日本史特講:日本仏教史(16春)

殺生功徳論が普及してゆくなかで、それまで罪業論を支持していた集団、権力は、功徳論をどうみていたのでしょうか。また、罪業論はどういった情況で受け継がれていったのですか。

仏教的価値観のメインは、やはり殺生罪業論であったといえるでしょう。その価値観は、現在に至るまで広く普及しています。その浸透力、強固な定着の結果として、漁業の盛んな地、狩猟や屠殺に関係する地には、鳥獣魚をめぐる供養塔が立ち、林業地帯には草木…

オウム真理教の云っていることはデタラメと思っていたが、ポアの元となるような考え方が仏教にあったと知り驚いた。殺生を正当化するような考えが他の宗教にもあるのか、興味深い(聖戦とかがそうなのか?)。

イスラム教にしてもキリスト教にしても、絶対的正義に対立するものを滅ぼしても構わない、という教説が出現することがあります。宗教が正義を主張して排他的になり、自己批判を怠るようになると、必ずこうした考え方が生まれてきます。自分たちだけが正しい…

以前「涅槃図」を説明していただくなかで、描かれている動物たちにも力や徳があるといった説明をされていましたが、業によってそれにみあう動物に転生するのであれば、すべてもとは人だったということでしょうか。

前にもお話ししましたが、仏教は基本的な世界観として、現生の生命のあり方は仮の存在であって、必ずしも人間を中心とはみなしていません。ある動物が人間の転生したものだったとしても、その前は別の存在だったかもしれない。おおもとは○○だったという定義…

牛・馬と人間との関わり、その飼育に携わる人間の年齢や性別、身分の問題、あるいは仏教をはじめとする社会的な牛馬観に関して、みるべきまとまった研究はあるでしょうか。また、民俗事例を含め、文字史料や絵画資料で、このような牛・馬と人間との関わりを示す興味深い素材は、どのようなものが考えられるでしょうか。

古典でいうなら、佐伯有清『牛と古代人』ですね。その他、『動物の日本史』でも牛を扱った章がありますし、新川登亀男さんにも、牛に関係する包括的な論文がありますし、『霊異記』の堕牛譚に関しては、『歴史評論』の『霊異記』特集に、藤本誠さんとぼくが…

「牛に経文」という言葉を、『出曜経』の話をみて思い出しました。これは、畜生を人間より下にみるといった考えの影響で生まれた語と考えていいのでしょうか?

「馬の耳に念仏」などと同じ系統ですね。しかしどうも、これらの諺は、あまり仏教的ではないように思われます。仏教が通俗化する過程で、恐らく仏教文化の周縁、民衆の側から発生した俚諺でしょう。宗教の系統でいうなら、どちらかといえば、人間と動物を截…

徳や善行を著しく積んだ人間が、人間よりも高い地位の霊獣や神獣へ転生するという逸話はあるのでしょうか。

うーん、仏教では、霊獣も神の化身でなければ、やはり人間より下なのです。授業で紹介した『成実論』には、「若し少しく施分有らば、畜生に生まると雖も、中に楽を受くこと、金翅鳥・龍・象・馬等の如し」とあって、悪業のなかでも少々布施を行うなど善業の…

中島敦の『山月記』の李徴は、自負心が強く虎になってしまう。『成実論』に「傲慢な心が〜虎狼などに生まれる」とあり、類似していると思いました。『山月記』の原型は「人虎伝」ですが、これは仏教と関係しているのでしょうか。

「人虎伝」に限らずとも、中国には、人が虎に変身する物語はたくさん存在します。もともとは、虎をトーテム動物と崇め、毛皮を着込むことで変身する祭祀、儀式などを語るものだったのでしょうが、六朝の頃より、次第に虎への変身がマイナスの印象で語られる…

『成実論』の、「毛の多いことが牛のようであるなどの者は、悪口の業によってその種の畜生に堕ちる報を受ける」とありましたが、どうして毛が多いと罪になるのでしょう。ハゲの方が尊いのですか!?

うぅ…何か身につまされますね。いわゆるアニミズム的な価値観においては、獣と人間を分けるものは「毛皮」でした。それゆえに獣は毛皮を脱ぐと精霊=人間の姿になり、人間が毛皮を着ると獣に変身できたのです。このような発想を基盤として、多毛が未開や野生…

仏教は、畜生に対し嫌悪感を抱く面があるとのことだたが、「あの畜生は知り合いの生まれ変わりかも…」として、大事に思うこととは並立していたのですか。

この2つの考え方は矛盾しますが、別の面では相乗効果を持っていたのです。すなわち、嫌悪感を抱いている動物に自分が生まれ変わるかもしれないと考えれば、それを防ぐために努力をするでしょうし、大切な人が生まれ変わっているかもしれないと考えれば、憐…

『法苑珠林』は、ある項目におけるそれまでの書物の引用集のようなもの、とのことですが、1つの項目でいくつの書物からも引用があるとすれば、項目内で内容や説明に矛盾が生じるのではありませんか。

そうなんです、というとあまりにも無責任ですが、矛盾に満ちています。類書は恐らくインデックスとしての機能も持っており、そこには諸説を検討して結論を出す、という作業は求められていなかったと思われます。

類書は作成するのに莫大な時間がかかると思いますが、個人によって作成されたのですか。

例えば、北宋の『太平広記』などは、『法苑珠林』と並んで多くの志怪小説、伝奇小説の逸文を集め、中国中世の説話研究、思想研究には重要な意味を持っています。全500巻、1年余りで完成していますが、勅命を受けた12名が編纂に当たっていますね。一方の『法…

仏教では、他人の死を悲しむことが執着であり、罰として捉えられていたということを知って、驚きました。それを考えると、仏教の僧侶はとても冷たかったのではないかと思います。

うーん、ちょっと違いますかね。仏教では、人間の抱く精神的な苦しみ、悲しみのなかで、最大のものは愛別離苦であるといいます。愛する者と別れるのが最も辛いのだ、ということです。つまり、その現実を直視して、そこから解放されるにはどうしたらいいかを…

すべて血統や門戸で決まるというバラモン教に、なにか良い点はあるでしょうか。

現代的価値観からすれば、身分制を維持する機能が強いバラモン教には、あまり良い点はないですね。しかし、身分制が長く続くと、社会の安定を目指すために、ピラミッド構造の上層部だけでなく、ボトムラインの人々さえもがその持続を望むことがあります。す…

庚申信仰の三尸は、役割が倶生神に似ている気がしましたが、ルーツが同じなのでしょうか。

倶生神のルーツはインドまで遡りますが、もともとは冥界を掌る双子の神でした。仏教が中国に輸入され、東アジア化してゆく南北朝期には、仏教と道教が密接に交流し、お互いにお互いの要素を取り入れ変容するに至りました。人間の善悪を監督する仏教的神格は…

精進料理にも肉の再現がありますが、僧侶も肉を食べたかったということでしょうか。

ああ、なかなか面白いところを付いてきますね。精進料理は、中世に禅宗寺院で発展した文化ですが、確かに鳥や獣、魚の肉の味に似せたものが早くからありました。室町時代の『庭訓往来』十月状返には、点心類として「鼈羮・猪羮…」といった名称があり、スッポ…

戒律への違反について、教団が罰を下すということがよく分かりませんでした。また、不殺生戒が国家の法律になる場合、違反すると罰を下すのは国家や王権なのですか。

律は共同体の守るべき決まりですので、その行いが共同体の秩序を乱す、共同体の存在目的に明確に違背する、どうした場合に重い場合には追放、軽い場合には謹慎や労務が課されるということになります。国家による殺生禁断令の場合には、もちろん処罰は国家が…

江戸時代の生類憐れみの令も、今日紹介された殺生禁断令と同じものですか。これは「希代の悪報」といわれますが、民衆にとっていかなる意味があったのでしょうか。

はい、生類憐れみの令は、殺生禁断令の最も行き届いたパターンですね。最終的には犬のみがクローズアップされてゆきますが、本来は、老人や子供の保護など、人間のなかの社会福祉の問題も考慮した法令でした。犬の問題にしても、彼らは人間にとって最古のパ…

『大智度論』に紹介される鹿王の説話について、動物の主との類似、アニミズムやシャーマニズムとの繋がりがみられるとのことですが、ぼくのなかでは、インド社会は早くから文明化が進んでいるとの印象があります。バラモン教の教えのなかにも、自然との繋がりなどは確認できるのでしょうか。

いくら文明が栄えていても、自然との繋がりはあるものです。現代文明もそうなのですから。バラモン教の関係でいえば、その終盤の時期のブラフマナ文献、ウパニシャド文献などに記載される五火説があります。これは、死者の霊魂は天上へ昇り、いったん月に留…

地獄は動物が堕ちない印象があるのですが、動物どうしの殺生は罪に問われないのでしょうか。

動物に生まれるということは、地獄ではない畜生という道に入ることを意味するので、動物は地獄には堕ちていません。しかしそう考えると、人間を訴えに出てくる動物はどういう位置づけなのか。証人として召喚されているのか。いろいろ矛盾はあります。

子の間引きという行為で母親の罪が問われていましたが、父親が問われることはなかったのでしょうか。

おみせした画像の女性は、よくみると纏足をしています。すなわちこれは中国的画像なのですが、どうやら女性は男性を誘惑する性的な象徴と捉えられているようです。ゆえに、男性の罪は問われていません。酷い話です。

動植物への後ろめたさを示す説話が中世にはほとんど存在しないなか、地獄十王図の鬼による人体への墨引きに、北條先生が注目しているという話を中澤先生から聞きました。墨引きされているのが女性であるとの説も読みましたが、女性であることの意味は何でしょうか?

聖衆来迎寺の『六道絵』黒縄地獄相幅ですね。表現からすると、恐らく女性ではなかろうと思います。次回、プロジェクターでおみせします。中澤先生ご指摘のように注目はしているのですが、この『六道絵』は、中国の原画をほぼそのまま転用しているところもあ…

捨身飼虎のお話のなかで、菩薩の捨身をみて天人が喜び賛嘆したとの記述がありましたが、天人はどういった立場、情況にいたのでしょう。自ら捨身することができないのなら、王子を賛嘆するのは自己否定ではないでしょうか。

天人はこの場合、地上で繰り広げられる生命のせめぎ合いとは、別次元にいます。日本でいう神に近い立場です。彼らにとっては、地上の生命の葛藤などはかりそめのものにすぎません。例えば、肉体を持った菩薩が捨身をして転生するのが、天人の世界に当たるの…

一匹の虎を救うために自らの生命を差し出すことは確かに凄いことですが、それでは一度きりの救済にしかならず、他の人が真似できない点でもあまり評価できないと思いました。

救済という問題が出てくると、必ず出てくる問題ですね。確かに一理あるのですが、たいていは、目の前の生命を救済することができない、そうした勇気がない、あるいは他者より自分の方が大切と考えていることへの、言い訳として使われます。目の前のその個が…

捨身行は行き過ぎであり、やはり自殺であるように思われる。仏教は自分が犠牲になるのをよいこととしているそうだが、それによって悲しむ人がいることを考えない点に欠点があると思う。 / 自分の生命を奪うということについて、仏教はどう考えるのだろう。

授業でも少し説明しましたが、捨身行とは捨身施です。布施である限り、誰かのためにということのほかに、自分の執着を断ち切るという意味があります。何への執着なのか。すなわち、自分の身体、自分の生命への執着です。仏教では、人間は何かに執着すること…

輪廻を前提としないと殺生戒は生じませんが、そもそも仏教の目的は輪廻からの解脱のはず。解脱できないことを前提にしているとしか思えません。

仏教は、理想を説きながらも現実を見据えていますので、すべての生命が無条件に解脱するとは考えていません。逆にいえば、もしそうだとするなら、仏教は生命の鬩ぎ合う世界を説明できないことになります。むしろ、ほとんどの生命が煩悩の働きで悪業を重ね、…

仏教における生命倫理は縁起論、輪廻説が基本とのことだが、「縁起」と「業」は近しいものに感じられる。両者はまったく異なるものなのでしょうか?

授業でもお話ししたように、「縁」は、因と果の間に働く間接条件です。「業」は行為の集積。よって、業が何らかの果を導く縁になることもありますから、ケースによっては縁=業となります。しかし、縁自体は、その出来事が因果のなかでどのような意味を持つ…

動植物抜きで食べていくことはほぼ不可能なはずだが、なぜ仏教は食べてしまうことの正当化ではなく、罪業化を進展させたのだろうか。

非常に本質的な質問ですね。しかしその部分に、仏教の生命観、世界観、未来観が表れているのだと思います。殺生は、生命がその存在を維持するために必ずしなければいけないことだが、同時それは、他の生命という存在を奪うことになってしまう。この矛盾を正…

もともと不殺生は戒だったものが、次第に律となったということでしょうか。

そうですね、内面的な意味では、戒としての重要性が大きかったのだと思います。それが、仏教に僧伽=教団が生まれることによって、仏教の本質を規定するものとして、律としても位置づけられていった。教団で一律に遵守することから無理が始まった、といえる…

八百比丘尼の話のなかに、捕まった龍王の娘が、「泣いて赦しを乞うた」という記述がありましたが、何に対して赦しを求めたか分かりませんでした。

確かに、「命乞いをした」という方が、分かりやすかったかもしれません。しかしこのユルスという言葉も、例えば漁師に捉えられた魚介を僧侶などが贖い、海に帰してやるという放生譚のなかで、多く使われる言葉なのです。それらとの齟齬がないように、文章を…

八百比丘尼の話で出てきた人魚は、ディズニーや西洋の話に出て来るような人魚に近いイメージなのでしょうか? / 八百比丘尼の話ですが、自分自身に言い聞かせるような龍王の姿は、どこから考え出したのですか。

宮古島に伝わる人魚伝承に、ヨナタマ=海の精霊と呼ばれる珍しい魚が捕らえられ、焼かれて喰われようとしているのを、大津波が襲って村ごと破滅させてしまうというものがあります。日本にも、上半身は人間、下半身は魚という人魚形象が存在しますが、ここで…