります。し…

末法の始まる時代は、中国と日本では差違があるようですが、なぜですか。

末法の開始期、すなわち仏入滅後からの時間をどのように考えるかに、経論によって複数の説があるのです。代表的なのは三時説と五箇説で、前者は正法・像法・末法、後者は解脱堅固・禅定堅固・読誦多聞堅固・造塔堅固・闘諍堅固となり、その年数の数え方には…

鰐とは何でしょうか。鯨とは区別されているのですか。

授業でもお話ししましたが、サメなのか(出雲地域では古来サメのことをワニと呼んできた)、伝説上の生きものなのか、あるいは別の生きものなのか。シロウサギの話などは南方系なので、ワニの話がそのまま物語として伝わってきたのだ、という見解もあります…

現在の出雲大社は、今回のさまざまな出雲神話と直接関係しているのでしょうか。また出雲神話は、現在の島根県において、大切に扱われているのでしょうか。 / いま島根県を異質な地域と思っているひとは少ないと思うのですが、いつから重要視されなくなったのですか。

出雲大社は、国作りを行った出雲の主神であるオホクニヌシが、王権側に国譲りの代償として祭祀を求め、創設された神社ということになっています。古代に出雲国造を奉祀者とし、そのまま現在まで繋がっています。各地に古代から近世に至る神話と、その再解釈…

国引き神話の八束水臣津野命は、男神でしょうか女神でしょうか?

男ですね。個人的見解ですが、ぼくは八束水臣津野命は、ヤマタノヲロチと同じものだと考えています。両者とも、山地を抜けて平地に肥沃な土砂をもたらす水流を神格化したものです。前者は『出雲国風土記』、後者は『古事記』にしか出てきません。すなわち前…

国引き神話は、日本海の交易ルートからみるべきではないでしょうか。

もちろん、それは考えられますね。しかし、国引きの対象となる地域と、島根の交易圏とは、微妙にズレがあります。隠岐や能登とは当然関係がありますが、同レベルで連絡のある九州が出てこない。また、朝鮮半島で島根半島と結びつくのは、東方の新羅ではなく…

当時の人々が外国の人々と話をするとき、現代でも歴史認識でもめているように、神話でもめるということはあったのでしょうか。

例えば、中国文化に対してはその権威が圧倒的なので、少なくとも中世までは同レベルで張り合う、といったことはなかったでしょう。中国江南の天地開闢神話を採り入れ、列島の始まりを語った『日本書紀』が良い例です。その後の中世神話も、中国神話、仏教、…

宇賀弁財天の頭頂に付いている宇賀神ですが、なぜ頭に乗ることになったのでしょう。何か意味があるのでしょうか。

如来と同レベルに神格化した菩薩像が、その本地仏=化仏を頭頂に載せるという儀軌が、仏教では一般的にあるのです。観音の変化身、すなわち十一面観音、千手観音などが、頭に阿弥陀仏を載せているのが典型でしょう。宇賀弁財天が頭頂部に宇賀神を戴くのも、…

臨済禅と浄土宗とを結びつける意図が、いまひとつ分かりません。

講義での推論は、浄土宗が法然の位置を卓越化するために、当時はまだ人々の記憶にあった「難解な先進的仏教」の体現者であった覚阿を利用した、ということです。またその背景に、天台青蓮院流と九条家のネットワークが関係していたのではないか、と。また教…

覚阿と覚恵の繋がりは、「覚」字を共有することからの推論とのことですが、その必然性はどのようなことでしょうか。

授業内でも少し話をしましたが、法系を同じくするグループは、法名の前の一字を共有していることがあります。中国ではもともと、安世高が安息国、竺仏図澄が天竺といったふうに、その1字が出身地域を指していました。しかし前秦・東晋の道安以降、仏弟子と…

仏教はノンヒューマンも救済の対象とするとのことですが、そこに性差別はなかったのでしょうか?

ああ、あまり雄雌の区別はみたことがありません。ただし、否定的に扱われる動物は雌が多く、経緯を払われる動物には雄が多い、とは一般的にいえそうです。日本現在最古の仏教説話集『日本霊異記』に、血沼県主倭麻呂という人物が、烏の邪淫をみて発心し、出…

レポートで用いる史料は、和訳、現代語訳されているものでも構いませんか。

2年生もいますので、その点は構いません。しかし西洋史や東洋史のひとはとくに、自分が読んでいるものが日本の文脈にすりあわされた結果なのだということ、翻訳とは新しい意味を創出する行為なのだということに、自覚的になってください。

レポートについてですが、例えばキリスト教とイスラム教など、宗教同士の葛藤ということでも構いませんか。

少し問題があります。講義のテーマは、いうなれば外来宗教と在来の環境文化との軋轢と融和です。キリスト教とイスラム教の葛藤を扱う場合には、どちらかが在来宗教の場合ということに限定させてください。地域と外来の構図は、見失わないようにしてください。

天台的な狭義の猿は、比叡山以外でもみられたりするのでしょうか?

あらゆる天台宗寺院に共通するものではありませんが、それこそ東叡山たる寛永寺や、日吉大社の末社である各地の日吉神社には、猿の造型をみることができます。

キリスト教では、定期的に公会議が開かれて教義の統一が図られていましたが、仏教ではそのようなことはないのですか。

新たな宗派が起こってくるとき、あるいは宗派内で新たな解釈が生じてくるときには、当然それに対する反駁が立って議論がなされます。宗派内の場合は、それを通じて正当性がいずれにあるかが判定されますが、仏教界全体の場合には、トップに立って真偽を判定…

煩悩にまみれると、仏と世界が別々のものにみえてしまうと言っていたが、仏と世界が同一にみえるとはどういうことなのだろう。

つまり、我々があらゆるものを分節、区別して把握していること、例えば動物/植物/人間/無生物といったカテゴライズなどは、すべて浅はかな知識によって仮構されるものに過ぎない。それゆえに、その区別を通じて種々の排除や疎外が起き、軋轢が生じ、とき…

覚阿が暴力を振るわれていますが、臨済禅というのは、考えを理解できない頭でっかちには力で分からせるような、体育会系の雰囲気を孕む宗教なのでしょうか?

仏教における修練とは、身心合一のなかでなされるべきものですから、身体の修練は欠かせません。現在の日本天台宗でも、千日廻峰行という、1000日の間、毎朝比叡山の峰々を縦走する荒行が存在します。歴史上、紆余曲折があるのですが、当時の日本仏教は知・…

覚阿は、どのようにして複数の外国語を学んだのでしょうか。

慧遠との筆談の問答をみると、覚阿の語学力は主にリーデイング・ライティングであったようですね。基本的に、当時日本で読まれた仏教書は漢文か梵文で書かれていますので、それらに精通してゆくということは、すなわち漢語・サンスクリット語に精通してゆく…

菩薩と十二神将が同一と捉えられることに、違和感はなかったのでしょうか。

本地垂迹などの考え方が進むと、結局あらゆるものが結びつけられ、融合させられ、同一視されてしまう世界になります。本覚論的な世界です。違和を説明するどのような筋道が立っているかが重要になるので、それが説得的であれば問題とはみなされなくなってゆ…

◎23の『耀天記』は神道大系が出典になっていますが、神道の文脈においてはどのように用いられているのですか。神仏習合の側面で、仏教関係の書物も入っているのでしょうか。

誤解があるかもしれませんが、神道の歴史のなかでいえば、近代の神仏分離以降の「純粋な神道」が異常なのです。近世以前は、伊勢神宮を除き神仏習合が当たり前の状態なので、中世の神道関係の書籍などは、みな仏教的要素、儒教的要素、中国的要素が混入して…

女性の嫉妬や悪行によって、蛇や猿へと変化してしまう。しかし、双方ともに神聖な動物であって、あまり酷い転生ではないように思うが。

以前にも言及したことのある『成実論』では、瞋恚を抑えられなかったものが蛇や蠍になり、落ち着きのなかったものが猿猴に転生すると書いてあります。いずれも、あまりよい位置づけではありません。授業でお話しした蛇や猿が威力のあるものと描かれているの…

蛇のイメージは、西洋でも同様なのだろうか。『聖書』などから、ずるい狡猾なイメージがあるのだろうか。

西洋では、蛇は死と再生を繰り返す不死の象徴です。現存最古の神話であるメソポタミアのギルガメシュ神話では、冥府に赴いたギルガメシュが獲得した不死の薬草を、蛇が奪って食べてしまいます。ゆえに人間は死すべきものとなり、蛇は不死になったという起源…

「道成寺縁起」について、土佐光重の画に出てくる清姫は、蛇というより龍のようでした。それは画家の想像なのでしょうか。

当時、神的な威力を持った蛇を描くには、龍の表象を採らざるをえなかったのです。こうした表象の選択によって、中国では皇帝の象徴であった龍も、次第に罪深いものと認識されるようになってゆきます。中国に定着した仏教の世界観では、龍は、東西南北の海を…

完成された「道成寺縁起」では、安珍も清姫も畜生道に落ち、僧の『法華経』的作善で成仏するという展開だったと思いますが、この「『法華経』はとてもありがたいものだ」という落ちにいまひとつ納得ができません。どちらかというと、安珍が清姫を騙したという因果応報の戒めだと思っています。何でもかんでも仏教に繋げてしまうことは、当時の風潮で当たり前のことだったのでしょうか。

もともと『法華経』の霊験譚として作られたものなので、『法華経』の素晴らしさを喧伝して終わるのは、形式として当然なのです。『法華経』提婆品は、変成男子による女性救済を説く経典として著名であり、それゆえに女性の罪業の強調、その救済という文脈に…